4.事の発端
駅前にある個室系居酒屋は、まだ時間が早めのせいかかろうじて席が空いていた。
店を決める前に食べ物の好みなどを聞いてみたのだが、黒沼曰く特に好き嫌いはない、むしろ食べ物のことよりも気楽に話ができる場所がいいとのことで、結局無難に居酒屋になってしまった。
あまり静かな店だと会話自体に抵抗があるし、隣席が近ければ視線を気にする。個室系、というだけあってこの店はすだれや間仕切りを工夫しそれとなく視線を遮り席同士の距離が取られているから、ちょうどいいだろう。
先月、設計部で新人の歓迎会をやったときにも使った店だから、初見の店よりは安心感もある。黒沼にも見覚えがあるはずだ。
「あの、なんか、急に誘っちゃってごめんね。来てくれてありがとね」
お礼に今日は僕が奢るから、と言ってみれば、すぐさま首が横に振られる。
「いえ、割り勘でお願いします」
「やだよ。さっき助けてもらった分もあるし……それに僕、年下の子と飲みに行ったら、最初の一回は絶対奢るって決めてるの」
もう何年も前になる、自分にとってその最初の一回だったときに、当時はまだ主任だった中西に言われたのだ。
「中西部長がね、そうしてくれて。気になるなら、次に新しい子が来たときは、白砥がそうしてあげてねって。なんかそれがめっちゃ格好良く思えてさ……それ以来、僕もずっとそうしてるんだ」
高校を卒業してすぐこの会社に入った白砥は、最初工作部に配属された。
けれど当時の工作部の部長と折り合いが悪く、二年目に入る頃にはいつ辞めようかと退職届を通勤用のリュックサックに忍ばせているような有様だったのだ。
――俺、白砥ちゃんは設計向いてると思うんだよ。
そんな白砥を見かねてか、そう言って設計部に引き抜いてくれたのが当時主任だった中西である。
――いつだって後工程のこと考えて作業してるでしょ。そういう姿勢、図面にも大事だからさ。ねえ、辞めちゃうくらいなら、いっそ俺のとこにおいで。右も左もわからん設計なんて不安だとは思うけど、おじさんが全力でサポートするよ。
あの日から九年間、全く何の知識もない自分をそれでも救おうとしてくれた中西の名に泥を塗らないよう、がむしゃらに働いてきた。専門知識のない高卒なんて役に立つのかと、陰口をたたかれたこともある。それでも中西が信じてくれたから、白砥はこの場に踏みとどまっていられたのだ。
(そろそろ、最初の一杯分くらいの恩返しは、できてるといいんだけど)
憧れた大人としての姿には、まったく近づけた気はしないのが悲しいところだけれど。
「……だから、僕の顔を立てると思ってここは奢られてよ。もし気になるようだったら黒沼も、後輩と飲みに行った最初の一回、奢ってあげて?」
ね、と首を傾げて笑ってやれば、黒沼はしっかり二呼吸分ほど黙っていてから深く息を吐き出して頷いた。かなり葛藤があったようだが、納得はしてくれたらしい。
席についてすぐ頼んでいたビールといくつかのつまみ、それからお通しが運ばれてきたので、白砥はジョッキを持ち上げる。
「まあ、まずは飲もっか。お疲れさま」
「お疲れさまです」
ごち、と軽めにジョッキを当ててから中身を喉へ流し込む。今日は五月にしては気温が高く、雨上がりで蒸し暑かったから、冷えたビールが心地よい。
お通しの和え物をつついていると、注文用のタブレットから手を離した黒沼が急に居住まいを正して口を開いた。
「……あの。さっきは、すみませんでした」
「え? 何が?」
「その、俺、……白渡さんの手を、断りもなく握ってしまって」
「ん? ……あー……?」
黒沼が言っているのは、根津に追われて会社を出たときのことだろう。
確かに一度手を握られたが、あれは自分を落ち着かせるための行動だったのではないか。
しかもそのあとすぐに離されたのだから、別に何も気にしていなかった。今言われるまで、すっかり忘れていたくらいだ。
というか、男女ならまだしも同性同士でほんの数秒身体的接触があった程度のことを、何もそこまでしっかり謝る必要はないだろう。
「そんなの別に気にしないよ。っていうか、あそこにいてくれてありがとね。根津さん力強いからさ、ちょっと怖かったの。黒沼がいてくれて良かったよ」
「……なにかされたんですか?」
「んー、まあ、腕掴まれたくらい」
「訴えることになったら、俺はいつでも証言しますから」
「しないしない! そこまでじゃないから! 大丈夫だから!」
険しい顔をした黒沼につい吹き出せば、数秒の後ため息をついて黒沼は表情を和らげた。
「多分、昼に白砥さんが捕まらなかったから、ああなったんですよね」
「多分ねえ」
「聞いていいことか、わからないんですが……根津さんって結局、何がしたかったんですか?」
「んー……、……なんか、僕に謝らなくちゃって思ったんだって」
「え、今更?」
「ふふ、うん、そうねえ。今更だよね、僕もそう思う」
思わず漏らしてしまったのだろう、敬語も取れた黒沼の本音がおかしくて笑ってしまう。
黒沼の側から問われたついでに、聞きたかった話も切り出してしまおうと白砥は口を開いた。
「あのさ、黒沼は、僕と根津さんが付き合ってたこと、知ってたんだよね」
「はい」
「それって、えっと……いつから気づいてた?」
「……それは……」
ためらうように、視線が外れた。
少し言い淀んで、けれど心を決めたのか、黒沼の目がもう一度自分を見る。
「……二年前、俺がまだ新人だった頃なんですけど。白砥さんを探して、社内を歩いてたときに……その、根津さんが強引にキスしてるのを、見てしまって」
「……えっ、……マジで?」
「マジです。あの、今日白砥さんと話したところ……休憩スペースの、自販機の前あたりで」
「あ……あれかぁー!」
二年前といえば、まだかなり根津が積極的だった頃である。
社内で必要以上に近づくな、プライベートの話はするな、名前で呼ぶな、身体に触れるなと再三言ったのに、誰も見てないって確認したから、などと言いながら手を出されたことが確か三回はあったはずだ。
休憩スペースでは一度、残業中に設計室で二度。
その一度を、まさか黒沼に見られていただなんて。
「あの本当にすいませんごめんなさいわざとではなくて、ただただ偶然と言いますかたまたまと言いますか、あとあの誓って誰にも言ってませんので!」
「いや、あの、それは僕の方こそごめんというか、うわ、もう、だからやめろって言ったのに……!」
日頃の口数の少なさなどどこへやら、早口言葉のようになりながら黒沼が謝罪してきたが、それを面白く思う余裕すら今の白砥にはなかった。
こちらは気づかれていないと思っても、意外にどこかで誰かが見ていたりするものなのだ。
だから一番いいのは職場では一切そうした交流を持たないことで、根津の今後のことも考えて言っているのだからと毎回口を酸っぱくして説教して、その三回を最後にもうやっていない、はずである。
男同士だから、というのもあるが、そもそも白砥は仕事とプライベートはしっかり分けたいタイプなのだ。他人が見ている可能性のある状況でベタベタされるのが苦手、といってもいい。
だというのに、よりによって、それを自分の部下に見られていたなんて。
恥ずかしいやら情けないやらでもう、今すぐ穴でも掘って埋まりたいくらいだ。
盛大にため息をついただけでは飽き足らず顔を覆って呻いていれば、恐る恐る、というように黒沼が声を掛けてくる。
「……白砥さん。その、実はですね。あの、大変言いづらいんですが」
「えええ……今の以上に言いづらいことがあんのぉ……?」
「実は俺、お二人のそういうところを……そのあと、もう一度見てまして」
「もう一度見てましてぇ!?」
「はい、その、設計室に忘れ物して取りに戻ったときに……で、これはもう見間違いとかじゃないなと思って、確信したというのが、あってですね」
「……なんだよぉ、もう、見間違いであってくれよぉ……」
白砥は呻いた。顔面が異様に熱い。多分、相当赤くなっているのだろう。
(黒沼には悪いけど、見られたのが黒沼で本当に良かった……)
これが噂好きな人間や、同性愛に対し否定的な感情を強く持つ人間だったら、きっと瞬く間に二人の関係は社内に広まっていたはずだ。
そうしたら根津も白砥も、今頃あの会社に居場所などなかったかもしれない。
同性間での交際がテレビドラマになったり映画になったりするようになって久しいが、それでも現実的にはなかなか受け入れられにくい面もあるのだ。
「うう……ごめんね黒沼……お見苦しいものを二度も見せてしまって大変申し訳ない……」
「いえ、全然見苦しくもなくなんなら見たかったので俺は良いんですけど」
「……うへぇ?」
赤くなりながら謝罪すれば完全に想定外の返事が聞こえて、白砥は思わずよくわからない声を発していた。
顔を覆ったままの手を少しずらし、そうっと対面の相手を見る。
いつも通りの、あまり表情のない顔がそこにあった。
「あの時点での根津さんは白砥さんの恋人だったわけで、それは全然許せますし」
「……えっと?」
「俺は入社したときからずっと、今も変わらず白砥さんが最推しなんですけど、当時カップリングとして根津白砥推しではあったんで、全然大丈夫です。今は絶対許せませんけど」
「……カップ? リング……?」
今の話のどこに器や輪っかが関わってくるのか。よくわからずに聞き返せば、黒沼は少し表情を緩めたようだった。
「いろいろ省きますけど、俺としては白砥さんが幸せなら、それでいいってことです」
「……」
ああ、本当に、彼は白砥の幸福を願ってくれているのだ。
どんな形であれ、白砥が幸せならそれでいいと、きっと心から思ってくれている。
(優しいんだね、黒沼は……)
その気持ちはとても嬉しいけれど、自分などが彼の祈りを受け取ってもいいものだろうか。
逡巡していれば、黒沼はジョッキをぐいと煽り僅かに怒りを滲ませた声で言った。
「だから逆に言うと、根津さんのことはマジで許せないです。部外者の俺がどうこういうことじゃないのは、わかってるんですけど……。だからさっきも態度悪くなっちゃって、すみませんでした。設計部の人間として、ちゃんとしてなきゃいけなかったのに」
「黒沼はちゃんとしてたよ、大丈夫。あのくらいは許されるでしょ」
あくまでも白砥の立場を思って自分の振る舞いを反省しているらしい黒沼を慰めて、温くなってきたビールを一口含む。
「……根津さんと、僕はね。四年くらい、付き合ってたの」
黒沼はじっと、いつものようにこちらを見ていた。
一度合わせた目を少し伏せて、白砥は言葉を継ぐ。
「ひと月くらい、前かな。急にね、他に好きな人ができたから別れて欲しい、って言われたの。そりゃあびっくりしたんだけど……嫌だ、って言うわけにもいかないじゃん。だって根津さんはもう、他の人を好きになっちゃってるんだから」
自分に対しての不満や、四年付き合ったことでの飽きが原因なら、白砥にも打つ手はあったかもしれない。
しかし根津の心がもう別の誰かに向いてしまったのなら、どうすることもできないだろう。
「その相手が女の人だってことも、そこで言われてさ。……根津さんは元々女の人とばっかり付き合ってた人だったから、まあ、それはね。だから言ったじゃん! っていう感じで、良かったんだけど」
まだ残っていた軟骨の唐揚げを箸でつまんで口に入れる。
一緒に付いてきたレモンを、絞るか絞らないかで根津と揉めたことを思い出した。
馬鹿みたいに些細な喧嘩はよくしていたけれど、大きな諍いはほとんどなくて。
このまま、今日のような明日が続けば、なんて思っていたのに。
「根津さんの希望で、最初から同棲してたから、別れるってなったらまず引っ越しだー、ってなって。幸い、家の方はすぐ見つかって引っ越せたけど、逆にそのせいか気持ちが全然ついてこなくてさ。黒沼もご存知の通りのガタガタ具合で、まあその節は大変ご迷惑をおかけしましてね、申し訳ありませんでした」
二週間ほど前、黒沼から差し入れをもらったときのことを今更ながらに改めて謝罪すれば、いつもの無表情が左右に揺れる。
「別に迷惑とかじゃないので、気にしないでください。あれは、俺が勝手にやったことなので」
「そうは言うけどさあ、三十目の前にして失恋くらいで……あっ、待って? ってことはやっぱりあのとき、もうわかってたんだ? 僕が凹んでるの、根津さんと別れたからだって……」
「わかってたというか……想定はしてました」
白砥さん何飲みますか、と言いながら注文用のタブレットを差し出してきた黒沼が、淡々と言う。
どうやら次はレモンサワーを飲むらしい彼につられて、同じものを頼んだ。
「……実は、白砥さんがあんまり無理するから、俺、根津さんに直談判しに行ったんですよ。白砥さんに、昼ちゃんと食うように言ってくださいって」
「うぇえっ!?」
それはさすがに想定外だ。というか、黒沼がそこまでの行動力を発揮しているとは思わなかった。
だって白砥の知っている黒沼と言えば、無表情で無口で無愛想で、他人に興味なんてなさそうな顔をして、けれど仕事だけはきちんと真面目にこなす若者だったから。
タブレットを元の位置に戻し、黒沼は表情を変えずに言葉を続ける。
「そうしたら根津さんに、白砥だって大人なんだから自分のことは自分でどうにかする、そんなに気になるならお前が言えばいい、って言われて……」
はっとしたようにこちらを見た黒沼が、すみません、と謝ってくる。
根津の発言に白砥が傷ついたのではないかと思ったのだろう。
けれど、思った以上に何も響かず、白砥は笑って大丈夫と答えた。
(終わったこと、だもんな)
白砥の中ではもう全部、終わったことになったのだ。
だから今更、彼の言葉に傷ついたりはしない。
ただ、失ってしまったものが胸の奥に開けた虚を覗いたときに、どうしようもなく悲しくなるだけなのだ。
「それで黒沼は、僕に差し入れしてくれるようになったんだ」
「だって、俺が急に食堂に誘うの、おかしいじゃないですか。これまでほとんど会話もしてないのに、いきなり昼一緒にどうですか、っていうのは……さすがに怪しすぎるなと思って。それにきっと、白砥さんは食べたくないだろうし、食堂に行くこと自体が嫌かなって思ったら、他に何も思いつかなくて……」
レモンサワーが二つ運ばれてくる。
よく冷えたジョッキを握って、白砥は息を吐いた。




