2.大丈夫じゃない
設計部はこの設計室という独立した部屋を持っているが、営業部は総務部や経理部と同じフロアに机がある。
だから根津がここにいるのは、誰かに用事があってのことなのだろう。
しかし設計部の社員は今、白砥と中西を除き全員この部屋にいる。部長である中西が今日、つまり月曜の朝から出張になることは先週から伝えられていたし、根津が知らないはずはない。
だとすると消去法で考えられるのは、何らかの用事があってこの部屋に白砥が戻るのを待っている、ということになる。
(うえ、どうしよ……仕事中はともかく、休み時間に顔会わせるの、嫌なんだよなぁ……)
勤務時間中はいいのだ。仕事のことだけ考えていればいい。一切の私情を挟まず、用件のみを伝えればいいし、聞かれてもそれだけ答えればいい。
だが休憩時間となれば話は別だ、余計な話をしなくていい理由がない。それに昼の休憩時間は長く、設計部の社員たちは食堂に行ったり近隣のコンビニエンスストアに行ったりと、皆この部屋から出て行ってしまう。
もしも、それを狙って、根津がこの時間に設計室へ来たのだとしたら。
(……いや、うん、さすがに自意識過剰じゃない? 普通に仕事の話だよ、きっとさ……)
大体、根津からすれば白砥は自ら捨てた相手だ。逆ならばまだ未練がどうこうの可能性もあるけれど——白砥には今回未練などさっぱりないので、これはあくまでも一般論だが——、今更なにを話すことがあるというのか。
(そうだよ、平気平気。ていうか、別に僕を待ってるなんて決まったわけじゃ——)
ふと、視界の隅でなにかが動いた。
白砥はいつの間にか下がっていた視線を上げ、ついでにこちらも下がっていた伊達眼鏡を押し上げる。
度のないレンズを超えた先で、見事に目が合った。
(……あれ、……黒沼?)
パーティションの上からギリギリ目までを出して、こちらをじっと見ていたのは、黒沼涼太という青年だった。
白砥が主任になった年に入社してきた二年目の社員で、基本的に口数が少なく表情が薄く愛想に乏しい、しかしとても真面目で仕事熱心な、白砥からすれば五歳年下の若者である。
なんと身長が根津より高く百九十一センチもあるという黒沼は、社内全体でも二番目に背が高い。成人男性の平均よりも低く百六十センチギリギリしかない白砥と並ぶととんでもない落差を生み出してしまい、一度二人で協力会社に出向いたときなどどっちが上司かわからないねぇ、と言われたほどだ。
明るい色に染められた――以前綺麗な色だねと言ったら素っ気ない口調で色名を教えてくれたのだが、人生で一度も髪を染めたことのない白砥にはピンとこなくて覚えられなかったのだ――肩につく程度の髪をハーフアップにし、無言のままやや目つきの悪い切れ長の一重でじっと上から見下ろしてくる黒沼を、若干怖いと思ったのは最初だけで。
配属初日から可愛らしいキャラクターもののボールペンとメモ帳でしっかりメモを取り、わからないところは誰にでも臆さず聞いてきちんと理解し自分の糧にしようとする姿は、白砥からすれば新入社員として百点満点のものだった。
こちらから話しかけても会話はあまり続かないし、忘年会や新年会でも楽しそうな顔を見たことはなく、仕事上の質問以外で話しかけられたことなどこの二年でも片手の指が余るほどで、笑顔を見たこともろくにない。
けれどそんなのは些細なことだと白砥は思う。
必要なときに話せて、相手の言葉をきちんと聞けて、自分の意思をしっかり伝えられるならそれでいい。
これが営業職ならそうも言っていられないのだろうが、ここは設計部である。大事なことは間違いのない図面を書くことだ。そして、彼に苦手な部分があるのなら、主任である自分がフォローすればいい。
それに、彼が本当はとても心優しい青年であることを、白砥は二週間前に知ったのだから。
(ど、どうしよう。もしかして黒沼、僕に何か用事があるのかな? だったら行かないわけには……)
根津の存在は気になるが、もしも黒沼が何か自分に来て欲しい用があるのなら、それを無視するわけにはいくまい。
そう思ってドアに掛けた手に力を入れたら、パーティションから今度は手が出てきた。
ひょこっと出てきた両手は一度根津を指さしてから、二本の人差し指で小さくバツ印を作ってくる。
(……ん? 根津さんが? ダメ? ……どういうこと?)
それであっているのかわからず首を傾げたら、黒沼の手がさかんにバツ印を作り始めた。合間に、根津の方を指さすのも忘れない。
(さすがにこれは……根津さんがいるから、入るな、ってことだよね)
白砥が理解していないと思ったのか、ついに黒沼の指は二本ともびしびしとこちらを示すようになった。引き返せ、ということだろう。
普段の無愛想な顔からは想像もつかないほどリズミカルに動くその手がおかしくて、白砥はつい頬を緩めながら頷いた。
(うんうん、わかったよ、入らないよ。……教えてくれてありがとね)
これは想定に過ぎないが、根津が白砥の存在に気づかないよう、黒沼は音声ではない手段で白砥に状況を伝えようとしてくれたのだろう。
それに先程まで雑談に興じていた声の中に、彼の声だけは混ざっていなかった。
もちろん黒沼が非常に真面目な性格で、勤務時間中の雑談には基本的に加わらないタイプの人間だから、ということもあるのだろうが、恐らく彼は知っているのだ。
白砥と根津の間に何があって、何がなくなってしまったのかを。
(……これ、あれかなあ。やっぱり、二週間前のあのときも、知ってたってことなのかなぁ……)
黒沼の気遣いを無駄にしないようにそっと身体を引くと、細心の注意を払ってドアを閉める。
少し歩いたところで、昼の休憩時間を告げるチャイムが鳴った。
先程根津があそこにいたということは、今日は社内の食堂で昼食を取るのだろうか。だとしたら、時間をずらして行った方がいいのかもしれない。
どこか居場所はないかと考えて、別棟とつながる廊下の隅に設けられた休憩スペースに移動した。昼の休憩時間にわざわざここへ来る人間は多くない。大きな窓の向こうは薄く霞んで、ガラスに雨が流れている。朝見た気象予報士は午後には止むと言っていたが、まだ雨脚は強そうだ。
それをぼんやり眺めていれば、白砥さん、と遠慮がちに声を掛けられる。
この平坦な声はきっと彼だろう、そう思いながら振り返った。
「……黒沼。さっきはありがとね」
「いえ。その、伝わって良かったです」
自分と同じ作業着を着て立っているのは、想像通り先程設計室で謎のジェスチャーを繰り広げていた黒沼だ。
相変わらずの無表情、けれどもそこに少し困惑というか、心配というか、そんな微妙な感情が乗っている気がして、白砥は微笑んだ。
「ごめんね、最初ちょっとどう捉えていいかわかんなくて」
「俺も、どう伝えていいかわからなかったので……すみません」
「根津さんがいるから入らないでください、で合ってた?」
「根津さんがいるので今すぐ逃げてください、でした」
社内の慣習として、役職名をつけて呼ぶのは部長以上のことが多く、役付の中でも最下層の主任は名字にさん付けで呼ばれることがほとんどだ。
ごくまれに自分を主任と呼ぶように言う人間もいるが――今のところ一人は顔が思い浮かぶ――、白砥も根津もそういうタイプではない。
「逃げてください、だったんだ」
「はい。……根津さんは、個人的な用事で、白砥さんを探しているようだったので」
「あー……」
どうやら、白砥の予想は当たってしまっていたらしい。
しかし今更何の用があるというのだろう。あの部屋だってもうとっくに引き払ったのだろうから、忘れ物がどうとかいう話ではないはずだ。
面倒ごとの気配を感じてため息をつく。ふと黒沼を見上げれば、彼は相変わらずの感情が読めない顔をして、ただじっと白砥を見下ろしていた。
去って行かないところを見るに、会話を続ける気はあるのだろうと判断し、ためらいながらも問うてみる。
「あのさ。……逃げて、なんて言うってことは、もしかして黒沼は、知ってたんだ?」
具体的なことは何も伝わらないような問いかけに、けれども黒沼は素直に頷いた。
「……はい。すみません」
「なんで謝るの。僕の方が謝らなきゃいけないことなのに」
「白砥さんが謝る必要こそないです」
「でも、知ってて黙ってるのって大変でしょ。しかも、僕や根津さんにも気づかれないようにしてさ……」
やはり、彼は知っていたのだ。
白砥と根津が交際していたこと。そしておそらくは、それが終わってしまったことも。
だからこそ白砥に対して、根津が探しているから逃げてくれ、などという警鐘を鳴らしてくれたのだろう。
「一応ね、念の為ね。僕と根津さんは一ヶ月くらい前に別れてるから、結婚されても大丈夫だよ、ってことは、言っておく」
「……大丈夫では、ないです」
絞り出すような声音に、白砥は目を見開く。
黒沼は苦々しい顔をしていた。
いつも無表情で無愛想で、他人に興味なんてないような顔をしている彼が、こんなにも己の感情を見せてくれたのは初めてだったから。
「だってそんなの、たかだか一ヶ月じゃないですか」
「それはそうだけど。でも、ちゃんと別れてはいるからさ」
「それはそうですけど!」
珍しく声を荒らげた黒沼が、ぎゅっと拳を握る。
「数字の上でそうだとしても、形式的に問題がなくても、……白砥さんの気持ち、は、全部無視されてるじゃないですかっ……」
「……黒沼」
見上げた瞳には、薄く涙の膜が張っていて。
(ああ、この子、僕なんかのために泣いてまでくれるんだ……)
そう思ったら、自然と頬が緩んでいた。
「もう、泣かないの。僕が泣かせたみたいに思われるでしょ」
「な、いて、ないです」
「はいはい、おめめがうるうるですよ。それはもう泣いてんのと一緒」
ポケットからハンカチを取り出す。今日はまだ使っていないからいいだろう。ほら泣かないの、ともう一度言って目元を拭ってやれば、ぽつりと一粒涙が落ちてきた。すいません、とくぐもった声で言った黒沼の手がハンカチを握る。冷めているように見えるけれど、意外と感受性が豊かな質なのかもしれない。
「……ねえ、黒沼」
もう少しだけ、話してみたいと思った。
「あのさ。……嫌じゃなかったら、今日、晩ご――」
「行きます」
「……、……早い者勝ちとかじゃないんだからさ、人の話は最後まで聞きなさいよ。僕がこのあととんでもないこと言い出したらどうするつもりなの」
晩ご飯でも一緒にどう、と誘おうとした言葉を飲み込んで、白砥は黒沼を睨んだ。
相変わらずの無表情に、淡々とした言葉。
それでも目元は濡らしたままで、黒沼がこちらをじっと見下ろしている。
「俺は、白砥さんが言うなら、全部いいです」
「……僕が黒沼の推しだから?」
「はい。……覚えててくれたんですね」
「そりゃ覚えてますよ」
ほのかに緩んだ彼の口元に、なんだか気恥ずかしくなって白砥は視線を逸らした。
「……すごく、嬉しかったんだから」




