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9.涙


 スタジアムのイルカショーまではまだ時間があったので、先に他の場所を回ることにする。

 この水族館の売りの一つらしい、自然光を取り入れたチューブ型の水槽は思ったより大きく、なかなか見応えがあった。

 ペンギンの水槽や熱帯魚の水槽を回ったところでちょうど良い時間になったので、スタジアムへ移動する。

 もうかなりの席が埋まっていたが、後ろの方には空きがあったので、並んで最後列に座った。


(……うわ、しまった。前の方、めちゃくちゃ親子連れだ)


 すり鉢状になったスタジアムの座席は、最後列からだと前の方の席に座る客が大体見える。

 黒沼たちが座った座席の前には親子連れが多く、よく見ればチケット売り場前とクラゲの水槽で遭遇したあの親子がいるのも見えた。

 そもそも子連れの客が多いのだから、完全に避けきることは難しいにしても、まさかあの親子がいるところをピンポイントで当ててしまうとは。

 席を移ろうかとも思ったが、今から移動できそうな空席も見当たらない。

 キョロキョロしている自分に気づいたのか、白砥が軽く首をかしげた。


「どうしたの?」

「いえ、なんでもないです」

「……気になるなら、出ようか?」

「え?」


 何が、と聞き返す前に。


「男二人って、やっぱり気になったのかな、って思って」


 白砥はさらりと言って、周囲を見回した。


「女の子同士って結構多いけど、男同士ってあんまり見ないし。別にショーは見なくても……」

「いや、そういうわけじゃないです。大丈夫です」


 黒沼にとっては大して気にならなかったことだが、同性の恋人がいた白砥だからこそ、そこが一番気になったのだろうか。

 ならばいっそ自分の懸念になど気づかないで欲しいと思いつつ、そういうわけではないのだと答えれば、黒目がちの瞳がじっと自分を見てくる。


「じゃあ、何が気になってたの?」

「……それ、は」


 もしかしたら、あの家族のことを自分が気にしすぎなのかもしれない。

 チケット売り場で遭遇したとき、白砥は確かにどこか沈んだ顔をしていたけれど、彼らのことなどもう気にしてはいない可能性もある。

 だとしたら、自分がその存在を口にすることで白砥に余計な連想をさせてしまいかねないだろう。そう思って何も言えずにいれば、白砥は先程黒沼がしていたように辺りを見回し始めた。

 その視線が一カ所で止まり、ああ、と微かな声が漏れる。

 白砥の目は確かに、あの親子を見ていた。


「そういうことか。……本当、優しいなぁ、黒沼ってさ」

「優しくなんてないです。というか、逆にこんなの余計なお世話でしたよね、すみません」

「そんなことないよ。……ありがとね」


 どう答えればいいか悩んでいるうちにアナウンスが響き渡り、イルカショーが始まった。

 屋内で開かれているとは思えないほどの高さのあるパフォーマンスに、あちこちから歓声が上がる。

 イルカが飛び跳ねたり、尻尾で跳ね上げたりした水を観客席に掛けるという定番の演目では、わざと濡れる席に座っていた子供たちから明るい悲鳴が上がっていた。


「……根津さんはさ」


 その声に混じって、ぽつりと、白渡の声がする。

 ショーの音楽や歓声にかき消されてしまうくらいの、隣に座って白砥を気にしている黒沼だけに聞こえるくらいの、小さな声だ。

 白渡の方へと顔を向ければ、まっすぐ前を向く横顔が見える。

 けれど、その視線はどこか宙へと溶けてしまっているようで。


「子供が好き、なんだって。……いつからか、僕の前では言わなくなったけど」


 また水しぶきが上がって、子供たちの声がする。


「でも、家族が欲しいとはずっと言ってた。俺はさみしがりやだからって。一緒に暮らしたいっていうのは、そういう理由でさ。帰ってきたらお帰りって言われたくて、朝起きたらおはようって言われたくて、そういう人が欲しいって、ずっと言ってて」


 白砥の表情は穏やかだった。

 ただ、事実だけを、淡々と口にしているかのように。


「それが望みなら、叶えるつもりだった。僕にできることなら、全部やろうと思った。今の仕事を辞めるかどうかは、すごく悩んだけど……かなり言われてたし、もしもあと一年あったら、きっと辞めてたと思う。……そのくらい、あの人は、僕の全部だったんだ」


 照明が落ちる。

 白砥の表情も影になって、わからなくなる。


「それでも、僕じゃ駄目だったんだね。全部差し出すつもりでも、僕じゃ駄目だった。あの人の家族にはなれなくて、あの人の望むものを、用意することは、……できなくて」


 視界の端で、イルカが跳ね上がった。

 プールに向けて集められた照明が、水しぶきをきらきらと光らせる。


「結婚したって報告されて、皆に喜ばれてるときの根津さん、……本当に、幸せそうだった」


 その光と一緒に、薄暗がりの中で一粒だけ、白砥の目から光が落ちたように見えて。


「あの人は、きっと……良いパパに、なるんだろうね」


 消えてしまうかもしれない、と思った。

 灯りがついたら。影が消えたら。

 今隣にいる白砥は、一粒の涙だけを残して幻のように消えてしまうのかもしれない。


「白砥さん」


 それが怖くて名前を呼んだ瞬間、歓声とともに照明が戻った。

 プールの中ではまだイルカが跳ねている。

 驚いたようにこちらを見た白砥の頬は、乾いていて。


「白砥さん」

「黒沼?」


 ああ、この人はまた泣いてくれない。

 この人の涙を、まだ預けてはもらえない。


「白砥さん……」


 何を言えばいいのかわからないままに名前を呼べば、白砥は幼子に向けるような優しく穏やかな笑みを見せてくれた。

 泣いて欲しいのに。無理に笑って欲しくないのに。そう思う反面、慈母のようなその微笑みに安堵してしまう自分もいて。


「うん、どうしたの? ここにいるよ、大丈夫」

「白砥さん、俺」

「うん」

「俺、……俺」


 ショーが終わってしまう。拍手が聞こえる。もう時間がない。何か言わなくては。

 焦って手に力を込めたとき、違和感に気づいた。

 何かがある。何かを握り込んでいる。柔らかくて、小さくて、自分の手よりも少し冷たい何か。

 ――白砥の手だ。


「……っうわぁ!?」

「うわ声デッカ」

「すっ、やっ、すいませっ、おああ待ってください待ってください本当に俺そういうつもりじゃ、ごめんなさいすみませんあああ俺はなんてことを……!!」


 慌てて白砥の手を離し、なるべく小声で弁明しながら黒沼は両手を挙げた。これ以上許可を得ずに触れる気はない、という意思表示だ。

 まるで無実を主張したいかのようになったが、そんなつもりはさらさらない。

 実際、つい数秒前まではしっかりと手を握っていた自覚があるのだから、何一つ無実ではないとわかっているし。


「違うんです、あの、なんか、白砥さんが消えちゃいそうだって思って、そしたら怖くなって、捕まえておかなきゃって思って、思っ……思った、だけ、だったはずなんですけどっ……!」

「……っふふ」


 こちらを見ていた白砥のきょとんとした顔が、徐々に笑みをこらえたものになる。

 そうして最後には口元を押さえ、はっきりと笑い出した。


「ふっ……ふふっ、あは、っはははっ……な、なにもう、どうなってんの、黒沼の思考回路ってさぁ……!」

「ど、どどどうもこうもないですよ! えっちょっ白砥さんどうして笑ってるんですか!? いやゴミを見るような目で詰られることも覚悟していたので笑ってもらえてありがたくはあるんですが……」

「そっちこそどうしてそんな発想になるんだよ、僕が黒沼をそんな目で見るわけないでしょ! っていうか……っふふ、捕まえておかなきゃって、もう扱いが虫とかと一緒じゃない? あ、もしかして、知らない間に羽生えてた?」

「止めてくださいよ本当に天界に帰ろうとするの!」

「だから勝手に地上から追い出さないでよ! 虫になる心配をしてんのよこっちは!」


 何が面白かったのか、白砥はけらけらと笑い転げている。

 ただの上司と部下、あるいはただの推しと推しを推しているオタクという上下関係にありながら、何の許可もなく手を握るなどという明確な身体的接触に及んでしまった黒沼に対し嫌悪の目を向けずにいてくれることは本当にありがたいが、それはそれとして己が身の安全をあまりに軽視してはいないかとやや不安にもなった。


(白砥さんって、なんか……ちょっと自己評価が低めっていうか、自分なんて大したことないし、みたいに思ってるとこあるからな)


 黒沼からすればこの世のありとあらゆるもの全てに優先されるほど尊く大切な存在であるというのに、その白砥本人が自分を粗雑に扱うのだから、困ってしまう。


(だからやっぱり、白砥さんを大事にしてくれる人が必要なんだよ。白砥さんが自分を大事にしない分も含めて、白砥さんだけを特別大事にしてくれる誰かが……)


 誰のことも等しく優しく受け止める白砥のことを、それ以上に愛しく優しく受け止めてくれる誰か。

 そんな人間が現れたら、黒沼などすぐさまお役御免だろう。だがそれでいいのだ。そうなればまた今までと同じように、白砥を見守る壁や床や天井になりたいよくある限界オタクとしての毎日が始まるだけである。


(そうだ、それでいいんだ。……そうで、あるべきなんだ)


 だって白砥は、黒沼の推しなのだから。

 上司と部下であり、推しと推しを推しているオタク。それ以上でも以下でもない、自分たちの関係。

 そこを踏み越えてはいけない、と頭の中で警鐘が鳴る。

 越えたらきっと、全部変わってしまうから。

 白砥をこの場につなぎ止めようとした、己の行動の意味さえも。


「……はー、おっかしい。なんでちょっと手ぇ握ったくらいでさ、こんなわけわかんないくらい大きな話になるの……?」


 ショーが終わってしまったからか、先程までは席を埋め尽くしていた観客も少しずつ減っていた。

 黒沼たちの周囲も既に空席の方が多くなり始めていたが、別段急いで移動する理由もない。むしろ、周りの目が減ることは好都合と言えるだろう。

 ひとまず笑いの発作は収まったらしく、白砥が大きく息を吐いてから半ば呆れたように言う。

 黒沼は上げたままだった両手を下ろしつつ応えた。


「いやだって、普通に駄目じゃないですか。許可なく推しに触れるなんて、絶対に許されていいことじゃないですよ」

「だから、なんでそれを黒沼が言うんだって。決めるのは僕でしょ、僕の手なんだから」

「でもこれ二回目ですし、もはや情状酌量の余地もなくないですか」

「……そういや月曜日にも謝られたね」


 白砥の顔に苦笑が乗る。

 というか、月曜日の方がまだましなのだ。あれは根津に追われた白砥があんまりひどい顔色をしていたから、心配のあまり咄嗟に手を握ってしまったという、強いていえば白砥のための行動だったから。

 けれど今手を握ったのは白砥を引き留めたいというあくまでも黒沼のための行動で、もっといえば欲のようなもので、しかしそれを正直に白砥に告げることは、いくらなんでもできなくて。


「……握手会ってことにしませんか?」


 苦肉の策で絞り出した言葉は、何故か再び白砥の笑いのツボをついてしまったらしい。


「ふはっ……な、なに? 急になんで? 握手会って……いや知ってはいるよ、いるけどさ、なんで今出てきたの?」

「せめて有料なら許されるような気がしたので……」

「っくく、待って、笑いすぎて顎痛くなってきた……なんで当たり前のように払う気でいるんだよ、別にいいんだってば、手ぐらいさあ……」


 再び顔を覆って笑い出してしまったらしい白砥になんだかほっとして、黒沼は言葉を継いだ。


「俺にとってはそれくらい価値があるというか、大切なものなんですよ」

「僕なんかの手がぁ?」

「白砥さんの全部がです」

「……もう、黒沼って、なんでそうなの……」


 ふと気づく。

 白砥はもう笑っていなかった。

 それでも顔は伏せられていて、両手でしっかりと覆われたままで。

 微かな、黒沼にだけ聞こえるような声が、ぽつりと漏れて。


「……泣かせないでよ」

「っ……」

「ふふ、笑いすぎて涙出ちゃった。今年一番笑ったかもなぁ」


 わざとはっきり言いながら顔を上げた白砥の頬は、確かに濡れていたけれど。

 一瞬だけ見えた表情は、とても笑いすぎた人間のものには見えなくて。

 黒沼は何も言えずただ、ハンカチで涙を拭う白砥を見つめることしかできなかったのだった。


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