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12.告白


 このところ、どうも黒沼の態度がおかしい。

 薄々感じていた疑念が確信に変わったのは、出張から帰って一ヶ月ほど経った頃だ。

 この一ヶ月、設計部はやや忙しく、残業や休日出勤が白砥や中西以外にもちょくちょくあったため、白砥は黒沼に対して週末のお誘いをなんとなく掛けられずにいた。

 基本的に白砥の方が仕事の都合で休みを潰すことが多いから、この日は空いてるんだけど、という連絡を白砥がすると、それならここへ行きませんか、という返事が黒沼から来る、というのがこれまでの二人の通例だった。

 だから白砥が何の連絡もしなかった以上、週末の外出がなかったことは別段おかしなことではない。

 気になるのはそれ以外の部分――黒沼の机から少しずつ、二人で買った土産物のボールペンなどが消えていっている、ということの方なのだ。


(……もう、終わりってことなのかなぁ)


 もしかしたら、あの出張の日の夜に送られてきた黒沼からのメッセージを真に受けて、連絡してしまったことがまずかったのだろうか。

 それともそのとき勢いで話してしまった、根津との喧嘩の方だろうか。

 ぐるぐるといろんな思いが頭の中を巡るけれど、一体何が悪かったのかと黒沼に直接聞くわけにもいかず、白砥は複雑な気持ちを抱えたまま日々を過ごすほかなかった。


(仕方ないよね。追いかけないって、決めたんだから)


 黒沼が自分に伸ばしてくれた手を他の誰かのところへ向けるのなら、それを引き留めるようなことだけはするまいと決めていた。

 本当は、泣きながら縋ってしまいたいけれど。どこへも行かないで欲しいと、黒沼のことが好きなのだと、言ってしまいたいけれど。

 この恋を叶えないと決めたのだから、せめて少しでも「黒沼の理想であった白砥」の姿を汚さないよう、離れていく彼を笑って見送りたい。

 それが、こんな自分にまで優しくしてくれた黒沼を不埒な目で見てしまった白砥にできる、せめてもの償いだろう。

 そんなことを考えていた水曜日の夜、黒沼から久しぶりに連絡があった。


『突然すみません。今週末、お時間ありますか?』


 たったそれだけの短い文章にも、なんとなく互いの距離が開いてしまった気配を感じる。白砥は一つ深呼吸してから、慎重に返事を打ち込んだ。


『大丈夫だよ。どこか行く?』

『少し、お話ししたいことがあって。前に行った居酒屋とかでも、いいですか』

『駅前のね。じゃあ待ち合わせ、夕方でいい?』


(あー……これは、終わりだろうな……)


 二人の始まりと終わりが同じ店、なんて、なかなか詩的かも知れない。

 そんなことを考えながら過ごす一日はやけに長くて、土曜日までが遠く思えたけれど、白砥に見える範囲の黒沼はいつもと変わらない様子だった。

 普段通り淡々と仕事をする彼の姿を見ていると、自分の心も凪いでくる。

 今の関係が終わったとしても、黒沼は恐らくここにいるし、自分もここにいるのだ。表向きは何も変わらない。もう今までのように関わり合うことはできなくても、彼の姿を見て勝手に胸を温めることくらいは許されるだろう。

 そう思えば少しだけ気持ちが楽になって、それと同時に対応が必要なトラブルも起きたりして、あれやこれやと対処しながら図面を引いている間に気づけば土曜日の夜がやってきた。


「白砥さん、お忙しいところすみません……大丈夫でしたか」

「うん、本当に平気だよ。現場の対応自体は午前中で終わってるから」


 金曜の夜にいきなりパーツが破損し、急遽設定変更が必要になったところも、今日の午前中には全て片付いている。そこから先は溜めてしまった書類の整理に当てたから、結局定時まで仕事になっただけだ。家にいたって余計なことしか考えなかっただろうから、逆にちょうど良かった。

 設計部で出勤していたのは白砥と中西ともう一人くらいで、黒沼を含めた他の面子は全員普通に休めていたから、今日の黒沼は完全な私服である。

 いつ見ても綺麗な色合いの髪をハーフアップにし、いつも通り姉のセレクトだという高身長が映える服装で白渡を待っていた彼は、土曜日夕方の駅前でそれなり人目を引いていた。


(本当にさ、これで女の子にモテないって何かの間違いじゃないの? ……いや、これもしかして、黒沼がモテに気づいてないだけの説ってない……?)


 確かにやたら背が高く無表情で目つきが悪いから、ぱっと見怖い印象はあるだろう。話しかけても無愛想な塩対応で、驚いてしまうかもしれない。

 だが、少し交流を持ってみれば彼はとても心優しく温厚で生真面目な好青年だと、きっと誰もがわかるはずなのだ。

 なんだかもったいないよなあ、と思いつつ、黒沼が予約してくれていたというあの居酒屋に入る。

 予約席の札が立てられた席に着き、さて、と白砥は身構えた。


(こういう話って、僕から切り出していいものなのかな。それとも黒沼が話すまで待つべき?)


 いつも通り表情の薄い黒沼だけれど、どことなく緊張している気配だけは伝わってきた。これはやはり、そういうことなのだろう。

 どう話を切り出すべきか迷ったが、なにも頼まないのも店に失礼だし、普通に空腹でもあったので、ひとまず軽めにつまめるものと飲み物を注文する。

 白砥はビールを頼んだが、黒沼はウーロン茶だった。

 真面目な話にアルコールを入れない判断は素晴らしいと思う。少しでもこれから訪れるだろう胸の痛みを軽減したくて、酒を頼んだ自分が言えた義理ではないのだけれど。


(うわ、黒沼と過ごしててこんな居心地悪いの初めてかも……)


 注文したものが届くまでは、妙な沈黙があった。これまでだったら、絶対になかった類いの気まずい時間だ。

 だがそれを打ち破る勇気が出ないうちに、注文したものが運ばれてくる。

 提供が早くて助かったと思いつつ、お疲れさまと形ばかりの挨拶をしてお互いジョッキを傾けた。

 いつもならこの冷たさとほどよい苦さに癒されるのだけれど、今日ばかりはあまり味もわからない。


「……っし、らと、さん」

「あ、はい」


 白渡がジョッキを置くと、それを待っていたのか、既に空手だった黒沼は居住まいを正してからぎこちなく口を開いた。


「その、今日は、お話があって」

「うん、なぁに?」

「……俺」

「うん」

「俺、考えたんですけど。……やっぱり、こうやって二人だけで会ったり、休みに出掛けたりするの……良くないのかなって、思うんです」


(……あれ?)


 なんとなく、想定していた方向性とは違う方面の話が来た気がして、白砥は首をかしげた。

 白砥の予想では、誰か別に理想の推しができたから、あるいは推しの理想像から白砥が外れてしまったから、もう推せなくなったと言われるはずだったのだ。だからこういう付き合いは終わりにしたい、という展開になるのだと思っていた。

 けれど今の黒沼の言い方は、こういう付き合いは終わりにしたい、という結論自体は想定通りでも、なんだか前提条件が大分違うような気がする。


「えっと……一応、聞いても良いかな」

「はい」

「その、僕はもう、黒沼の推しじゃなくなったってことで良いんだよね?」

「えっなんでですか!? 推しですよ、白砥さんは永遠に俺の理想の推しです!!」

「……んー?」


 慌てたせいかかなり大きめの声を上げた黒沼に、人差し指を立ててもう少し静かにね、と指示しながら、白砥は考える。

 自分はまだ黒沼の推しでいられるらしい。ならばどうして、付き合い方を変えなければならないのだろう。

 そこまで考えて、ふと気づく。


「……あっ、もしかして前根津さんが言ってたこと気にしてる? いいんだよあんなの、言わせておけば」

「そういうわけにはいかないです、白砥さんに変な噂が立ったら」

「平気平気! ていうか、さすがにない噂立てるほど嫌なヤツじゃないでしょ、根津さんも。いいんだって、黒沼は推し活してるだけなんだから、何にもやましいことなんかないって胸張ってたらいいの」


 根津はあくまでも元彼としての責任感で――白砥からすればそれ自体大きなお世話にもほどがあるのだが――白砥への忠告をしてきただけで、なにも白砥を貶めようとしているわけではないはずだ。

 大体フラれたのは白砥の方で、捨てられたのも白砥の方で、浮気されたのも白砥の方なのだから、逆ならともかく根津がわざわざ自分の足を引っ張ろうとするとは思えなかった。

 けれど、黒沼はひどく思い詰めた顔をして。


「……駄目なんです」

「黒沼?」

「それは、ない噂では、ないので。やましいことは、……あるので」


 どういう意味、と白砥が聞き返すより早く。


「俺、……白砥さんが、好きです」


 震える声で、黒沼が言った。


「すみません。そういうのじゃないって言って近づいておきながら、こんなこと言いだして……本当に、最低ですよね。白砥さんに対して、すごく不誠実なことをしてるって、わかってます」


 今にも消えてしまいそうな弱々しい声で、それでもしっかりと白砥を見据えて、黒沼が続ける。


「でも俺はもう、この気持ちを捨てられないです。だから、こうやって二人で会うのは、今日で終わりにさせてください。……これ以上そばにいたら、白砥さんの信頼を裏切るようなことを、してしまいかねないので」


 本当にすみません、と深々頭を下げてきた黒沼に、白砥は息を吐いた。


(ああ、どうしよう)


 すっかり困ってしまった。


(まさか、こういう話になるなんて、思ってなかった)


 万に一つも想定していなかった展開に、思考がついてこない。黒沼はまだ頭を上げなかった。本当に困ってしまう。時間が止まったらいいのにと思う。

 彼に自分を諦めてもらうための、正しい回答がどれなのか、わからないから。


「……俺。あの出張のとき、白砥さんに、僕は黒沼の推しだもんね、って言われたのが……その、すごい、……ショックで」


 何も答えない白渡をどう思ってか、黒沼がうつむいたままぽつぽつと言葉を紡ぐ。


 ――まあ、なんたって黒沼の推しだもんねぇ、僕。


 そういえば、黒沼が自分を気遣って掛けてくれた言葉に対してそんなことを答えたような気もする。

 しかしそれ自体は事実のはずで、ならば一体何がそんなにショックだったのだろう。


「あのときは本当に、白砥さんのことがとにかくすごく心配でした。移動手段が確保できたら、絶対会いに行ってました。推しとかどうとかそういうの、本当に一ミクロンも頭に上らなかったんです」


 掠れた声で、黒沼は続けた。


「でも、俺がいくら白砥さんを心配しても、それは全部『推しだからだよね』で片付けられちゃうんだって気がついて……それが、とても嫌だってことにも、気づいてしまって」


 見上げるほどに大きなはずの身体は、まるで雨の中捨てられた仔犬のように肩を丸め小さくなっている。

 黒沼は相変わらずうつむいたままだからその表情をうかがうことはできないが、きっと今にも泣き出しそうな顔をしているのだろうと想像がついた。


「僕にそう言われるのが、嫌だったの?」

「……おかしいですよね。俺は白砥さんを推してるんだから、白砥さんにそう言われたって、嫌なはずないんです。実際、前は全然平気でした。嬉しいまでありました。でも、あのときはそうじゃなかった。……だから、違うんだって、気づいてしまった」


 黒沼の声は震えている。

 それでも、彼は言葉を止めない。誠実に、正直に、白砥に対して全てを打ち明けようとしている。

 それはあまりに純粋でひたむきな好意の表明だった。


「俺、……俺、白砥さんの特別に、なりたいと思って、しまったんです」


 今にも消え入りそうな弱々しい声でなされた駄目押しの告白は、どこまでも素直でまっすぐな言葉だ。


「一方的に俺だけが推すんじゃなくて、あなたに振り向いて欲しくなってしまった。白砥さんの涙を見ることが許される存在に、なりたいと思ってしまったんです。……多分、自分では気づかなかっただけで、きっと最初の水族館のときから、俺はあなたに対してそういう気持ちを向けていたんだと思います」

「え……」


 最初の水族館といえば、白砥が年間パスポートを持っているあの水族館のことだ。

 まだ根津との思い出を掘り返しては勝手に傷ついていた頃で、黒沼と一緒に行ったあの日も確かそうだった。

 イルカショーの終わり際、黒沼に手を握られて、必死な声で名を呼ばれたことを覚えている。

 泣かせないでよ、と涙を隠したことも。


「あのとき、俺、白砥さんに泣いて欲しいって思ったんです。自分の前では、無理に笑ったりして欲しくないって思った。でも、少なくとも俺にとって、それは推しに向けるような感情じゃなくて……だから今思うと、あのときにはもう、白砥さんのことが好きだったんだと思います」

「……そう、だったんだ……」

「本当にすみません。自覚がなかったとはいえ、最初から騙したような形になってしまったこと、他にどう言っていいのかわからないんですが、本当に……すみません」


 あれから何度も二人で出かけたけれど、黒沼から、四年前の根津に感じたような下心は全くといっていいほど感じ取れなかった。

 黒沼はずっと一定の距離を保って白砥のそばにいてくれたし、言葉にも一切やましさなどなかったように思う。もちろん、白砥推しとしての好意を前面に押し出したやや突拍子もない発言はしばしばあったけれど。

 手を握られたのは最初の水族館の一回だけで、あとは全くの無接触。混雑している場所では人波に押されてぶつかることはあったけれど、そのたびきちんと謝罪して距離を取って、喜んだり自分からくっつこうとする気配など微塵も見せなかった。

 家について来たがったことも一度もないし、帰宅時間が遅くなりすぎないようにと常に気を配ってさえくれていたのだ。

 だから白砥は、黒沼が隣にいることに対して一度も不安を抱かなかった。出かける約束をするときに、余計な心配をしたこともまったくない。

 それだけ黒沼を信用していたし、それだけ黒沼が信頼に応えてくれたからだ。


(この子はどこまでも優しい子なんだ。きっと誰に対しても誠実で、本当に良い子で……)


 白渡を好きだと言っておきながら、自分の不利になりそうなことまで全て詳らかにし、言い訳もせず素直に謝罪し白砥の信頼を裏切りたくないと自分から距離を置こうとする姿は、仕事中に見せる真摯な態度を彷彿とさせる。

 うなだれたままの黒沼を見ていると、胸の奥がきゅうと苦しくなって、白砥はついため息をついた。


(……ああ、嫌だな。この期に及んでまだ、この子のことどんどん好きになってる)


 黒沼自身に自覚がなかったとはいえ、いや、自覚がなかったならばなおのこと、彼の行動には多少なりともその好意が反映されていたはずだ。

 なのに彼と過ごす時間が白砥にとってとても心地よいものであったということは、白砥とて早い段階から自覚なく彼に好意を抱いていたのだろう。

 今更気づきたくなかった事実を突きつけられて、ついもう一度ため息をつけば、黒沼がびくりと身を震わせた。

 彼の謝罪に対して何も答えていないままだったことに気づき、白砥は慌てて言葉を探す。


「うわ、ごめん、今のため息はそういう意味じゃないから! えっと、自覚がなかったんならしょうがないっていうか、あの、別にそれは怒ってないよ」

「でも」

「それに、黙ってれば僕に気づかれないようなことをさ、自分からわざわざそうやって言って、謝ってまでくれたんだもん。それってすごい誠意だと僕は思う。だから、それはもういいことにしよ。ね?」

「……はい。ありがとうございます……」


 黒沼はすっかり消沈して、テーブルに頭が着きそうなくらいうなだれている。

 白砥は考えた。

 彼の提案を呑むこと自体は簡単だ。白砥がこの場でただ一言、じゃあもうこれまでにしようか、と答えるだけでいい。

 そうすれば黒沼がこれ以上道を踏み外すことはなくなり、彼の理想の推しとしての自分を崩す必要もなくなる。

 黒沼はこれからも白渡を推すつもりだと言っていた。これまでのように二人で会うことはなくなっても、自分が理想の推しのままでいれば、黒沼の心が離れていく心配はしばらくしないでいいだろう。黒沼だって、推しを失う必要がなくなる。いいことのはずだ。

 それに、自分の気持ちを隠してこのまま全部を終わりにしてしまえば、白砥だけは傷つかずに済むのだから――。


(僕にとっての最適解は、そうなのかもしれないけど)


 息を深く吸って、少し吐く。


(それは……ダメだろ、やっぱり)


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