10.忠告
元々出張は好きではない。
さらに今回は輪を掛けて嫌だった。
しかし仕事である以上、嫌だからやりません、などというわけにはいかないのだ。
これでも一応、役職者という立場であるわけだし。
「やー、白砥さんが来て下さって本当に助かりましたよ! 今日はお忙しい中ありがとうございました!」
「大きな設定変更にならなくて良かったです。念の為夜勤のサンプルを確認したいので、明日の朝もう一度、根津と一緒にお邪魔しますね」
「はい! お待ちしてますんで! ……あー根津さん根津さん! 根津さんもありがとうございました! んであの、ご結婚ね! ご結婚はね、本当におめでとうございますでね!」
「わはは、何度目ですか社長! ありがとうございます!」
「何度祝ったっていいじゃあないですか、うちの若いのも見習ってくれればいいんだけどねえ、どうにも最近の若い連中ってのは、こう……」
生産対応を頼んでいる協力会社でトラブルがあり、このまま任せておいては納期に間に合わないかもしれないとのことで昼頃急遽決まった出張。
いつもならばこの手の緊急対応は中西が受け持ってくれるのだけれど、別件で彼が不在だったのともう一人の主任がたまたま有給休暇の取得中だったため、白砥が行くことになったのだ。
行き先は何度か中西とともに訪問したことのあるところだったし、事前に聞いた状況から対応が必要そうな内容もおおむね想像がついている。納期の迫った仕事も今はないから、役職者全員が留守にしていても問題はないだろう。
急な用件ならばどちらにでも構わないから遠慮なく連絡するようにと、残りの社員たちには伝えておいた。
だから、急な出張というだけならばまだ良かったのだ。
けれど営業として同行することになったのは、よりにもよって根津だった。
この時点でも十分嫌だったのに、いざ協力会社についてみれば強引に生産を続けようとした結果白砥が問題視していたパーツが周囲のパーツも巻き込んで破損しており、設定変更とパーツ加工の対応までをも余儀なくされて、どうにか日帰りで済むはずだった予定は即座に宿泊へと切り替わって。
幸い残業一時間で生産を開始することができたので、あとは夜勤の人間に任せようということになったのだが、そこから今度は接待が始まって。
根津とともに駅近くのちょっと高級な居酒屋に連れ込まれ、ようやく解放された現在は、もう日付が変わって三十二分経った夜中である。
(……これ、置いて帰って良いやつだよね?)
わははわははとお互い大声で笑いながら路上で肩を抱き合っている、協力会社の社長と根津の姿をやや離れたところから眺める。
営業職の御多分に漏れず、根津は酒の席での愛想が良く営業先と仲がいい。それ自体はいいことなのだろうが、明日のことを考えれば白砥としてはいい加減帰りたい。二軒目がどうとか聞こえるけれど、行くなら二人で行ってほしいところだ。
こちらも二人で向こうも二人、協力会社側のもう一人である専務は飲んでこそいたが比較的落ち着いているようだったので、適当なタイミングで社長をタクシーに詰め込むことくらいはできるだろう。
会社が手配してくれたビジネスホテルはここから徒歩十分もかからない場所なので、たとえ根津がしたたか酔ってもたどり着くことくらいはできるはずだ。
向こうの専務と目が合ったので軽く会釈をし、白砥はホテルに向かって一人で歩き出した。
(つっかれたぁー……初めての機械って、やっぱムズいわ)
社内の工作機械なら勉強も兼ねて一通り触ってきたけれど、さすがに協力会社のものは初めてだ。基本は同じとはいえ、細かい仕様は異なっている。そのため、想定よりも時間がかかってしまったのは悔しいところだ。
(もうさっさと寝たい……あーそうだ、中西部長に連絡だけ……)
スマートフォンを取り出せば、通知が何件か溜まっている。
メールの通知が二件、これはどちらも大して興味のないダイレクトメールだった。
メッセージアプリの通知は四件で、中西からが一件、黒沼からが三件だ。
小さく表示された数字に、白砥は表情を緩ませた。
(黒沼ってば、心配性だなぁ……もう平気だって、言ったのに)
根津との破局から、そろそろ半年が経つ。
別れてから二ヶ月目くらいまでは、本当に立ち直れるのかと不安になるほどに、些細なことで思い出しては自分で傷口を抉っていたけれど、近頃ではそれもかなり落ち着いてきた。
元々根津に対しての未練などはからきしないわけで、捨てられたことに対しての傷心だけが残っていた状態だったから、その傷さえ癒えてしまえば根津の存在に対してもどうこう思うことはない。
さすがに今回のように二人きりで長時間の移動を強いられるのは、何となく居心地が悪くて嫌だけれど。
一方の根津はもう完全に白砥のことなどどうでも良くなったのか、黒沼が冷徹に対応したあの一件以来白砥に構ってくることはなかった。
今は白砥の前であっても幸せそうな気配を隠しもしない。それが少々気に障ることもあったけれど、新婚なのだし仕方がないかと割り切っている。
先程の飲み会など、隣に白砥がいるにもかかわらず社長相手に妻の惚気を吐き出しまくっていたのだ。黒沼がいたらきっと、絶対零度の視線で睨み付けてくれただろうに。
(あ、良かった、中西部長の方も落ち着いたんだ。えっと……念の為夜勤の生産サンプルを明日の朝確認してから帰ります、でいいかな)
こんな時間なのに既読はすぐついて、ありがとう、すまん、おつかれさま、のスタンプが立て続けに送られてくる。それにお疲れさまでした、と送り返して、白砥は黒沼とのトーク画面を開いた。
一件目は設計部の全員が特に問題なく定時までを過ごせたこと。二件目は根津と二人きりで辛くないかという心配。
そして三件目には、何時になってもいいので終わったら連絡欲しいです、と書かれていた。
(何時になっても……っていってもねぇ。送られてきたのは十時だし、さすがに、もう十二時過ぎちゃってるしなぁ……)
最初の水族館以降も、この五ヶ月で黒沼とはしばしば出かけていた。水族館だけでも場所を変えつつ五回は行っただろうか。話題の映画も一度見に行ったし、ただ買い物をして食事をしただけの日もあった。
黒沼に会うのはいつだって楽しかった。こういっては失礼なのかもしれないが、白砥のことを大切にしようとするあまり時々おかしな方向へ突っ走っていく彼が面白くて、会えばいつでも笑っていられた。
会社では相変わらず完璧に無口で無愛想で無表情、白砥には仕事上の用件がない限り一切話しかけてこないどころかろくに目さえ合わないところも、プライベートでの面白さを引き立てて、いつの間にか白砥はすっかり週末を楽しみにするようになっていたのだ。
(そういや黒沼の机、大分ボールペン増えて来ちゃったよなぁ。さすがにそろそろ違う物がいいんだろうけど、机の上にあっても自然な物ってなんだろ? ……メモ帳とか?)
一番始めに行った水族館で、帰り際に黒沼は土産を見たいと言った。
やけに真剣な顔で悩んでいたから、てっきり誰かに買ってやるのかと思ったら、自分のために買いたいのだという。
――できれば、会社に置いてても自然に見えるものがいいと思って。
――ん? 実用性の話じゃなくて?
――使えなくてもいいんです、置いておいて不自然でなければ。……見たときに今日を思い出して、俺が嬉しくなりたいだけなので。
その言い草がなんだかとても可愛くて、ならもうそれっぽい物全部買ってあげるよとメモ帳からなにから全部を売り場のかごに入れようとしたら慌てて止められて。
結局彼が選んだのは、ノック部分に魚の飾りがついたボールペンだった。
押すと地味に痛く、確かに実用性はあまりなさそうだ。
――これならペン立てにあっても不自然じゃないし、多分誰も使いませんしね。
――……あのさ、僕も同じの買っていい?
――うぇっ!? あっいえ嫌とかではなくてですね、ただその俺が白砥さんと同じ物を持つとかあまりに不敬……いや待てよ、推しの持ち物を特定してひっそり買うのはむしろ一番よくある推し活の可能性が……?
――そうなの? じゃあいいじゃん、同じの買わせてよ。あ、もちろん会社には持っていかないから、安心して。
その一件を皮切りに、どこかへ出かけるたび二人で同じ物を買った。
ほとんどはボールペンだったが――たとえデザインが似ていようとも、別の場所で買った物であることに意味があるのだ――、たまに定規や消しゴムのときもあった。
そうして一緒に買った物を、黒沼は会社に、白砥は自宅に置くのだ。
誰も知らない二人だけの秘密のようで、最初は黒沼の机を見るたびになんだかドキドキしたものである。
(あー、でもメモ帳は大体みんな裏紙の束使ってるしなぁ、わざわざ買ったのを置くほどじゃないか……そうだ、クリップとかどうだろ、この間の水族館で可愛いの売ってたよね。でも机の上だとなくなっちゃうかな、クリップっていつの間にかなくなってること多いし……まあ、かと思えばいきなり増殖しててびっくりするけど)
リビングの棚に日常生活ではあまり使わない小物が一つ増えるたび、胸の奥にある傷が一つ閉じて、静かに消えていくような気がする。
それはどれも全てありきたりな、物としては大したことのないものだけれど、一つ一つに黒沼との忘れたくない思い出が詰まっているからだ。
だからそこに次は何を増やそうと考えることは、白砥にとってとても楽しい時間であった。
「――晶、お前、俺を置いていくなよ」
不意に背後から聞き慣れた声が飛んできたのはそのときだ。
どこかふわふわと温かかった気持ちが、急に冷えていく。スマートフォンを作業着のポケットにしまい小さくため息をついて振り返れば、ほのかに赤い顔をした根津が立っていた。
根津は飲んでもあまり顔に出ない性分だから、これはかなり酔っているに違いない。
「なに、根津さん。二軒目行くんじゃなかったの」
「行かねえって、明日もあんだから」
「その発想はあったんだ」
「あるわ。お前、俺をなんだと思ってんだ」
酒のせいかやや口調を荒くしながらも、意外にしっかりした足取りで隣に並んできた根津が、ぽつりと言った。
「……なあ晶。ごめんな、いろいろさ」
一番嫌なタイミングで出てきた、一番聞きたくなかった言葉に、白砥は深く息を吐く。
「まだ言ってんの? 前に、謝るの止めてって言ったよね」
「いや、だってお前、一応しっかり謝ってはおきたいだろ」
「そういうところが嫌だって言ってんの。僕が謝られたくないって言ってんだからさ、本当に謝罪の気持ちがあるなら僕の要望を聞いてくれよ」
「そうは言うけど、お前に謝らねえと、俺の気持ちが片付かねえし」
「……あのさ、そういうとこだよ、本当に」
あくまでも真面目な顔でこちらを見下ろしている根津の胸ぐらを掴んで睨み上げ、白砥は言った。
「僕への謝罪を幸せの免罪符にするなって言ってんだよ。……今のは聞かなかったことにするから、二度と言わないで」
「っ……晶、お前」
「あといい加減名前で呼ばないで。そっちが捨てたくせに、いつまで彼氏ヅラして僕に関わる気なんだよ。そういうの、大事な大事な可愛い奥さんにも失礼なんじゃないの?」
「……」
大きな身体をぐいと押し返して立ち去ろうとしたら、その腕を掴まれた。
苛立ちを込めて渋面を作ったものの、根津は気にせず険しい顔でこちらを見ている。
「これきりにする。もうこれきりにするから、最後に」
「……何」
「悪いことは言わねえから、黒沼はやめとけ。アイツは俺と同じで元はノンケだぞ」
「……知ってるし、そもそもあの子はそういうのじゃない」
「そういうのだろ。最近のアイツの目、前の俺と同じだよ。あのときだって本当は、二人だけで飲みに行ったんだろ? 誰も誘われてねえって、設計の連中が言ってたし」
「確かに二人で行ったけど、だからなんなの。同じ部署の上司と部下だよ、別におかしな話でもないでしょ」
黒沼の予想通りにいらぬ詮索をしてきたことに呆れ返って答えれば、根津は整っていた髪をぐしゃぐしゃとかき回して言った。
「あーもうお前、こういうのなんでわかんねえかなぁ……あのな、そうやって俺を騙そうとするところがもう怪しいんだって。しかもアイツ、明らかに俺を牽制して来やがっただろ。ありゃどう考えても」
「っだから、そういうのじゃないって言ってんだろ!」
許せなかった。
自分のことならどうだって良かった。何を言われたって、こんなに腹は立たない。
けれど、大切な部下である黒沼のことを悪く言われるのだけは、許せなかった。
「あの子にとっての僕はただの偶像だよ。僕を通して理想を見てるだけだ。テレビの向こうのアイドルと同じで、自分の手が届くなんて思ってない。……あの頃の根津さんとは、根本的に違う」
「どうだかな。最近はテレビに出てるアイドル相手だって、本気で結婚する気になっちまう人間もいるんだぜ? そうでなくても男なんてのは盛っちまえばわからねえ。据え膳食わぬは男の恥、なんてのは古い言葉じゃねえんだぞ」
「……いい加減にしてよ」
「アイツ、俺より背が高いじゃねえか。ガタイはまあ、俺の方がいいだろうけど。今みたいにされたら逃げられねえぞ? 大体、可愛がってる後輩に迫られたら、お前のことだからどうせ拒否れねえだろうが。そのままなし崩しにヤラれても知らねえぞ」
「根津さんとあの子を一緒にしないで」
「なあ、わかってくれよ晶。俺はただ単にお前が心配なんだ。元彼として、責任も感じてる。……お前の四年は、俺が全部無駄にさせちまったから」




