7.衝撃の新事実
(忘れた方がいいなんて、軽々しく言えないのはわかってるけど……少しでも早く、忘れられたらいいのに)
白砥は昼を差し入れたときも、月曜日に根津の話をしたときも決して泣かなかったけれど、その瞳はずっと悲しげに揺れていた。
それがなんだか泣かれるよりも辛くて、思わず自分が泣きそうになってしまったくらいだ。
第三者のくせに勝手に目を潤ませた黒沼に、泣かないの、と笑ってハンカチを差し出してくれるほど優しい白砥が、どうしてこんなふうに傷つけられなければならないのだろうか。
(わかってる。白砥さんは俺の推しで職場の上司。それ以上でも以下でもないし、近づきたいなんて……近づけるなんて、思ってない)
けれど、誰も白砥を守ってくれないのなら。誰も白砥が傷ついていることを知らず、彼に寄り添ってその傷口を塞いでくれないのなら。
それにふさわしい相手が現れるまでの間だけでも、せめて自分がこれ以上広がらないように傷を押さえてやりたい。
分不相応だとは、わかっていても。
(いいか、ちゃんとわきまえたオタクでいるんだぞ、黒沼涼太。今日の俺は白砥さんの付き添い。一人じゃ居心地が悪いから隣にいるだけのマネキン。人間の形をした壁。余計なことを言ったりしたりしない。よし!)
心の中でそう気合いを入れ直したところで、
「――黒沼、おはよう!」
「あ、白砥さ……っ!?」
弾むような白渡の声が聞こえてきて、黒沼は焦った。本来の待ち合わせ時刻である十時半には、まだあと十五分もあったからだ。
万全とはとても言えないが、心の準備はかろうじて間に合った、と思いたい。ここまで来たらやるしかないだろうと、決意も新たに声の方へと視線を投げる。
相変わらずのさらさらした黒髪を揺らして、小走りに近づいてきた白砥が足を止めたところだった。
その姿を見て、思わずひゅっと息を呑む。
(おい、嘘だろ……!?)
「ごめん、ずいぶん早かったんだね。待たせちゃった?」
気遣わしげに言った白渡が、小さな頭をこてんと傾げる。可愛さ百点満点の仕草におかしな声が出そうになったが、気合いで耐えた。
「ねえ、もしかしてなんだけど……黒沼、かなり前から待ってたんじゃない?」
「い、いえ、そんな、ことは」
「あー、その様子だと本当に待ってたな? もう、まだ十五分もあるのに、いつからここにいたのさ」
む、とわざとらしく不満そうな顔を作って言った白砥を直視できず、黒沼は視線を逸らす。
(待て待て待て、待ってくれ。聞いてないぞ、白砥さんにこんな差分があるなんて……!)
挙動不審だとわかっていても、驚きのあまり目を合わせることができない。
だって、今日の白砥には――眼鏡が、ないのだ。
「黒沼? どしたの?」
「あ……の、白砥さん。きょ、今日、眼鏡、は」
「あ、あれね。伊達なんだ」
「……伊達……」
呆然と繰り返せば、そう、と白砥は笑って。
「なんかほら……僕、割と童顔でしょ。背も低いし、歳より下に見られがちでさ。だから仕事中はちょっとでも箔をつけたいというか……ひげとかもはやしたかったんだけど、それは体質的に無理っぽくて。だから、とりあえず眼鏡でも掛けてみようかなって、主任になったときに買ったんだ」
恐る恐るもう一度、白砥の顔を視界に収める。
初めて見る、眼鏡のない推しの顔。
つるりとした顎を撫でつつ、白砥は言った。
「……ごめん。黒沼の推し活的には、眼鏡、あった方が良かった?」
「いいいっ、いいええ! そ、っういうわけ、では!」
どこか申し訳なさそうな白砥の言葉を、盛大にどもりながらも否定する。
そう、そういうわけではないのだ。
そういうわけではないからこそ、とても、困っているのだけれど。
(な、なんでだ!? 眼鏡という俺の理想を構成する重要な因子の一つがないのに、どうして俺は白砥さんをこんなに可愛いと思ってるんだ!? いやまあ確かに眼鏡は推しの本体ではない、本体ではないが、でも俺にとっては推しを構成する大事な要素の一つだったはずで……!)
眼鏡がない。
黒沼にとって、理想の推しを形作る大事な要素の一つであったはずのそれが、今日の白砥にはない。
今までだったら絶対に違和感を抱いていただろうし、何か違うとがっかりしていたはずのこと。なのに今、眼鏡を掛けていない白砥を見ても、黒沼には全く違和感など浮かばなかった。それはそれで可愛いな、と思っただけだったのだ。
「黒沼? あの、本当に無理しなくていいんだよ? 眼鏡持ってきてるから、掛けようか?」
そんな自分に衝撃を受けて思わず固まっていると、白砥が気遣わしげに尋ねてきた。
身長差故に自然と上目遣いになられ、大きな瞳と小動物のような仕草が奏でる愛らしさのハーモニーに、にやつきそうになるのをなんとかこらえる。
(うおあああ、上目遣いいただきましたありがとうございますごちそうさまです! くっどうして俺の目には録画機能がついてないんだマジでどのメーカーでもいいから早急に開発してくれ! そして仕事用の伊達眼鏡なんだから休みには必要ないのに念の為持ってきてくれてるなんて神対応過ぎる、やはり白砥さんはお気遣いの天使……)
そこまで考えて、はたと気づく。
(……そうか。俺の理想の推しは、もう白砥さんなんだ。だから白砥さんの全部が、俺の理想になるんだ)
今まで、手にした作品の中から推しを見いだすには、理想の推しの条件に合致しているか、という判断基準があった。
そして白砥はその条件に見事に当てはまり、だからこそ黒沼にとって理想の推しになったのだ。
けれど、今はもう違うのだろう。
白砥晶という存在それ自体が、今の黒沼にとっては推しの理想なのだ。
己にとっての理想を煮詰めて漉して固めたような奇跡の存在。だから白砥が眼鏡を外せばそれはそれで可愛いと思うし、恐らく髪を染めたってそれもありだと思うのだろう。
黒沼にとっての白砥は推しの理想であり、かつ理想の推しであるのだ。
何をもって理想と判断するかという基準が、これまでのような要素の羅列ではなく、白砥晶という一個人になった。
これはただ、それだけのことであろう。
「いえ大丈夫です、すみません。見慣れてなくて、ちょっと、驚きました」
「そ、そう? えっと、本当に平気?」
「はい」
一度得心してしまえば騒がしかった鼓動も比較的速やかに落ち着いたので、黒沼は努めて平静に答えると休日の白砥の姿を目に焼き付けるべくもう一度彼をよくよく見た。
今日の服装はオーバーサイズの襟なしシャツにくるぶしが出るくらいの丈の短い細身のパンツとスニーカー、リュックサックというラフな出で立ちだ。
元々会社では支給品の作業服だが、終業後の飲み会などで私服を目にする機会はあった。だがそのときに見たことのある服装はもう少しかっちりしていたので、これが本物の私服なのだろうと想像がつく。
ただでさえ細く小柄な体躯が、オーバーサイズのシャツのせいでなおさら華奢に見えて、なんだか急に不安になった。
「白砥さん。最近三食、ちゃんと食べてますか」
「食べてますよー。これはね、大きいサイズで着る服なんだって。会社にはちょっと緩すぎて着ていけないけど、楽でいいんだ」
だから別に僕が細いわけではない、と笑ってシャツをつまんだ白砥が、逆に黒沼のことをじっと見てくる。
何か服装におかしなところがあったかと緊張したが、ややあってから白砥は感心したように言った。
「……黒沼は、スタイルが良いんだねぇ」
「普通だと思いますが」
「普通ではないでしょ、かっこいいよ」
突然褒められて、鼓動がぴょんと跳ね上がる。推しからの急な褒め言葉は、心臓に悪い。
「いや、足、なっがいなあって。背が高いのは知ってたけど、なんだろうね、うちの作業服だとあんまり感じないからさ、ちょっとびっくりしたの。座ってることが多いせい? あとなんか……おしゃれだよね、黒沼って」
「……恥ずかしながら、服は全て姉のセンスです」
そんなことはない、などと言って白砥の褒め言葉を否定しては、姉のセンスまで否定することになる。こちらが頼んで見繕ってもらったわけたし、そうでなくとも姉には何かと世話になっているから、たとえ伝わることがないにせよそれを否定するのは違うだろう。
だから恥を忍んで告白すれば、白砥は目を丸くして。
「え、お姉さんが選んだの? お店の人とかじゃなくて? すごいね、じゃあお姉さんのセンスがいいんだ。黒沼にめっちゃ似合ってるもんね」
(うわあああ白砥さん好きだーっ!! なんでそんなに清らかな心をお持ちなんですか大丈夫ですか背中に羽根とか生えてませんかいきなり天界に帰らないでくださいお願いしますうう!!)
いい歳をして自分の服さえ決められず姉に選んでもらっているのか、という罵倒が来ることも覚悟していたのに、姉弟仲がいいんだね、と付け足した白砥はふわりと笑ってくれた。その優しさに、天を仰ぎ叫びたくなるのを必死にこらえる。
自分の外見に興味などないから、普段は他人の目など気にせず自分で選んだ適当な服を着ているが、白砥と出かけるとなれば話は別だ。
最低限彼の隣に立っても問題がないような服を選ばねばならないと思ったとき、黒沼は即座に姉に頼ることを決めていた。
指定された報酬は最近人気のドーナツであったが、行列に一時間並ぶことで多少なりと白砥の隣に立つ際の精神的な安寧が得られるのならば安いものだ。
仕事終わりに合流した姉に促されるまま買ったのは、切り替えが入った半袖の襟付きシャツと幅広めのパンツ。カバンもついでに選んでもらい、ボディバッグとやらを一つ買った。普段はリュックサックだから、何となく落ち着かない。
襟付きシャツは羽織るものらしく、中には適当に合いそうな手持ちのシャツを着るように言われた。適当に合いそうな、の部分に自信がなさ過ぎて念の為着用写真を撮って送れば「問題なし。あとで報告ヨロ」とだけ返事があったので、多分大丈夫だったのだろう。
(ありがとう姉ちゃん、おかげで推しにめっちゃ褒められました!! 幸福のバロメーターが振り切れててヤバいです!! あとでまたドーナツ奢るな!!)
「いいなあ、そういう服が似合うのってうらやましい。僕が着ても似合わないから」
「そんなことないと思いますけど」
「そんなことあるんですよ。そういうのはね、ちゃんと背の高い人が着る物なんです」
白砥がうらやましそうな顔を隠しもせずにこちらをじいっと見ている。
普段あまり見ることのないその顔を近くで見られたことは、確かに僥倖なのだけれど。
「……」
「……」
「……いいなぁ、背が高くて。かっこいいなぁ……」
「あ、あの、白砥さん……後生なんで、その辺で止めてもらえると……」
ほう、と息を吐いた白砥の声にいたたまれなくなり、黒沼は呻くように言った。
白砥は不思議そうに目を瞬いている。
そんな仕草一つとってもこれ以上ないほど可愛くてありがたいのだが、それはそれとして。
「なんでぇ? 褒めただけなのに」
「それは褒め殺しというものです。マジでもう動悸がヤバいので、本当に勘弁してください。確実に今、寿命が、縮んでいます」
これまでは遠くから眺めるだけで幸せだった推しが、今目の前にいて、しかも自分のことだけを見ているのだ。
先程一度は落ち着いた鼓動もすっかり早鐘を打っているし、手汗が酷いわりに口の中はからからで、もうどうしたらいいやらわからない。
(こ、こんな状態で一日過ごすのか? 過ごせるのか、俺は!? いや、過ごせるか過ごせないかじゃない、過ごすんだ。今日の俺は白砥さんの為の壁! 白砥さんの幸福の為なら、寿命の五年や十年縮まったとしても問題はない!)
白砥は不満そうに口をへの字にした。ちょっと可愛すぎるのでやめて欲しいと思う。
「えー、かっこいいのになぁ」
「ほらまた軽率に俺を殺しにかかる」
「かかってませんー! こんなのせいぜい事実陳列罪止まりじゃん」
「……初めて聞く罪なんですが?」
「うん、僕も初めて言った」
「ない罪ですか?」
「ない罪ですねぇ」
ほぼオウム返しに言ってから、へへ、と楽しげに笑った白砥につられて、黒沼はつい笑ってしまった。
「ん、よかった。笑ってくれた」
「……あ、……すみません」
「もー、謝らないでよ! ……ごめんね、黒沼は普段からあんまり笑わないタイプなの知ってるけどさ、何となく今日はいつもより硬い気がして、気になっちゃったんだ」
(ううっ白砥さん優しい……こんな白砥さん限界オタクのことまでちゃんと気にしてくれる……!)
優しく笑った白砥が、首を傾げて問うてくる。
「緊張してる?」
「……はい、その、結構」
「そりゃそうだよなぁ、上司と二人で休日にお出かけなんて、緊張するなってほうが無理だよね。……でも、一緒に行くって言ってくれて、嬉しかったよ。ありがとね、黒沼」
「いえ……喜んでもらえたなら、良かったです」
ぼちぼち行こっか、と歩き出した白砥について歩き出しながら、黒沼は言った。
「白砥さんは、俺の推しなので」




