第11話「理由、記載不能」
審理は昼、塔の食堂で開かれた。
王都から来た審理官は、ラウという名の小柄な老人だった。従者も剣も連れず、書類箱を1つだけ提げて坂を歩いて上がってきて、食堂の長机に着くなり言った。
「紙を全部、ここへ。話はそれからです」
セーレンの主張は簡潔で、書式どおりだった。囚人アルヴィス・ダルグレンは在監中に48回の逃走を重ねた。当直看守セオ・フィンチはこれを知りながら拘束せず、規程第9条により、囚人とともに処断されるべきである——。
「48回」
ラウ審理官は俺の日誌をめくりながら、繰り返した。
「監察官どの。その回数は、どの記録で数えられましたか」
「その者の日誌です。逃走のち帰還、と48回」
「ふむ。では、この記録は正確であると」
「囚人と看守の癒着の証拠として、正確です」
癒着の証拠として正確。都合のいいところだけ本物にする読み方まで、書式どおりの男だった。
ラウ審理官は書類箱から、番所の棚ごと運ばせた紙の山を順に検めていった。俺の日誌が2冊。古い日誌が5冊。床下から上がった規程の写しが48冊。それから、俺が最後に添えた1枚——規程の原本の、綴じ目の検分書。
「規程の原本は、綴じ穴が2組ある。古い穴と、新しい穴。第11条を含む頁の前後だけ、糸が新しい。つまりこの規程は、一度ほどかれて、頁を足して、綴じ直されている」
検分書を読み上げる審理官の声は、抑揚がなかった。
「検分は誰の手で」
「看守フィンチです。父が王都で製本業を」
「ほう。……確かに、2組ですな」
老眼鏡を持ち上げて原本の背を透かし見る仕草は、書類箱と長年連れ添った人間のものだった。この人も、書く側の人だ。それから審理官は、48冊の写しを1冊ずつ、あの綴じ目を確かめる手つきでめくっていった。長い時間がかかったが、誰も急かさない。セーレンだけが、革手袋を一度外して、また嵌めた。
「揃いましたな」
審理官は顔を上げた。
「第一に。持ち込まれた写し48冊のいずれにも第11条は存在せず、原本の綴じ直しの痕跡と併せ、当該条文は後年の挿入と認める。挿入の経緯は王都で別途調査する。第二に」
俺の日誌が、机の中央に置かれた。
「規程第2条。逃走とは、日を跨いで房を空けることをいう。塔の日は朝6時の点呼で区切る。この日誌によれば、囚人は48回の外出のすべてにおいて、点呼前に房内に在る。すなわち——規程の定める逃走は、一度も発生していない」
「詭弁だ!」
セーレンの声が食堂に反響した。
「その者は現に48回、塔の外にいた! 貴殿はそれを逃走ではないと言うのか!」
「私ではなく、規程がそう申しております。そしてただいま、囚人が出て戻ったことをご自身の口でお認めになりましたな。それも48度。——では、上申書にある『逃走中の処断』は、いつ、どの外出に適用するおつもりでしたかな」
食堂が、静かになった。
処断できる「逃走中」は、規程の上ではこの世に存在しない。存在しないものを処断すると上申した書面だけが、セーレンの署名入りで審理官の手元に残った。書式は先に刷ってあった。それがそのまま、彼の答案になる。
「監察官どのは王都へ。第11条の挿入の件で、聴取があります」
革手袋の男は、何も言わずに立ち上がる。去り際、一度だけ俺を見た。手袋の指が折り畳まれて拳になり、開かれないまま、男は食堂を出ていった。
勝った、のだと思う。
思うが、審理官の裁定には続きがあった。看守フィンチ。規程外の書式の創設、発見物の届け出の遅延、および夜間の持ち場離脱1回。処断には遠く及ばないが、看守職の解任は免れない。塔を管理する州の定めにより、追放をもって任を解く——。
「本人に非なし、と塔長から上申が出ておりますがな」
審理官は書類の隅を指で叩いた。ケラー殿の字が、そこに一行だけ足されている。いつもの細い字ではない。線の太い、押した字だった。
「非がないのに解任とは、酷なようだが。……あんた、記録所という場所を知っとるかね。麓の。あそこは今、綴じの分かる人間を探しとる」
それだけ言って、老人は書類箱を閉じた。
引き継ぎは3日で済んだ。マティアスが夜番を兼ねることになり、俺は日誌の書き方を教えようとして、やめた。あの男の「異状なし」は、あれで完成している。
イルサさんは、俺の荷物に干した茱萸をひと袋、黙って突っ込んだ。それから膳を運ぶ途中の廊下で、前を向いたまま言った。
「あたしはあの人を許さないよ。この先もずっとだ」
「……はい」
「でも、あんたが書いたことは本当だ。それだけは、あたしが知ってる」
オットは泣いた。14歳は泣いて、それから俺の羽根ペンの予備を1本、形見みたいに要求した。形見じゃない。麓に住むだけだ。
閣下とは、別れの挨拶をしなかった。解任された看守は囚人に会えない。規程どおりだ。規程どおりに、俺は昼の坂を降りた。
麓の記録所は、石造りの平屋だった。棚に綴りが並び、インクと膠と埃の匂いがして、驚くほど塔の番所に似ている。所長は俺の綴じの検分書を見て、明日から来い、と言った。俺の新しい職務は、上がってくる帳面の受け入れと保管。ヴェルグ塔の日誌も、満期になればここへ来る。
俺の書いた48回は、10年、俺の職場で眠ることになる。
その晩、俺は塔へ登った。
言い訳はもう組み立てなかった。どうせ4文字に縮む。夜の坂を歩いて、搬出口の閂を——外から開くはずのない閂を、こつこつと2回叩いた。
開いた。
「遅い」
閂を内側から抜いたのは、囚人だった。俺の顔を見て、それから俺の肩越しに夜の坂を見て、閣下はにやりと笑った。
「搬出口の閂は、外からは開かん。どうやって入るつもりだった」
「叩けば、開けてくれる人がいるので」
「牢の戸締まりを、なんだと思っている」
あなたにだけは言われたくない。
俺たちは番所に入った。新しい夜番のマティアスは——今夜は非番で、仮直は日勤がひとり、4層で居眠りをしている。この塔の夜は、相変わらず管理が甘い。原因の半分は、いま俺の前で勝手に椅子に座っている。
机の上に、日誌があった。マティアスの几帳面な字で、異状なし、が3日並んでいる。その次の頁は白い。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
閣下が言った。俺の定型を、俺の抑揚で、格子もないところで。
「……日誌に、書き忘れがありまして」
「ほう」
「解任の日、最後の頁を書きかけて、時間切れになったんです。記録は、書き終えていないと」
嘘ではない。嘘ではないが、この4行がこの夜の全部かと言われたら、違う。もう慣れた。書ききれない側を胸に置いたまま喋る技術なら、この2か月と少しで、俺は塔一番になった。
俺は白い頁を1枚さかのぼって、自分の最後の頁を開いた。書きかけの行がある。羽根ペンを構えて、続きを——
構えた手から、羽根ペンが消えた。
格子越しではなく、机越しに。閣下の指が、俺の指から軸を抜き取っていた。触れたのは指の背が一瞬。その体温は、書き取る間もなく離れていった。
「今夜のお前は看守じゃない。書くのは俺でもいいはずだ」
「閣下の字で書いたら、公文書偽造です」
「もう慣れた」
「開き直らないでください」
取り返そうとして、取り返せなかった。閣下は俺の日誌を引き寄せ、俺の書式で最後の欄を埋めていく。時刻のあとに読点。品目のあとは中黒。行の頭は半字下げ。7の字にだけ、横棒を入れて。
書き終えて、軸のほうを俺へ向けて、羽根ペンが返ってきた。
——本夜、看守セオ・フィンチ、塔外より帰還。異状あり。囚人、房内に在り。
「……異状あり、ですか」
「事実だぞ。囚人が房にいて、看守が塔の外から帰ってくる。この塔はどこもかしこも異状だらけだ」
異状あり。囚人、房内に在り。2か月と半、書けなかった4文字の欄が、あべこべの形で埋まっている。笑ってしまった。声を出して笑う夜番の声に驚いたのか、下の階で仮直の居眠りが椅子ごと倒れる音がした。
「セオ」
名を呼ばれた。初めて。
閣下は椅子の背にもたれて、机の上の日誌を見た。俺の48回と、これから増えていく誰かの夜を挟んだ紙の束を。それから、俺を見た。
「俺はあと何年かで、この塔の外のことを全部忘れる予定だった。予定が狂ったのは」
「あ、閣下。それ以上は」
「なんだ」
「日誌に、書けないんですが」
言い切られる前に遮った。この先を聞いたら、俺は書けない行を一生抱えて歩くことになる。それは今夜じゃなくていい。この人の刑期は長くて、俺の職場には、この塔の紙が全部届く。
閣下は少し黙って、それから、喉の奥で笑った。
「なら、書けるようになったら聞かせろ。俺は逃げない。あんたが当直じゃない夜に、俺が逃げると思うか」
帰り道、俺は自分の帳面に今夜のぶんを書いた。記録所の受け入れ簿ではない、私物の帳面だ。時刻、経路は坂道と搬出口、そして理由の欄。
羽根ペンは、しばらく動かなかった。検証のため、ではない。書き忘れのため、でも足りない。埋まらない欄の白さの意味なら、いまの俺は塔の誰よりも知っている。
——本夜、セオ・フィンチ、塔へ帰還。理由、記載不能。
書けない理由を書けないまま書く方法を、俺はあの人から2か月かけて教わった。だからこの1行は、たぶん世界で一番正確な嘘のない行だ。
明日も記録所で、紙の山が待っている。10年後にはあの日誌も来る。それまでに書けるようになっておくのが、いまのところ、俺の唯一の予定である。




