3.彼の中の推しの定義
二週間ほど前のことだ。
すなわち、根津との破局から二週間が経った頃。
部長の中西から、さすがに残業が多すぎるしこの頻度の休日出勤は認められないよ、ちゃんとお休み取りなさい、ときつめに諭された、その直後だった。
我ながら情けない話ではあるけれど、その頃の白砥は食欲もなくて、昼の休憩時間はほぼ寝て過ごしていた。
根津と暮らしていた頃は、彼の望みで二人分の食事を作ることも多かったけれど、昼は二人とも社員食堂で食べるのが基本だった。迂闊に似たような弁当を持ち込んで、社内の誰かに気づかれては困るからだ。
ひとり暮らしとなってからは食事を作る気も起きず、朝も夜も水分で少しばかりの固形物を流し込むような有様で、幸か不幸かそれでもさほど腹も減らないのだ。
ある日を境に社員食堂へぱったり姿を見せなくなった白砥を心配した部下たちに何かあったのかと聞かれたりもしたけれど、コンビニのおにぎりにハマっちゃったんだよね、などと適当な嘘をついてごまかしていた。
どうせ昼の休憩時間になれば、設計部の人間は皆設計室から出て行くのだ。誰もいなくなったら寝て、誰かが来る前に起きる。夜もあまり眠れていなかったから、誰にも邪魔されず昼寝の時間が取れることはむしろありがたかった。
けれどもその日、白砥が目を覚ましたら、机の上に見慣れないものがあったのである。
(えっと……誰かが忘れていったのかな?)
それは、よくドラッグストアなどで売っている、これ一つで栄養バランスが取れると謳った棒状の栄養機能食品だった。
もちろん自分で買った覚えもなければ、置いた記憶もない。
だから誰かがうっかりここに置き忘れたのだろうと思い、白砥は机の端にそれを置いたまま午後の仕事を始めた。
しかし結局誰もそれを取りには来なくて――むしろ図面の質問をしに来た部下から「白砥さん……こういうのじゃなくてちゃんと飯食った方がいいですよ、最近顔色悪いっすよ」とあたかも白砥が買ったかのような苦言を呈されたくらいだ――、首をひねりつつもそのままにしておいて。
翌日の昼休み、寝て起きたらそれは二つに増えていた。
(しかも、わざわざ違う味だし……なんだろう、これ、僕に食べろってこと?)
だが、昼食を取らない白砥を見かねてこんな差し入れをしてくれるような人間が、はたしてこの設計部にいるだろうか。
同僚をあまり悪し様に言いたくはないが、正直部内の誰もそういう気が利きそうな人間には思えないのだ。むしろどちらかというと、そうしたフォローは白砥の役目である場合が多かった。
(中西部長ならワンチャンあるかもだけど……昨日から出張だもんな)
どう頑張ってもいない人間にできることではないし、ならば一体誰なのだろうか。
さすがに正体が気になって、白砥は次の日、自分以外の全員が設計室を出たことを確認してから、机に伏せると寝たふりをしてみた。
すっかり昼寝の癖がついてしまったから、眠らないようにするのは大変だった。それでもなんとか意識を保っていれば、わずかな物音がしてから誰かが近づいてくる気配がある。
「……えっ、なに、黒沼だったの!?」
「あっ……」
ギリギリまで待ってから目を開けると、そこに立っていたのは一番可能性が低いと思っていた相手、黒沼だった。
手には、また味の違う栄養機能食品の箱を持っている。
無口で無表情で無愛想で、おおよそ他人に興味なんてなさそうな彼が、わざわざ自分に差し入れをしてくれていたとは、全くの予想外だった。
気まずそうに一度目線を逸らした黒沼は、しかし何かを吹っ切ったのかこちらを見下ろし手に持った箱を白砥の机にばんと置く。
「白砥さん。これ、俺からの差し入れです」
「うん、あの、えっと、ありがと」
「なんで、昼に食べてください。……せめて、こういうものだけでも」
「えっと」
「食べてください」
ものすごい圧を感じる声音で言った黒沼が、ずい、と三箱の栄養機能食品を白砥の方へ押しやってくる。
(え、あれ、黒沼って、こういうキャラだっけ……?)
「わわ、わかった。わかったけど、じゃあ、お金払わせて」
「いりません。差し入れですから」
「ダメ。払わせて。払わせてくれないなら、食べないからね」
厳しい目でじっとこちらを見下ろしている視線の圧力に、なんとか対抗するべく頑張って黒沼を睨み上げる。僅かにだが、黒沼はひるんだように見えた。
「……なん、でですか」
「だって、申し訳ないじゃん。こんなでも一応僕は上司だし、僕から黒沼に差し入れって渡すならわかるよ? でも実際は逆だから……せめて、お金くらいは払わせて欲しい。黒沼が僕に、そこまでする理由もないと思うし」
あるいは、普段から一緒に食事にでも行くような関係性ならばわかるのだ。素直に受け取って、ごめん今度奢るね、ありがとね、くらい言えば済んでしまうだろう。
だが自分たちはプライベートで食事に行くどころか、会社の飲み会で隣になったとてろくに話もしないような間柄である。
正直、黒沼に気を遣ってもらえる理由が、白砥には一ミクロンたりとも思い浮かばないのだった。
「……理由があればいいんですか?」
三箱でいくらくらいするのだろう、千円札一枚でいいだろうか、などと考えていたら、黙りこんでいた黒沼が急に口を開く。
白砥がそれに答えるより早く、彼は言葉を継いだ。
「理由ならありますよ。一方的な理由、ですけど」
切れ長の瞳が、こちらをじっと見下ろして。
「白砥さんは、俺の推しなんです。だから、倒れられたら困ります」
「……な、なに? な……なんですって?」
耳慣れない単語に目を瞬いて問い返せば、大きな年下の部下は少しだけ表情を緩めた。
「推し、なんです。……えっと、失礼だったらすみません。白砥さん、『推し』って、わかります?」
「……ごめん、ちょっとわかんない」
「いえ。……推しって、定義はいろいろあると思うんですけど、俺にとってはずっと、世界で一番幸せになって欲しい人のことでして」
仕事のこと以外で黒沼がこんなに喋ってるの初めてかもしれないな、などと余計なことが頭をよぎるほど、いつも無口で無愛想な彼が熱を込めて話すのを、白砥は黙って聞いていた。
じっとこちらを見下ろす双眸には、もう先程のような圧はない。
ともすれば睨まれているようにも思える、目つきの悪い一重に浮かぶのが、柔らかく純粋な好意だけだから。
「つまり俺が白砥さんを推してるってことはですね、俺にとっての白砥さんは、世界で一番幸せになって欲しい人だ、ってことなんですよ」
本当に大切そうに、誰かの幸福を祈る声音で紡がれたその言葉は、胸の奥底でずっと開いたままだった虚をふわりと覆って。
だから食べてください、ともう一度差し出された箱を、白砥はそのまま受け取ってしまったのだった。
(……勢いで誘っちゃったけど、やっぱりまずかったかなぁ……)
定時で上がる社員たちを見送って、窓の鍵が全て施錠されているかを確認する。予報通りに雨は上がったらしく、傘を差さずに出て行く人影がいくつも見えた。
念の為、出張中の中西に「今日は全員定時で上がります」とメッセージアプリで連絡すれば、すぐに既読がつき「最高!」と叫ぶ鳥のスタンプが送られてくる。中西が使うスタンプはいつもこれだ。中学生の娘からプレゼントされたものだとかで、何のキャラだかわからないけど台詞が使いやすいんだよねと笑っていた。
きちんとした仕事上の連絡はメールですることが多いけれど、こういうちょっとした連絡は個人的なスマートフォンを使ったメッセージアプリでやることが多い。そのために設計部全員でのグループトークも作ってあるのだ。
もっとしっかりした大手企業なら職場へのスマートフォンの持ち込み自体が禁止されていそうだが、白砥の勤めるこの会社はいわゆる中小企業レベルだからか、その点はさほど厳しくない。
少しだけ迷ってから、今度は黒沼との個人的なトーク画面を開く。
とはいえ、今まで一度も個人的に連絡を取り合ったことはないから、画面には送り先の名前以外何も表示されていなかった。
他の社員からは個別のメッセージが飛んできたこともあるが――例えば「この日って休んでも大丈夫ですかね?」などの白砥にこっそり聞きたいらしい内容は個人的なトークの方へ送られてくる――、黒沼に限ってはそうしたことさえ一度もないのだ。
(い、いいのかな。いいんだよね。っていうか、個人的な話をグループトークでやる方がまずいよね)
恐る恐る、「今から上がるから、会社のそばにいてくれる?」と入れてみる。こちらもすぐに既読がついた。
続いて表示された「わかりました」というあっさりした文章だけの返事からは、何となく普段の彼が思い出されてほっとする。
(よかった、このくらいの感じでいてくれた方が気が楽だ……黒沼ならきっと、嫌なら嫌って言ってくれるもんな)
――白砥さんは、俺の推しなんです。
その言葉をもらった日、白砥は帰宅すると黒沼が語った「推し」というものについて調べてみた。
それは元々人に対してのみ使われる言葉だったが、今ではものや作品自体に使われることもある表現の一つで、誰かに勧めたいと思うほど好感を持っているものに対して使う言葉だという。
――俺にとっての白砥さんは、世界で一番幸せになって欲しい人だ、ってことなんですよ。
つまり黒沼が語ってくれたあの推しの定義は、本当に彼にとってだけのものであり、つまりは彼の本心なのだろう。
(……嬉しかったんだよ、僕はさ。本当に本当に、嬉しかったの)
四年間ただ一人に向けていた愛をあっけなく捨てられて、自分の価値までわからなくなっていた白砥には、その一言がどうしようもなく響いてしまった。
あれほど愛した人から拒絶されたのだとしても、自分に対して世界で一番幸せになって欲しいという強く優しい祈りを捧げてくれる人が、この世にはまだ存在するのだ。
そう思うと、彼のためにも立ち直らなくては、という気持ちになれて。
そこから白砥は少しずつ、元の日常を取り戻すことができたのだ。
(あのとき、黒沼が推しだって言ってくれなかったら、きっと立ち直るまでにもっとかかってたんだろうなぁ……)
たかだか失恋ごときでこれほど凹むなど、齢二十九にもなって情けない限りではあるが、どうにも白砥は相手に全て捧げ尽くしてしまう傾向があるようで、根津の前に付き合った男性と相手の浮気が原因で別れたときもそれは酷いことになったものだった。
そんな白砥を慰めて受け止めて甘やかして、そのまま次の恋人の座に納まったのが根津なのだ。
なのに、その根津が四年後にほぼ同じ状況を招いているのだから、まったく笑えない。
(あー……多分僕、向いてないんだろうな、恋愛って)
振り回されて泣くくらいなら恋なんてしなければいいのに、優しくされたらすぐになびいてしまうのだから始末が悪い。まったく馬鹿だよなあ、と独りごちて、設計室の電気を消す。
お先に失礼します、とまだ残っている経理部に声を掛けて更衣室に行き、作業着から通勤用の私服に着替えて部屋を出た。
(週末じゃないから予約無しでも入れるかなあ。適当にうるさいところの方が話はしやすいけど……黒沼って、どういうお店が好きとかあるのかな)
勢いで食事に誘ってしまったが、はたしてどういう店に連れて行けばいいのだろうか。彼の好みなど何もわからないから、先に確認した方がいいかもしれない。
そんなことを考えつつエレベーターで一階まで降りれば、見慣れた人影がエントランスにいるのが見えてしまい、白砥は思わず足を止める。
「……白砥」
「……、……根津、さん」
外回りから帰ってきたところなのだろうか、ビジネスバッグを持ったスーツ姿の根津が硬い表情で声を掛けてきた。
「白砥。今、少し話せないか」
「……人を待たせてるから」
「すぐ終わる。その、お前には謝らなきゃならないと思って……今朝のこととか、説明もしたいし」
「いらない」
白砥はかぶりを振った。
だって、もう終わったことなのだ。
今更何を言われたって、失ったものが戻ってくるわけでもない。それなら下手な謝罪なんかで、これ以上痛みを思い出させないで欲しい。
(っていうか、『謝らなきゃならない』って……なんだよ)
謝ればきっと、根津の心は軽くなるのだろう。自分はきちんと謝った、だからもういいのだ。そう思うために謝りたい。理解はできる。
けれど白砥が謝罪を求めていないのなら、「謝らなければならない」わけではなく、あくまでも根津が「謝りたい」だけのはずだ。
もっとも、「謝りたい」と言われたところで、必要ないと答えるだけだけれど。
(ねえ、僕ら四年も一緒にいたんだよ。だから、僕の性格が悪いのなんて、根津さんはよーく知ってるでしょ?)
自分勝手に謝って一人だけすっきりして、それから晴れやかに結婚したいという元恋人を、はいそうですかと許してやれるほど人間ができていないことくらい、わかっているだろう。
(だから、謝らせてなんかあげない。……そのくらいの意趣返しは、許してよ)
泣いてわめいて復縁を迫ったわけでも、怒り狂って不貞を攻め立てたわけでもない自分が、最後にひとつ勝手を言うくらいは許して欲しい。
「いらないよ。僕はあなたに謝られたくなんてない。ただもうなにもせずに、放っておいて欲しいだけ。あなたと僕とは終わったんだから、それでいいでしょ」
「っ、晶……けど、俺は」
「名前で呼ばないで。もう一度言うけど、僕はあなたに謝られたくないんだよ。もし本当に悪いと思ってるなら、僕の意思を尊重して欲しい。お願いだからこれ以上、僕に関わろうとしないで。……もう、全部、おしまいにして」
話し合いはこれで終わりだというように、白砥は早足で根津の横を抜け、外へと続く自動ドアに向かおうとした。
「おい晶! ちょっ、待てって――」
しかし根津はなおも話を続ける気だったのか、通り過ぎざまにぐっと手首を掴まれる。
怒りと同時に僅かな恐怖が走って、それを思い切り振り払った。
「っ離せよ!」
嫌だ、と思った。
けれど何が嫌なのかもわからないまま、白砥はとにかく全力で走って外へ出ようとする。
根津が追いかけてきているのが、足音でわかった。
身長差故に歩幅がかなり違うから、本気になればすぐに追いつかれるのは目に見えている。それでも人目が気になるだろう公道でなら、荒っぽい手段は取らないはずだ。
体当たりでもするような勢いで自動ドアを抜けて外に出る。
ほんの数メートル先に立っていたのは、長身の、無表情な青年で。
「白砥さん」
名前を呼ばれた。
淡々とした、いつもの声だった。
それだけで泣きたくなるほど安堵して、すぐこちらに駆け寄ってきてくれた彼がじっと自分の背後を見ているのに何か言わなくてはと口を開いたけれど、結局何も説明らしいことは言えなくて。
「くろ、ぬま……ちがう、ちがうの、ぼく」
「はい、わかってます。大丈夫ですよ。……もう、大丈夫ですから」
きっと意味なんて通じないだろうことを口走るしかない白砥に頷いて、ごく小さな声で囁いてくれた黒沼が、ぎゅっと手を握ってくれる。
いつの間にか詰めていた息がその強さと温かさにふわりと抜けて、雨上がりの湿度を孕んだ空気の重さと匂いを急に感じた。
そんなことさえわからないほど、追い詰められていたのだと気づいて、笑ってしまう。
「さ、行きましょう。もう、みんな待ってます」
(……え? みんな?)
急にはっきりとした声で発された言葉を不思議に思ったものの、何となく聞くのははばかられて、白砥はただ頷いた。
すると黒沼は白砥の背後に向かって声を投げる。
「あ、お疲れさまです根津さん。すみませんが、人を待たせているので、失礼します」
元々黒沼の声にはあまり感情が乗らないけれど、今は何故だか妙に硬くひやりとした響きがあるのは、気のせいなのだろうか。
「……、……おう」
どこか決まり悪げな声を背中で聞きながら、白砥は黒沼に促されるまま歩き出した。
根津は、それ以上何も言わなかった。




