11.推しだから
「……」
もう言葉が出なかった。
腹の中にぐちゃぐちゃとしたものが沸いては崩れ、崩れては沸いて、強すぎる感情の波に身体が震えているのがわかる。
「とにかく、せめて黒沼はやめとけって。どうせまた同じになるだけだって、いくらお前でもわかるだろ? 下心満載でフラれたお前を慰めて、うまいこと後釜に座った俺と、今まさにこうなってんのが何よりの証拠じゃねえか。泣くはめになんのはまたお前だぞ、これ以上会社に居づらくなるようなことすんなって」
黙っている白砥をどう思ったのか、根津は気遣わしげな顔で言葉を続けてくる。
その声も、視線も、顔つきも、全てがどうしようもなく、腹立たしくて。
「設計からお前がいなくなったら、中西部長だって困るだろ。だから……」
「黙れよ!!」
つかまれていた腕を今度こそ力任せに振り切って、白砥は震える声で吐き捨てた。
「全部、全部、自分勝手に僕を捨てたアンタにだけは言われたくない!!」
「おい、晶待てって……!」
根津の制止を背中で聞いて、もう見えるところまで来ていたホテルのエントランスに勢いよく駆け込む。カードキーは事前にもらっていたからフロントの前を素通りし、ちょうど止まっていたエレベーターに飛び乗った。
エレベーターのドアが閉まる直前、根津がゆっくりとエントランスに入ってきたのが見えて息を吐く。
追いかけてくるつもりは、さすがにないらしい。
(……あーもう、最悪だぁ……)
怒りとも悲しみとも悔しさともつかない感情がわき上がり、ぐちゃぐちゃと意識が乱れていく。磨き上げられた操作パネルに映る自分の顔があんまり酷くて、笑ってしまった。
半分くらいは、酒のせいだとわかっている。根津も白砥も、今日はしたたか飲まされているから、まっとうな判断力など期待はできない。
冷静に考えれば、失恋による白砥の落ち込みようを誰よりわかっている根津の、もう一度社内恋愛に失敗した場合に白砥がどうなってしまうのか、という心配はもっともなものだろう。
白砥だってそのくらいの自覚はあるから、これが友人同士なら同じことを言われたって恐らくあれほどに腹を立てたりはしなかったのだ。
けれど根津は、今の状況を作ったそもそもの張本人で。
その上共に過ごした四年間を、全くの無駄だった、なんて言い切られてしまったから。
(無駄だったなんて、勝手に決めないでよ。僕が仕事を辞めたら困るなんて、早く辞めて欲しがってたくせに言わないで。……自分が救われたいだけで謝ってきたあなたと、僕の幸せだけを祈ってくれた黒沼を、一緒にしないで)
吐き出せなかった思いを、ひとつずつ自分の中で言葉にしていく。胸の中で暴れていた黒いものに名前をつけて、ゆっくりと、順番に、片付けていく。
そうやっていつも通りに激情を抑え込めば、結局最後に残るのは虚しさなのだ。
(ああ、あの日と一緒だね。あなたが僕を捨てた日と、まるで一緒だ)
夜通し泣いて泣き続けた後、空っぽの胸に残ったのは虚しさだけだったのを思い出していれば、ぽーん、と音を立ててエレベーターの扉が開いた。
人気のない廊下を早足で進んで部屋に入り、すぐさまドアを閉める。
「あー……」
白砥はそのまま床に座り込んで息を吐いた。
本当はもう何もしたくない。このまま部屋の隅でうずくまって、ただ眠ってしまいたい。
けれど、明日もそれなりまっとうな社会人でいるためには、最低限のことだけでもしておく必要があるだろう。
のろのろと立ち上がっておざなりにシャワーを浴び、一通り寝る支度を済ませる。
スマートフォンを充電しておこうと手に取って、そういえば黒沼には何も返事をしていなかったと気がついた。
とはいえ時計を見ればもうとっくに二十五時を超えており、メッセージを送ることさえはばかられる時間だ。
(……でも、朝起きてなにも来てなかったら、それはそれで心配しちゃうかな……)
ベッドに腰掛け、回らなくなってきた頭で文面を考える。
『接待があってさっき終わりました。遅くにごめんね。明日の朝サンプルを確認して、問題がなければ戻れます。また連絡するね』
とりあえずこれでいいか、と送信してスマートフォンから手を離した途端、それが振動し始めたので白砥は慌てた。
急いで取り上げれば、着信を告げる画面には黒沼涼太の文字がある。
こんな時間に、という困惑と、一番聞きたかった相手の声が聞ける、という喜びで、反射的に通話を開始したものの言葉が出ない。
(あ、どうしよう、何か、何か言わなくちゃ)
もしもし、の一言すら口から出てこずに焦っていると、そんなことなどお構いなしとでも言うように、いつも通りの平坦な声がした。
『白砥さん、お疲れさまです、黒沼です。急に電話しちゃってすみません、驚きましたよね』
普段と何も変わらない、ともすれば素っ気なくも聞こえる黒沼の声。
それが今は、何よりも白砥の心を和ませてくれる。
『……白砥さん?』
「あ……ごめん。えっと、お疲れさま。あの、僕の方こそごめんね、起こしちゃった?」
『いえ、まだ起きてましたから』
「そっか。良かった」
『……何か、ありました?』
気遣わしげな色の混じった黒沼の声に、よく気のつく子だなと感心する。他人に興味などないように見えて、その実黒沼の観察眼はかなり確かだ。
以前そう言ったら、それは白砥さんが俺の推しだからで、他の人のことはかなりどうでもいいです、と無表情に言われてしまったけれど。
「んー……ちょっとね。根津さんと喧嘩しちゃって」
『え、大丈夫ですか? 警察呼びました?』
「っふふ、さすがにそこまでの喧嘩じゃないから大丈夫。ちょっと口論になっただけ」
どういう方向の心配をしているのか。
即座に出てきた警察の二文字に、相変わらず発想がぶっ飛んでるなあ、と楽しくなって、単純な自分に笑ってしまう。
「喧嘩っていうか……一方的に僕が怒った、の方が近いかも。向こうは多分、なんであいつキレてんだ、くらいの感じでいると思うよ」
根津からすれば、親切に諭してやったのに言うことを聞かない白砥の方が悪い、と思ったまであるだろう。
しかし、彼にどう思われたのだとしても、ただ黙って受け入れるわけにはいかなかったのだ。
「なんかさぁ、元彼ヅラで今更ごちゃごちゃ言われちゃって。自分のせいで四年間無駄にさせたから責任感じてるとか、大きなお世話だよっていうね」
『……それは』
「根津さんに告白されたとき、確かに僕は言ったよ、男同士なんてやめた方がいいってさ。でも四年だよ? 四年も経てば、普通に飽きることだってあるし別れることだってあるじゃん。それを今更やっぱりあのときの自分が間違ってた、そのせいで時間を無駄にさせたなんて言われてもさ……」
乾いた笑いを零して、白砥はベッドに転がった。
「僕は結果はどうあれその四年間をなかったことにするのは違うよなって思ってたけど……あの人にとってはもう、その四年自体がなかったことにしたいようなものなんだ、って思ったら、なんかもう、頭の中がくちゃくちゃになっちゃって」
いい思い出にして欲しかった、なんて言うつもりはないけれど、自分との時間が最初から全部間違いで全部無駄だったと扱われるのは、あんまり虚しくて。
『……俺に言われても、だとは思うんですが。きっと、間違いでも無駄でも、なかったと思いますよ』
静かな声が、耳を押し当てたスマートフォンから聞こえてくる。
『二年前の白砥さんは、本当に幸せそうでした。それは、根津さんが恋人として、隣にいたからです。俺は、あのときの二人の、幸せそうな顔を覚えてます。だからそれが全部間違いだったとか、無駄だったとか……そんなふうには、とても思えません』
勝手にのぞき見ておいてあれなんですけど、と申し訳なさの混じった声に、つい笑ってしまった。
『だから、根津さんが何を言ってきても、気にすることないと思います。白砥さんがそう思わない限り、白砥さんの四年間が無駄になることは、ないんですから』
「……うん。ありがとね、黒沼」
『いえ。本当に、いろんな意味で俺が言うなっていう話ではあるんですが』
「いろんな意味で?」
『なんと言いますか、お二人のそういうところをうっかりのぞき見た上での発言、しかも恋愛経験無しの陰キャオタクが恋愛を語るなど、完全にお前が言うなのヤツだと思い……』
「でもさ、僕は嬉しかったよ。だからありがと」
ああどうしようやはり天使、という微かな呻きをスマートフォンのマイクが拾い、白砥は笑った。いつも通りの黒沼に、なんだかほっとする。
「ほら、やっぱり黒沼って優しいじゃん。こんな優しい子を引っ張ってきて下心丸出しの自分と比べるなんて、ホントわかってないんだよなぁ」
『……え、……もしかして、根津さん、俺のことも何か言ってました……?』
「言ってましたよー。ほら、最初に飲んだ日にさ、黒沼が気を利かせて、二人きりだってことごまかしてくれたでしょ? あれね、あとで設計の子たちに一緒に行ったか確認してたらしいのよ。それで、お前らが二人で飲みに行ったのは知ってるぞ、から始まってさ、黒沼のことをごちゃごちゃ言うから、僕もさすがに腹が立って」
『……そこまでするか』
「ねー。びっくりしちゃった。しかも、黒沼が自分と同じで下心があるとかなんとか言い出してさ、黒沼のはあくまでも推し活なんだからそういうんじゃないよ、っていくら言っても聞きやしないんだもん。やだねー、面倒くさい酔っ払いって」
呆れたような黒沼の声にしみじみと同意して、白砥はころんと寝返りを打った。
(ほらね、違うんだよ、根津さん)
黒沼は根津とは違うのだ。下心で白砥に近づいてきたわけではない。
分類上は確かに好意という名になるだろうが、それはとても純粋なものだ。ただ、白砥に幸福であって欲しいという、優しく清らかな祈り。無私の献身。
――だからこそ白砥の方が、黒沼に惹かれてしまったのだ。
(下心があるのは、僕の方なんだから)
もしも黒沼が、四年前の根津のように強引に迫ってきたのなら、きっと白砥は心を開けなかったはずだ。
けれど彼は白砥に優しく寄り添うだけで、なにも求めては来なかった。
いつだって、黒沼は自分から捧げるだけだった。白砥が何かを返そうとしても、良いんですこれは推し活なんですから、などと言って受け取ろうとしないその澄み切った献身に、暗く淀んでいた胸の奥が少しずつ美しいものを取り戻していって。
黒沼という存在の重さは徐々に増していき、気づいたときには、簡単には手放せないほど大きくなっていて。
(本当に懲りないよなぁ、僕って)
傷心のタイミングで優しくしてくれる相手になびいてしまうのは、確かこれで三度目だ。これまでの恋愛経験と照らし合わせれば、白砥の恋愛はそこから始まるものだといってもいいくらいの割合になってきた。さすがに、少々情けない。
それでも、今回ばかりは間違えないから。
(うん、大丈夫、わかってる。黒沼には絶対、僕のせいで道を踏み外させるようなことはしないから)
この恋は、叶えてはいけないものだ。
そのくらいの分別は付いている。
黒沼にとっての白砥は恋愛対象ではない。推し、というものに恋愛方向の感情を抱く人間もいるようだが、黒沼にとっての推しとはそういうものではないのだと、彼自身が以前言っていた。
だから白砥が求められているものは、彼の理想の推しとしての振る舞いだけ。
白砥晶、という人間それ自体を求められているわけではないと、わかっている。
(ちゃんと隠しておくから。気づかれないようにするから。だから……)
白砥のこんな思いなど、黒沼にとってはきっと邪魔なだけなのだ。
黒沼の理想でいられる間だけでいい。黒沼の視線が、あの優しく清らかな祈りが、別の誰かに向かってしまうまででいい。
(……ごめんね、黒沼)
それまではどうか、その優しさに甘え、浸っていることを許して欲しい。
つないだ手を離されたときに、縋ることだけはしないと約束するから。
『――駄目ですかね』
「……え、ごめん、なにって?」
ぼんやりしていたら黒沼の言葉を聞き逃したようだ。慌てて聞き返せば、いつもの淡々とした声が返ってくる。
『いや、今からそっち行ったら駄目ですかねって言ったんですけど……あ、終電終わっちゃってますね。さすがに無理でした』
「……また急にすごいこと言うね?」
『白砥さんを一人にしておきたくなくて』
「うわ、イケメンの台詞じゃん」
『イケメンではないです。普通に心配なんですよ、だって明日は根津さんと二人だけで帰ってくるんですよね? 何かあったらすぐに連絡ください、というか警察を呼ぶことをためらわないでくださいね。防犯ブザーとかありますか? スマホの緊急通報もありますからね。白砥さんは優しいので手心を加えたくなるかもしれませんが、万一の際には思い切りが大事ですからね』
「さすがに過剰防衛で怒られると思うんだけど」
どこか気遣わしげな気配のある平坦な声音でとんでもなく過保護なことを言ってきた部下に、白砥は小さく笑った。
「もー、めちゃめちゃ心配してくれるじゃん」
『当たり前じゃないですか』
「まあ、なんたって黒沼の推しだもんねぇ、僕」
『……そうですよ』
そう。自分は黒沼の推しだから。
そう呼んでもらえている間だけは、優しくしてもらえるのだから。
「わ、ヤバい、すごい時間になっちゃったね。そろそろ寝なきゃ」
『そうですね』
「明日起きられそう?」
『無理めですけど、努力はします』
「僕もです。ヤバいな」
『お互い頑張りましょう』
「おー。……あ、じゃあさ、先に起きた方がモーニングコールしようよ。そしたらなんとかならない?」
『二人揃って寝坊した場合はなんともならないですね』
「ならなかったかー」
冷静な突っ込みがあまりにも黒沼らしくて、笑ってしまう。
「まあ、なんとかなることを信じよう。おやすみ、黒沼」
『そうですね。おやすみなさい、白砥さん』
最後の挨拶をすれば、あっけないほど簡単に回線が切れた。
ホーム画面に戻ったスマートフォンをしばらく眺めてから、白砥はその画面を消すと充電コードを差し込んで目を閉じる。
できることなら黒沼より早く起きて、冗談めかしたモーニングコールの約束を、現実にしたいと思いながら。




