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6.黒沼涼太という男


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 爽やかに晴れた土曜日の午前十時、黒沼は駅前の小さな噴水を見ながら深々とため息をついていた。


(ああもう、なんてことしてくれてんだ月曜日の俺……!)


 今週の頭、黒沼は会社の上司であり推しである白砥と飲みに行った。

 元々推しに自分を認知されたくない派の黒沼は、白砥に対し積極的に近づくような真似はしてこなかった。なんなら、やや避けていたといってもいい。

 けれどもその日、とんでもないことが起こったのだ。

 週明けの定例である全体朝礼で、つい最近まで白砥と交際していたはずの根津が、いきなり結婚したと発表されたのである。

 一ヶ月ほど前から急に白砥の様子がおかしくなったこと、そして根津が極端に白渡を避けるようになったことから、恐らく二人は破局してしまったのだろう、と想像はしていた。

 しかしそれはあくまでも、円満というか、きちんと話し合った末での別れだったのだろう、と黒沼は思っていた。白砥は真面目な仕事人間で不貞を働くような印象はないし、根津だってあんなに白砥に熱を上げていたのだから――なんたって黒沼は、彼らのキスシーンを二度も目撃してしまったのだ――、きっと白砥を大切にしているだろう、そう思っていたのだ。

 だが、これでは白砥を捨てて即座に別の相手と交際し始め、しかも結婚したことになる。

 白砥は「一ヶ月前に別れたから大丈夫」と言ったけれど、二週間ほど前までの白砥はそれこそ幽鬼のような有様だった。元々細く華奢な身体が一層痩せて、ぱっちりと大きな二重の瞳はうつろにモニターを見るばかり。それでも、誰かに話しかけられれば気丈にも笑みを作って応対する白砥の姿に、ある日ふっと消えてしまうのではないかと黒沼は大層気を揉んだのだ。

 それほどに好きだった相手が、自分と別れた後あっけなく他の誰かと結婚するなんて、たとえ数字の上では問題なかったとしても気持ちとしては相当な苦痛だろう。

 せめて少しでも慰められれば、という思いで話しかけたら、何故か白砥の方から夕食に誘ってくれて、これは行くしかあるまいと黒沼は即決した。

 推しに認知されたくない、なんて、自分の都合などどうでもいい。白砥の心がわずかでも上向くのならば、なんだってしてやりたい。

 その目論見自体は多分、まあまあ成功したのだと思う。白砥は楽しそうに飲んでいたし、黒沼って面白い子だったんだね、と何度も笑ってくれたから、もうそれだけで十分だった。

 十分だった、はずなのだ。


(なのになんで俺は休日に推しと推しの好きスポットにお出かけするなんていう恐ろしすぎる神イベントをゲットしてるんだよ……いや、なんでとかじゃなくて俺が押し切ったことは薄々覚えてるんだけど! 絶対俺のせいなんだけど! あああどうすんだこれ、嬉しいとかじゃなくて恐れ多すぎてもうどうしたらいいかわからない……!)


 もはや崇拝の域にあるほど好きな推しとのまさかのサシ飲みという事態に、喜びと緊張と興奮でどうにかなりそうだったのを酒の力でねじ伏せたせいで記憶がずいぶんふわふわしてしまい、現実離れした気分のまま黒沼は家に帰った。

 そして、寝る前にもう一度だけメッセージアプリの個人的なトーク画面に送られた白砥からのメッセージを拝もうとアプリを開いたら、そこにはいつの間にか新しいメッセージが送られてきていたのだ。


『今日はありがとう。結構酔ってたけど、ちゃんと帰れた? 悪酔いしてないかな。

 お言葉に甘えて、土曜日、楽しみにしてます。

 念の為にもう一度場所だけ送っておくね。

 待ち合わせとかはまた今度決めようね。


 もしも、やっぱり嫌だなって思ったら、

 いつでも断ってくれていいからね。』


 そんな言葉とともに送られてきていたリンクは間違いなく水族館のもので、それを見た瞬間アルコールのせいで薄れていた記憶がさあっと蘇ってきた。

 二人きりでの飲み会の終盤、根津と別れてから休日に外出することが億劫になってしまったのだと言った白砥に、黒沼はそれなら自分が一緒に出かけるからどこかへ行きましょうと言ったのだ。

 休日出勤も残業も、根津と別れた直後よりはずっと減ったけれど、そもそもワーカホリック気味な白砥は定時で退社すること自体がまれで、今年の休日出勤回数も部内では一番多い。家族サービスに余念のない部長の中西や、もう一人いる白砥より年上の主任よりも多いのだ。

 もしもその理由の一端に、一人で外出することに対してのモチベーションの低さがあるのなら、そこを手助けすることは自分にも可能ではないか。

 そう言った黒沼に、休みの日にまで上司の相手をさせるのはさすがに悪いよ、男二人で行くような所でもないし、と白砥は最初遠慮していたのだが、どうにかこうにか口説き落としてもぎ取ったのが、この土曜日の水族館なのである。


(ぐああ、だからなんでもぎ取っちゃったんだよ月曜夜の俺の馬鹿! どう考えたって困ってただろ白砥さんは! なんならちょっと迷惑まであっただろ! ……っていっても、今更断るわけにはいかないし。ああ愚か、本当に愚か、救いようのない愚かさ過ぎる、はいここに馬鹿がいまーす、わー……)


 実は黒沼はあまり酒には強くない。嫌いなわけではないし、二日酔いや悪酔いはさほどしないのだが、酒が入るとついつい自分の趣味のことや普段は思っても口に出さないようなことまで言ってしまうから、会社の飲み会などでも極力飲まないようにしているのだ。

 久方ぶりに酒の席でやらかしてしまった失態に、白砥からのメッセージを見ながら愕然としたものの、とき既に遅し。

 送られてきたメッセージを見る限り、今から黒沼が断れば白砥はそれを「やっぱり自分と出かけるのは嫌だったんだな」と解釈するだろうことは明白であった。そして、それだけは絶対に避けねばならないことでもあった。

 推しである白砥には、本当に、心から幸せでいて欲しいのだ。自分のせいで悲しい思いなどして欲しくないし、ましてやわずかでも傷つけるようなことなど、決してあってはならないのである。

 もちろん、ただの部下である自分との外出がなくなったことに白砥が傷つく、などという自惚れは抱いていないが、誰よりも優しく部下に対してであろうとどこまでも気を遣う白砥のことだ、きっと黒沼は無理をして自分を誘ったのかも、などと考えてその清らかな心を痛めてしまいかねない。

 それはあまりに申し訳なくて、であればもう自分が腹を括って行くほかはないと、不退転の決意でもって黒沼はこの場に立っているのだ。


(ああ駄目だ落ち着かない。どう考えても推しと二人で水族館なんて、俺がもらっていい幸福の総量を超えている……一接触十秒のお渡し会とは違うんだぞ、俺なんかが、物理的に、推しの隣に何時間も並ぶなんてことが本当に許されるのか!? ……いや許されないな、普通に考えてダメだ、どう考えてもダメだ。くそっ、せめて金を払わせて欲しい……振込先を教えてもらえないなら、もうこっそり現金を白砥さんのカバンに押し込むしかないのでは……?)


 黒沼にとって、白砥はまさに二次元を飛び出し三次元に現れた理想の推しであった。

 そもそも黒沼は腐男子である。高校生の頃、五歳年上の姉の本棚でうっかり見つけてしまった全年齢向けBL漫画をきっかけに沼に落ち、既に立派な腐女子であった姉の協力という名の教育もありそこから腐男子道をひた走ってきた。

 男子高校生同士の純愛を描いたその漫画に登場する、いわゆる受け側のキャラクターにこれでもかとハマった黒沼は、以降そのキャラクターと似たキャラクターばかりを好きになってきた。すなわち小柄で、華奢で、黒髪で、眼鏡で、一人称が僕で、物腰が柔らかく性格が温和、というキャラクターである。

 もちろん、ポジションとして受け側であることは外せない。なんでも美味しく嗜む姉と違って、黒沼はいわゆる逆カプやリバといった要素は全く受け付けられなかった。どこまでも左右は固定である。それは絶対に譲れない。

 であるから、いくら受けキャラクターとしては典型的らしいその造形を愛しているとはいえ、どんな作品でも読めるというわけではなかった。しかも黒沼は物語として悲しい終わり方をするものはBLかそうでないかを問わず苦手で、うっかり趣味に合わない作品に触れようものならかなりの期間悲しみを引きずってしまうのだ。

 いくつかの互いにとって不幸な出会いを通じて――バッドエンドも小柄でおとなしい黒髪攻めも、黒沼にとってはそっと箸を置く存在であるだけで、それを大好物とする人がいることは重々承知である――、結局一度自分が通過した、自分にとって「安全な」作品だけをひたすら味わい続けるほうが気が楽なのではないかと思い始めた黒沼に救いの手を差し伸べたのは、やはり姉という存在だった。

 乱読家の姉は自分が知る作品全ての中から、黒沼が推したくなるような受けキャラクターがいて、かつ物語の内容としても黒沼が好みそうなものを厳選して勧めてくれるようになったのだ。おかげで黒沼は見事に黒髪眼鏡小柄受け甘々ハッピーエンドBLという沼から抜け出せなくなった、ともいえるのだが。

 そして美容師である姉は、作品を薦める代わりに黒沼の髪型を自分の自由にさせろ、と言ってきた。

 人によっては絶対に頷けない要求だろうが、学生時代から自分の外見に全くといっていいほど興味がなかった黒沼は、そんなことでいいのならと姉の希望を承諾した。

 きっと練習台にされるのだろうが、いくらなんでも外に出られないほど酷いことにはならないはずだ。

 そう思っていたのだが、別に姉は練習台が欲しいわけではなく、創作資料のために黒沼を自身の推しと同じ髪型にしたかった、という理由だったことを知ったのは、それから一年も経った後のことである。姉が二次創作を嗜む絵描きであることも、そのとき初めて知ったほどだ。

 けれど理由はどうあれ、無料で髪を整えてもらえるのはありがたかったし特に希望もないので、もう何年も黒沼の髪型はその時々の姉の推しに左右されているのだった。

 ちなみに現在はピンクアッシュに染めた髪をハーフアップにするように、というなかなか派手目の指令が出ている。

 基本的に髪色は自由だと言われていたものの、さすがに入社時は黒髪に戻していたから、念の為部長の中西に参考写真を見せ問題ないかと確認してから染めたものだ。

 姉も気を遣ってやや暗めの色合いに調整してくれたようだが、それでも一気に変わりすぎた自分の髪に少々不安を抱きながら登社した週明け、白砥が目を丸くして「綺麗な色だねぇ」と言ってくれたことは多分一生忘れないだろう。


(……ヤヤヤバい、ああああと二十五分もしたらおお推しが……白砥さんが本当に、この場に来てしまう! どうしよう、最低限隣に立っておかしくないような外見になれてるよな? 普通の人間に擬態できてるよな? 大丈夫だよな? 大丈夫なはずだ、姉ちゃんのセンスは俺より百万倍まともだ、信じてるぞ姉ちゃん……!)


 学生時代から腐男子をやってきた黒沼だが、三次元の人間を推すのは実は白砥が初めてであった。

 姉が薦めてくれる作品の中には実写のドラマや映画もあり、そこには黒沼が好むと姉が判断したのだろう黒髪の小柄な俳優が映っていたけれど、どういうわけかこれまではあまり興味が湧かなかったのだ。

 黒髪で小柄で眼鏡で温厚でも、なにかが違う、と思ってしまう。

 だから姉から勧められる漫画や小説やアニメやゲームは喜んで手に取ったが、実写のドラマや映画は何となく受け入れられず、アンタも面倒くさいオタクだねえと姉から苦笑されたこともあった。

 そもそも二次元のキャラクターをそのまま三次元に取り出すことはほぼ不可能だし、自分は二次元のキャラクターしか推せないタイプの人間なのだろう。

 それならそれでいい、と黒沼は思っていた。

 元来一つのものを長く推すタイプの人間であり、最初に出会ったあの漫画の受けが今でも理想の推しなのだから、三次元に推しがいなくても何も困ることはないのだと。

 けれど、入社式の日に初めて白砥に会って。

 自分より年上のはずの彼が――しかも五歳も上なのだとはあとで知った――まるで高校生のような童顔で、小柄で華奢で手足が細くて頭が小さくて眼鏡を掛けていて、さらさらした黒髪にぱっちりした二重の瞳という二次元の理想がそのまま飛び出してきたような外見をしていたことに驚いて。

 研修期間を終え同じ部署で働き出してから知った、驚くほど人当たりが良く温和な性格と、コロコロと表情を変えてはよく笑う明朗さ、仕事に向き合うときのきりりとした真摯な姿勢、部下のためならば他部署の上役にも食ってかかるような気の強ささえ魅力的で。

 黒沼の中の理想の推しは、いつの間にか白砥晶という三次元の人間そのものになってしまったのだった。


(ぐううあと二十分になってしまった……いいか俺、今日は絶対余計なことだけは言うな、なるべく何も言うな、あと顔がにやけないように気をつけろ、今日一日なんとか普通の無害な部下を演じきるんだ! 俺が白砥さん推しなのはもうバレてるからいいけど、さすがにここまでキモイレベルなのがバレたら絶対引かれるんだからな……!)


 あまりに己の理想として完成された存在である白砥への感情が恋にならなかったのは、逆に白砥がどこまでも黒沼の理想過ぎた、という理由がまず一つあった。

 そもそも黒沼にとっての推しは空に輝く星であって、自分などが隣に並び立てるようなものではない。だから理想であればあるほど、恋愛対象にはならなかった。憧憬や尊敬や崇拝の対象とはなっても、恋愛の対象にはなりえないのだ。

 そしてもう一つのさらに大きな理由が、入社して早々に白砥と根津とのキスシーンをうっかり見てしまった、というものである。

 常々、黒髪小柄眼鏡受け甘々BLを主食としてきた腐男子である黒沼にとって、それは完璧すぎるほど美しい組み合わせだったのだ。

 見事なまでの身長差と体格差、人気のない社内の片隅という密会には最適のシチュエーション、やや強引に迫った根津に対し赤面しながら怒る白砥。

 様式美とはまさにこのことか、という典型的な展開に感激したその日は感情を押し殺すのが大変で、何人かの同僚には「何怒ってんだ?」と聞かれたくらいだった。そのくらい頑張っていないと、顔が緩んでしまいそうだっただけなのだが。

 こんなにも完璧なカップリングがいつでも見られる社内に存在しているなんて、もう奇跡としか思えない。公式供給ありがとう。この世の全てに感謝。

 しかしあまりにも全てが自分にとってのみ都合の良すぎる展開で、もしかしたら何かの見間違いだったのではと一度はいぶかしんだものの、今度は残業時間に二度目のキスシーンを目撃することになり、黒沼は思わず天を仰ぎ我と我が身の幸福に涙し家に帰ってからは公式が最大手と叫びながらのたうち回ったものである。


(……白砥さん、水族館好きだって言ってたな。俺が付き添いってことだけがとんでもなく心配だけど、ちょっとでも楽しんでくれたらいいな……)


 世の中がいわゆるオタクに寛容になってきたとはいえ、腐男子という存在はその絶対数の少なさもあってまだまだ日陰者であろう。

 ましてや同じ会社の上司を密かにBLの受けキャラとして推している、なんてことは決して本人にバレてはいけないと、黒沼はうっかり己の本性が漏れ出ないよう会社ではかなり気を遣って私語を減らし、なるべく無表情を貫いてきた。

 推しの視界に入りたいとも、自分の存在を認知されたいともは思わない。ただ、壁のように床のように、窓からわずかに差し込む月光のように、その幸福をほんの少しだけ、そばで眺めさせてもらえたらありがたい。

 黒沼はずっと推しに対してそう思ってきた。だから白砥に対しても、自分から近づこうなんて気は全くなかったのだ。

 ――根津が、白砥を、捨てなければ。


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