13.幸せに
白砥は腹を括った。
こんなにもまっすぐ、自分に対して誠実に向き合おうとしてくれた年下の部下の告白に乗っかって、自分だけが上手いこと無傷で逃げおおせようなどと思うことは、なけなしの矜持が許さなかったから。
「……あのね、黒沼」
声が震えないように腹に力を込めて呼びかければ、はい、と沈んだ声で返事がある。
「まずは、正直に全部話してくれてありがとう。……僕も、君に対してちゃんと誠実でありたいから、これは正直に言うんだけどさ」
「はい」
ああ、どうか、最後まできちんと、年上らしい振る舞いができますように。
どうかきちんと、彼に諦めてもらえますように。
「僕、黒沼が好きだよ。その、ちゃんと恋愛的な意味でね。……だけど、僕のことは諦めて欲しいと思ってる」
「……えっ?」
好き、の部分で弾かれたように顔を上げた黒沼が、困惑した顔でこちらを見ている。
白砥は少し笑って言った。
「僕なんかと付き合ったって、いいことなんか一つもないよ。出張のときに根津さんと喧嘩した話、したでしょう? 僕といた四年間が、あの人にとっては全部、無駄だったって話。だからもしも僕と付き合って、どのくらい保つかわからないけど、そのあと僕に愛想が尽きたとしてさ……黒沼もきっと、時間を無駄にしたって後悔するはずだよ」
諦めて欲しい。
幸せに、なって欲しいから。
「僕は黒沼が好きだよ。だから、未来の君にそんなバカみたいな後悔、絶対にして欲しくないんだ」
そもそも、こんなにも優しく実直で見目も整っている彼が、これまで誰のものにもならずに来たこと自体がおかしいのだ。
遅かれ早かれ、黒沼の魅力に気づく人間は現れる。それこそ、白砥なんかよりもずっとずっと、彼にふさわしい相手がいるはずだ。
その誰かと出会ったときに、自分の存在が邪魔になってはいけない。推しでいるだけならまだしも、恋人なんて名前をつけて彼の未来を閉ざすようなことだけは、したくなかった。
「普通に女の子を好きになって、普通に結婚するほうが、きっと何倍も幸せだよ。僕を選んでくれても、そういう幸せって一つもあげられない。……黒沼は僕に幸せになって欲しいって言ってくれたけど、僕だって黒沼に幸せになって欲しいよ。それには絶対、僕なんかを選んじゃ駄目だと思うからさ……ね、わかってくれるよね?」
後ろ指指されることなく、陰に日向にあざ笑われることなく、皆に受け入れられ笑っていて欲しいから。
そう思って理解を求めれば、黒沼はじっと自分を見つめていてから首を横に振った。
「いえ、わからないです」
いつもと同じ平坦な声が、あっさりと否定を告げてくる。
それに少しばかり喜んでしまった自分を心の中で叱咤して、白砥は思い切りしかめ面を作った。
「なんでさ。わかってよ、年長者の言うことは聞くもんでしょ」
「白砥さんが俺より年長者なのは認めますが、それとこれとは別だと思います。……というか、別に俺はいらないんですよ、そういう幸せ」
「いやいやいや、いらないってことはないだろー」
「あります。基本興味ないです。むしろ、白砥さんが隣にいてくれるなら、俺はそれだけで幸せです」
「もう、だから、さっきの話聞いてた? 僕なんか選んだってさぁ」
「すいません、念の為の確認なんですけど。……さっき、俺のこと、好きだって言ってくれましたよね?」
切れ長の一重が、正面からじいっと自分を見てくる。
わざと軽い調子で言っているのを見透かされた気がして、黒沼の目から視線を外しつつ白砥は頷いた。
「そ、れは……うん、まあ、言ったけど」
「良かった、聞き間違いじゃないんですね。嬉しいです、では末永くよろしくお願いします」
「え、ちょ、待って待って違うってば! ねえ本当に僕の話ちゃんと聞いてた!?」
「聞いてましたよ。俺の幸せを願ってくれてありがとうございます」
「そう! それ!! だからね、そのためには」
「でも、俺が幸せになるために必要なものって、白砥さん以外にないんですよ」
黒沼が淡々と言う。
「俺の推しは白砥さんですし、俺の好きな人も白砥さんなので、白砥さんがいてくれたら両方が満たせるし、白砥さんがいなかったらなにもなくなります」
「えっ……、や、そんな、あの」
「白砥さんは、どうですか。俺がいなくなっても、幸せですか。それなら俺は、全然大丈夫です。喜んで身を引きます。白砥さんの幸せは、俺の幸せだから」
凪いだ瞳にひたりと見つめられて、白砥は耐えきれずにうつむいた。
言えるわけがない。
白砥だって、本当は、伸ばされた手を取りたいのだ。ずっと側にいたいし、好きだと言って欲しいし、代わりの人なんて見つけて欲しくない。
けれど、それではまた同じことの繰り返しになるのではないか。黒沼の人生を、狂わせてしまうのではないか。若い彼の貴重な時間を、浪費させてしまうのではないか。
無駄にさせたと言い切られたあの四年と、同じ末路を辿らせるだけではないのか。
「……いなくなっても、大丈夫、だよ」
「白砥さん」
視線を合わせぬよううつむいたままぽつぽつと言葉を紡げば、黒沼に名を呼ばれる。
なんの感情も読み取れない、事務的な声音だった。
いつもならもう少しそこに乗る感情がわかるのに、今ばかりは何一つわからなくて、怖くなる。
「ねえ、もうやめよう? 駄目だよ、やっぱり、こんなのはさ。僕ね、黒沼には幸せになって欲しいの。本当に、本当にそう、思ってて……だから、君が、いなくても」
「白砥さん。俺を見て」
「っ……」
膝の上に置いたままだった手を、テーブルの下で握られた。
思わず反射的に顔を上げてしまい、白砥は後悔する。
黒沼の目はまだじっとこちらを見ていた。
白砥を責めるような意図も、不満そうな気配もない視線。
ただ凪いだ瞳がひたりと、白砥を見つめていて。
「それが本気なら、俺の目を見てもう一度、言ってください」
「……そ、んなの」
「白砥さんにとっての俺は、本当に……もう、そばにいなくても、いいものになって、しまったんですか」
息が詰まる。
そうだよと言えばいい。難しいことではないはずだ。ただ、彼の目を見たままそうだよと一言言って、つながれた手を解けばいい。
多分それで、黒沼は納得するだろう。
どこまでも白砥を優先してくれる彼だから、きっと最後には白砥の判断を支持してくれる。それはわかっている。
わかっている、けれど。
(黒沼、手、震えてる……)
テーブルの下で強引につながれた手は、僅かに震えていて。
自分を見つめる瞳には、どうか、と希う色がありありと浮かんできて。
そんなことに気づいてしまったら、駄目なのに。
「ぼく、は」
白砥の唇が音を紡ぐたび、祈るように、縋るように、つながれた手に力がこもって。
「……僕は。……本当に、黒沼の幸せに、ひつよ――」
「必要です」
一秒の隙もなく、どころか白砥の語尾に半ば被せるようにしてきっぱりと答えてきた黒沼に、つい笑ってしまう。
「……付き合った時間、全部無駄にさせちゃうかも、しれないよ」
「なりませんよ。絶対になりません。白砥さんにとって無駄になることがあっても、俺にとっては絶対無駄にはなりません」
「やっぱり止めとけば良かったって、すっごく後悔させちゃうかも」
「白砥さんだって、やっぱり黒沼はなかったな、って後悔するかも知れませんよ」
「それはないと思う」
予想外の返しに思わず否定すれば、黒沼の表情が少し緩む。
「……同じくらい、俺もそれはないと思ってます。まだ、気になることがありますか?」
「……土日も急に仕事になったりすることあるから、お出かけの約束ドタキャンするかも」
「仕事なら仕方がないと思いますし、その場合は俺もうっすらわかってると思うので問題ないですね」
「会えなかった日の夜とか、急に電話しちゃうかもしれない」
「うわ可愛っ……すいませんつい本音が」
「多分僕、付き合ったら結構面倒くさいよ?」
「これは本当に申し訳ないんですが、多分俺の方が面倒だと思います」
「そんなことある?」
「あのですね、ズブの恋愛素人を舐めたらいけないですよ、なんせ何が面倒で何が面倒じゃないかもわかってないんですから、なんの自覚もなく面倒を掛けますよ」
真顔で言ってきた黒沼に、ため息を一つ。
「……もう、なんて言ったら諦めてくれるの?」
「なんと言われても諦めたくないです」
片手で握られていた手が、両手で握り直される。
黒沼の目はじっと、白砥のことだけを、見つめていて。
「俺は、あなたが好きなので」
「……」
白砥は笑った。笑った拍子に涙が零れてしまって、慌てて手を解き目元を拭う。
「……あー、もう……降参だぁ」
「えっ……じゃ、じゃあ、あのっ」
期待に満ち満ちた黒沼の目が、テーブルの向こうからこちらを見ている。
わざとらしくしかめっ面を作って、白砥は口を開いた。
「僕はいっぱい忠告したからね? 今更後悔したってもう、苦情は一切受け付けないよ。……簡単に別れてなんて、あげないんだからね」
「別れるつもりないんで大丈夫です! ありがとうございます! え、うわ、これ現実ですよね!? 全部俺の都合のいい妄想の可能性があるんですけど、えっ現実ですよね!? 現実だヤバいどうしよう嬉しすぎて動悸がヤバいんですが!!」
「黒沼、ちょっと声大きいよ、落ち着いて」
「あっあっすいませんごめんなさい、落ち着きます落ち着こう、頑張ります……」
馬鹿げて大きな声ではなかったけれど、内容が内容だから少しばかり周囲の目が気になって指摘すれば、すぐさま声量を落とした黒沼が空気を押し返すように開いた両手を上下させながら深呼吸を繰り返す。
彼なりの落ち着くための努力らしいその仕草が、なんだか妙に可愛く見えて、白砥はつい笑ってしまった。
「……もー、なんでそんなに可愛いんだよ黒沼はぁ」
「いや可愛くはないと思います、可愛さでいったら白砥さんの方が数億倍上じゃないですか」
「暗に背が低い話をしてる?」
「誤解! それは誤解です! 可愛いとはいつも思ってますが小さくて可愛いとは思ってないです! 白砥さんの可愛さはそれだけじゃないので!」
否、と表情と仕草と言葉の全てを使い力の限りに訴えてくる黒沼は、ようやく普段白渡と二人で出かけるときの調子を取り戻したようだ。
職場では本当に無口で無愛想で無表情、必要なこと以外は一切喋らず目も合わないような有様なのに、休日二人きりで会えば意外と表情豊かに話し白砥を大事にしようとするあまりとんでもない方へぶっ飛んでいくことも多い、五つも年下の愉快な青年。
そのギャップがまた可愛くて、好きだと思う。
(……うん、好きだな)
もう、素直にそう思っても、いいのだ。
「あー、なんか気が抜けちゃった。僕、今日はフラれるつもりで来てたからさぁ」
「え、俺もそうですよ。フラれるつもりで来てました」
「フラれるつもりとフラれるつもりがぶつかって対消滅?」
「マイナス掛けるマイナスがプラス、みたいなことですか?」
自分で言いながら意味がわからないなと思ったことも、首をひねりながら理解を試みてくれるのがなんだか嬉しくて、笑いながらすっかりぬるくなってしまったビールを飲む。
「黒沼も飲んだらいいのに」
「や……ちょっと、止めときます。俺、今日のこと、絶対忘れたくないので」
どういう意味だろう、と思って首を傾げたら、その角度大変に可愛いと思います、と真顔で言った黒沼がそのままの顔で続けてきた。
「俺があんまり酒に強くないのは、白砥さんもご存知だと思うんですが」
「うん、まあ初回が大分面白かったしねぇ」
「……その節は本当に、大変なご迷惑をおかけしてしまい……」
黒沼は消沈して謝ってきたが、大変なご迷惑、などと言われるほどのものではなかったはずだ。
「全然大丈夫だよ。別にさ、酔ってお店の人にくだ巻いたりもしなかったし、いきなりトイレの手洗い場に腰掛けて寝たりもしてないし、服を脱ぎ散らかしたりもしてないし、隣のテーブルに文句付けにも行ってないし、お財布から店中に小銭撒いたりしてないじゃん」
全て白渡が実際に目の当たりにした飲み会での惨事だが、そんなやらかしをした人間でもまた次の機会にはちゃっかり飲みに来るのだ。そういう連中に比べたら、黒沼の酔い方など可愛い方だろう。
それに最初の一回で懲りたのか、そのあとは一緒に食事をしても自分できちんと酒量をコントロールしていた。だから、何も困らされた覚えはない。
「……え、ヤバくないですかそれ。まさか実体験ですか」
「恐ろしいことに実体験です。あ、僕のじゃなくて、そういう人がいたって話ね。全部会社の飲み会だよ」
怖、と呟いた黒沼に苦笑する。まあこれらの事件を起こした社員はほとんど定年退職したり転職したりしてもう社内にいないから、今の飲み会は比較的穏やかだ。
「多分そういうふうにはならないんですけど、俺、酒飲むと記憶が結構ふわふわになりがちで」
「あ、そうなの?」
「はい。なので、今の記憶を保持するために今日は酒を飲みません」
きっぱりと言い切った黒沼が、食べるもの足しましょうかと言って注文用のタブレットを取り上げる。
忘れていた空腹が急に舞い戻ってきて、白砥はとりあえず目の前にあった冷や奴に箸をつけながら一緒にタブレットを覗き込んだ。
腹に溜まりそうなものをいくつか選び、ついでにビールを一杯足して注文を終える。
黒沼はしっかりウーロン茶をおかわりしていた。今日は本当に、酒を飲む気がないらしい。
「ちょっと残念かもなぁ」
「酔ってても、俺、特に変わらなくないですか。なんならうるさくて迷惑まである気がしますけど」
「そう? 酔ってるときの黒沼って、なんか楽しそうにいっぱい話してくれてさ、僕は好きだよ」
注文用のタブレットを本来の置き場に戻した態勢のまま、ぶわ、と急に赤くなった黒沼に目を瞬く。
先程まで、もっと恥ずかしいような台詞を平然と口にしていた気がするのだが、白砥の気のせいだろうか。
「……なんで今更照れたの?」
「いやっ……その、あ、改めて聞くとなんというか、破壊力がすさまじく……」
「よく言うよ、さっきまで人のこと散々振り回しておいて」
「振り回してはいないと思うんですが」
「振り回されましたぁー。なんだよもう、水族館のときなんか手握っただけで大慌てしてたくせにさぁ、すっかり強気になっちゃって」
「あれはその、そういうつもりじゃなかったので慌ててしまってですね……というか、別に今も強気ではないんですが」
「さっきまでかなり押せ押せだったじゃん」
「それはだって、ああでもしないと白砥さん、俺の幸せを盾にしてずっと逃げ続けちゃうじゃないですか」
「……むう」
確かにそうするつもりだったからなんとも言えずに唸ると、ちょうど注文していたものが運ばれてきた。
残り僅かだったぬるいビールを飲み干すと、霜のついたジョッキが目の前に置かれる。
半年前にこの店で、幸せになりましょう、と黒沼に言われ始まった二人の関係は、今日から少し形を変えて、また続いていくらしい。
「ねえ、黒沼。最初にここに来たとき、手伝うから幸せになりましょうって言ってくれたの、覚えてる?」
「覚えてますよ」
――差し当たって俺にできることなら何でも手伝いますから、なりましょう、幸せ。
その言葉はとても嬉しかったけれど、もう手伝いくらいでは足りないのだ。
だって彼の幸せが、今は白砥の幸せなのだから。
「あれだけ啖呵切ったんだから、これからは手伝いなんかじゃなく、ちゃんと僕と一緒に幸せになってよね。約束だよ」
「……はい」
乾杯しようとまだ冷たいジョッキを持ち上げれば、黒沼がウーロン茶のグラスを取り上げる。
彼の目がわずかに潤んでいるのに気づき、白砥は笑った。
「もー、泣かないの。黒沼ってば、意外に泣き虫なんだから」
「……だって、白砥さんがっ……あんなに辛そうで、幸せなんてわからないって言ってた白砥さんがっ、自分から幸せになろうとしてくれてっ、しかもっ、俺にまで一緒に幸せになってって言ってくれるなんて……!」
「そんな泣くほどのことじゃなくない?」
「泣くほどのことですよ! 俺をなんだと思ってるんですか骨の髄まで白砥さん推しの面倒くさいオタクですよ!? こんなっ、こんな白砥さんを間近で見ることができるなんて、俺は本当に……っ」
乾杯しないうちにグラスを置いて突然顔を覆ってしまった黒沼が、再び急に顔を上げる。
「本当に振込先を教えて欲しいんですけど!? どうして俺に課金させてくれないんですか!? ねえ白砥さんどうしてなんですか、絶対に対価無しで受け取っていい萌えの量じゃないんですどうしたらいいんですか俺はどうすれば」
「うんうん、いい子だね、わかったからちょっと落ち着こうね」
目元を濡らしながら必死に言いつのってくる黒沼をなだめながら、恋人になってもこの思考回路は変わらないんだなあ、と白砥は面白く思ったのだった。




