8.今はまだ
改札を抜け、ホームに移動する。休日の駅はさすがに混んでいたが、朝の通勤ラッシュ時ほどではない。
到着した電車の座席は全て埋まっていたが、立っている客はそれほど多くなかった。
二人で並んで吊革に掴まったまま二十分ほど電車に揺られ、目的の駅で降りる。
そこから徒歩数分でたどり着いた水族館の入り口は、都市型水族館、という触れ込みの通り、普通のビルの並びに現れた。
水族館と言えば海沿いに、広めの土地を取りどんと建てられているものだとばかり思っていたから、黒沼は感心してしまう。
「こういう水族館もあるんですね」
「面白いよね。立地がこれだからあんまり大きくはないんだけど、とにかく来やすくて良いんだ。こないだも言ったけど、会社帰りにも寄れちゃう距離だし」
年間パスポートを持っている白砥を置いて、黒沼は入場チケットを買う人の列に並んだ。
土曜日の水族館、という状況から想像していたとおり、それなりに混雑しているようだ。
家族連れやカップルらしき男女の姿がやはり多く見られたが、友人同士なのか同性の組み合わせも散見されたので、自分たちもさほど浮いてはいないだろう。
「パパはーやーくー!」
「あ、こら! 一人で行かないよ!」
幼稚園児くらいだろうか、幼い少女が小走りに入り口に向かうのを、父親らしき男性が購入したばかりのチケットを片手に慌てた様子で追いかけていく。
なんとなく目で追っていれば、父親を気にするあまりろくに前も見ず走っていたその少女はなんと白砥の方へと突撃していくではないか。
「し……っ」
白砥さん、と思わず出そうになった声をすんでの所で押しとどめ、ちょうど順番が回ってきたので急いでチケットを買う。
すぐさま列を外れて頭を巡らせると、父親が娘と手をつなぎ白砥に頭を下げているのが見えた。
「本当にすみませんでした……!」
「いえ、大丈夫なのでお気遣いなく。……パパと水族館、良かったね。でも危ないから、中に入ったら走らないで、ゆっくり楽しんできてね」
「うん!」
申し訳なさそうに何度も頭を下げる父親と、対照的に笑顔で手を振る娘が、仲良く並んで去って行く。
彼らの背中を見送ってから歩み寄れば、白砥はこちらを見て微かに笑ったようだった。
「おかえり、黒沼。……僕たちも、行こっか」
「……はい」
白砥はそれ以上何も言わなかったが、まとう空気はどこか重い。
根津のことを考えているのだろうと察しがついて、黒沼は迷った。
(やっぱり、こういうところは……来ない方が、良かったのかな)
元々年間パスポートを買うほど好きだった、と言っていたから、気分転換には良いかと思ったのだけれど、今の白砥にはまだ辛いことの方が多いのかも知れない。
なんなら今からだって引き返してもいいのだと言おうとしたが、館内に入った白砥が熱心に水槽の中を覗き込み始めたので、結局それも言えなくなってしまった。
(本当に好きなんだな、水族館……)
館内の控えめな照明の中、水槽の底に敷かれた白い砂が明るく光っている。
その中を泳ぎ回る魚を追う白砥の横顔も、ふわりと白く光って見えて。
(うわ、まつげ長……ていうか、横顔めっちゃ綺麗すぎてヤバいのでは? やはり神の手により作られし至高の存在では? えっえっ待って怖い怖い、近くから見ても遠くから見ても推しが完璧に整いすぎてる何これ怖い)
「黒沼?」
「ぅわいっ」
「……っふふ、なにそれ、どういう返事?」
「やっ……その、ちょっと、ぼんやりとしておりまして……」
「ぼんやりとしておりまして、僕の顔ばかり見ていましたか?」
「……見ていました、すみません」
「んふふ、素直でよろしい。でも、水族館は水槽の中の生き物を見るところだからね?」
楽しげに笑った白砥の様子から、とりあえず怒ってはいないようだとわかって胸をなで下ろす。
肩が触れそうなほどの近距離から視線が合わないのをいいことにじっと彼だけを見ていただなんて、いくら黒沼が白砥を推していると知っていたとて気色が悪いと一蹴されてもおかしくはない行動なのだ。
それを軽い注意だけで済ませてくれる白砥の心の、なんと広く穏やかであることか。やはり、背中に羽根がついていないだけの天使なのかもしれないと黒沼はしみじみ思った。
そのまま順路通り進んでいけば、飲み物などを扱っているらしいカウンターの前に出る。
ソフトドリンクだけではなく、アルコールも販売されているようだ。
黒沼の浅い知識と記憶では、水族館というところは飲み食いしながら魚を見るような場所ではなかったと思うのだけれど――それを売りにしたレストランなどは別として――、最近の水族館はずいぶん様変わりしているらしい。
「あ、何か飲む? お酒もあるけど」
「いえ、それが意外で驚いてました」
「わかる! 僕もここ来てびっくりした、そういう楽しみ方もあるんだ! と思って」
すごいよね、と無邪気に笑う白砥が可愛くて、たまらず額に手を当てひとつ息を吐けば、
「……お、今のはわかるぞ。またなんかあれでしょ、『推し活』ってヤツしてるんでしょ」
「ちょ……推し活なんて言葉、どこで覚えてきたんですか」
「ふふん、もう前の僕とは違うんですよ、黒沼くん。……っていうか、前に黒沼が言ってたんだよ、『推し活』って」
「俺が!?」
推しである白砥当人を前にして何故そんな発言をしたのだろうか。恐らく月曜日の夜にやらかしたのだろうが、正直あのときの記憶はかなり薄い。
「そう。でもちょっとよくわかんなかったから、自分でも『推し』と『推し活』についてはある程度調べてきたの。だから、黒沼の言ってることも、前よりちょっとわかるようになってるはず。……多分だけど」
腰に手を当て胸を張りつつも、専門用語は難しいねぇ、などと苦笑する白砥の勤勉さに、目がくらみそうになる。
(うわああああ尊い……俺みたいな面倒くさいオタクの話を理解するために推しがわざわざ勉強してくれるなんてこと、この世にあっていいのか!? 何かの夢じゃないのか!? ダメだやっぱり白砥さんは地上に降り立った天使に違いない、どうにかしてこのままとどまっていてもらわなくては……)
「……えっと、違ってた?」
軽く首を傾げて問うてきた姿の愛らしさに崩れそうになった膝をなんとか立て直し、黒沼は動揺を表に出さないようあくまでも淡々と答える。
「推し活といえば推し活なんですけど、今のは単純に、あまりの尊みに俺がやられただけですね」
「とうとみ」
「通常、推しの側が推している側に寄り添ってくることはあまりないので。そこを自分から埋めに来てくれる白砥さんは、やはり尊いなと」
「それはアイドルとか俳優とか、そういう別世界の人たちの場合でしょ。僕みたいな一般人なら、ごくごく当たり前にやることだと思うんだけど?」
「俺にとっての白砥さんはアイドルとか俳優とかよりも特別というか、羽根がないだけの天使というか、もはや神に近いまであるので……」
(あれ、大丈夫かこれ。なんか俺、大分キモいこと言ってないか?)
いつも一人で白砥を崇め奉っているために、どこまでが一般的な推しへの好意の表現として許されるラインなのかの線引きが怪しくなっている気がする。
というかそもそもオタクなら、推しへの好意なんて己の中にあるあらゆる語彙を駆使しても足りないほどに溢れてしまっているものであろう。そのうち言葉で表現するだけでは足りず、のたうち回ったり奇声を発したりすることさえあるのだから。
恐る恐る白砥の様子を確認すれば、彼は困ったような顔をしていた。
「……ね、もしかしてなんだけど、黒沼ってすごく目が悪かったりする?」
幸いにして、引かれてはいないようだ。何故か急に視力の心配をされているが、どうしてだろうか。
「目は悪いですけど、コンタクト入れてるので視界はクリアです」
「えっ初耳なんだけど!」
「白砥さんは眼鏡……そうか、伊達だから視力は大丈夫なんですね」
「うん、僕は平気。健康診断で毎年測ってもらうけど、今のところ下がってないね」
尊みの話は何となくそのまま流れてくれたので黒沼はほっとした。これ以上突っ込まれていたらうっかりぼろが出ていたかもしれない。いや、もうかなり出ているような気もするけれど。
当たり障りのない話をしながら順路の指示通りに進んでいけば、円柱形の水槽が立ち並ぶ区画にたどり着いた。
ここはクラゲを展示する場所のようだ。
円柱の中に浮かぶクラゲは、様々な色の光に照らされ幻想的に漂っている。その雰囲気を後押しするような音楽も流れており、水族館というよりはそういうアートのようにも見えた。
(あ、さっきの……)
水槽の一つに、先程入り口で会った父娘が貼り付いている。
母親なのだろうか、彼らの隣には抱っこひもで赤子を抱えた女性の姿があった。
なんとなくそれを見せたくなくて、白砥の視線がそちらに向かないようにと黒沼は立ち位置を変える。
「あ」
「えっ!?」
もしや、自分が動いたせいで逆に気づかれてしまったか、と慌てたが、白砥は水槽の中を指さして言った。
「ねねね、見た? 今、黒沼の髪みたいな色だった!」
「……」
えっ急に何ですかそんな可愛いことを言い出されて俺は一体どうしたらいいんですかいやどうもするべきじゃないですねわかってます大丈夫です落ち着こう。
一瞬にして脳内に吹き出した感情を一切合切まとめて飲み込んでから、一言だけ答える。
「似てましたね」
ゆっくりと、しかし絶え間なく切り替わっていく色の合間に一瞬見えた、自分の髪色に近い赤ともピンクともつかないような色。
それを追いかけるように、白砥の指が水槽の表面をなぞる。
「ね。一瞬だったけど、あの色のクラゲも綺麗だった」
「……そうですね」
「あれ、もしかして黒沼って、別にその色好きじゃない? 好きだからそういう色にしてるのかと思ったんだけど、違う理由?」
「その……実は、髪も、姉にお任せでやってもらってるので、俺の趣味とかでは」
「えー! そうなの!?」
(あっあっヤバいヤバい、さすがにこれは絶対引かれる、服どころか髪まで人任せはさすがにヤバいだろマズったどうしよう)
当たり障りない言い訳でもすれば良かったのに、つい馬鹿正直に答えてしまった自分に落ち込む。
白砥に好かれたいなんて分不相応なことはこれっぽっちも考えていないけれど、それはそれとして呆れられたり軽蔑されたりするのはやっぱり心に来るのだ。
けれど、白砥は柔らかく笑って。
「いいなあ、すっごく似合ってるよ。黒沼のお姉さん、やっぱりセンスがいいんだねぇ。……それにさ、お姉さんも嬉しいんじゃない? そういうセンスのある人で、しかも黒沼みたいに見栄えのする子が相手だったら、服とか髪とか自由にコーディネートできるのってめちゃくちゃ楽しいと思う!」
弾むような声音に、それが黒沼に配慮して取り繕われたその場しのぎの言葉ではなく、白砥の本心なのだとわかって、黒沼は思わず目頭を押さえ天を仰いでいた。
「え、なに、どうしたの黒沼」
「すみません……尊みが限界を突破してしまって……」
「おっ、また出たな尊み」
「白砥さんが天使過ぎてもう辛いです」
「……誰が何でなんだってぇ?」
「お願いですからこのまま地上にいてください」
「勝手に人が地上から追い出される前提の話をするんじゃないよ! ……なんていうか、黒沼って本当、面白い子なんだねぇ……」
ふふふ、と楽しげに笑いながら言われた言葉はあんまり予想外で、思わず黒沼はたじろいでしまった。
「おっ……もしろくは……なく、ないですか」
「え、面白いよ? だって僕、黒沼がこういう子だとは全然思ってなかったもん」
水槽を彩るライトの色がまた変わって、白砥の顔が淡い緑色に照らされる。
「黒沼ってさ、会社ではいつも、すごく真面目じゃん。チャイムが鳴るまで絶対休憩しないし、仕事中にふざけたり、周りとおしゃべりしたりもしないし……だから正直、何話していいかわかんないなって思ってたんだよね。っていうか、何話そうとしてもすぐに会話が終わっちゃうというか」
「それは、はい。ありますね」
白砥との会話自体を避けていたわけではないが、根津との関係を知ってしまってからは、迂闊に話してそれに気づかれてはいけないと思ったこともあり、ことさら感情を表に出さず必要最低限の受け答えだけをするように努めてきたのだ。
本当なら、もっとたくさん話してみたかった。どんな些細なことだって、彼のことなら知りたかった。なにせ白砥は黒沼の推しなのだ、情報なんてあればあるほどいいに決まっている。
けれど、もしも根津との関係に気づかれたと白砥が察してしまったら、これまでのような公式供給は望めなくなる。最悪の場合、黒沼の存在が原因で二人の仲に亀裂が入る可能性もあるのだ。
それだけはどうしても回避したくて、黒沼はこれまで白渡に接触することを極力避けてきたのである。
(なのに、なのにだ。俺がそうまでして守りたかった白砥さんの幸せを、最低なやり方でぶち壊しやがって。あの野郎、やっぱり絶対許せねえ……!)
ついうっかり根津への怨嗟で脳内が埋め尽くされそうになり、黒沼は急いで意識を切り替える。
白砥推しを名乗る者であるからには、余計なことを考え白砥の言葉を聞き逃すようなことがあってはならないのだ。
「飲み会なんかで近くの席になって、話せるかなーって思っても、あんまり話せないことが多くて。だからこないだと今日とで、もうこれまでの二年分以上は話してるんじゃないかって思うくらい、会社では話せてなかったよね」
「その可能性はかなり高いかと」
「だよねぇ。だから僕としてはさ、そういう謎多き若者の黒沼とこうして話せるだけでも楽しいし、会社での振る舞いだけならめっちゃ真面目な子に見えてた黒沼がプライベートだと予想外にはっちゃけてるところも見えて、かなり楽しいわけ」
そう言ってまた笑った白砥が、少しためらってから口を開いた。
「……あのさ。こないだ、二人で飲んだときにさ。黒沼、外見の割に中身が硬くて期待外れって言われる、とかって、言ってたでしょ?」
確か、白砥から黒沼はモテるはずだとありもしない疑惑を掛けられたときだ。
酒のせいで細かいところまでは覚えていないが、いかに自分がモテとは対局の位置にいるかを説明したくてそんなことを言った気がする。しかし、思い返せば慰められるのを待つかのようなマイナス発言ばかりだったから、かなりうっとうしかったのではないだろうか。
「すいません、あのときはちょっと酔ってて……慰められ待ちの自分語り、ウザかったですよね」
「違う違う、ウザいとかじゃなくて! あのね、僕は黒沼のそういう真面目なところ、すごく良いなって思ってるんだよって、ちゃんと伝えておきたかったの」
思わず謝罪すれば、慌てたように言った白砥が水槽からこちらへと身体の向きを変える。
「仕事ってさ、信頼関係が大事だと思うんだよ。例えば僕が誰かに製品の形状入力を頼むときだって、やっぱりきちんとやってくれそうな人に頼みたいからさ。時間があるときは、自分がしっかりチェックする前提で、ミスの多い人にわざと頼むこともあるけど……急いでるときはそうもいかないし。で、そういう信頼関係って、毎日の小さい積み重ねでしかできあがっていかないものだと、僕は思ってて」
白く変わった光の中を、ゆらり、ゆらりと、揺れながらクラゲが昇っていく。
自分を見上げる白砥の大きな瞳が、それを受けてキラキラと光っている。
「真面目にコツコツやることを、嫌う人や笑う人もいると思う。でもね、そうしないと積み上がらないものって、確かにあるんだよ。だから黒沼にはこれからも、胸を張って真面目な人でいて欲しい。そうやって積み重ねたものは、いつかきっと、君の誇れる財産になると思うから」
そう言って微笑む白砥の顔は、間違いなく年上の上司のもので。
「……はい」
この人の下で働けて良かった、と黒沼は思う。
この人の部下で良かった。この人のために、働ける人間であれて良かった。
「……あはは、なんか、ごめんね! 急に暑苦しく語っちゃってさ……わーヤバい、なんかめっちゃ恥ずかしくなってきた……休みの日にまで仕事の話とか、するなよって感じだよね! もう、こんなだから僕、根津さん、に……」
白砥の言葉が不自然に切れた。
黒沼は思わず拳を握る。
ややあってから、白砥は苦笑して言葉を継いだ。
「……ワーカホリックって言われちゃうんだよな」
「白砥さん……」
「やだねー、まだ不意に思い出すと息が止まっちゃう。もう全然気にしてないよ! って、言いたいんだけど、……まだちょっと、駄目みたい。いい歳して情けないね、本当にさ」
あはは、と無理に笑ってみせる顔が痛々しくて、けれどどうしたら良いのかもわからなくて、黒沼はただ拳を握りしめたまま、白砥の顔を見つめていた。




