1.結婚したって本当ですか
年下高身長オタク部下×年上小柄可愛い系上司の社会人BLです。
元彼とごちゃつくシーンはありますが安心安定のハッピーエンド。
最後に多少イチャつく程度の全年齢対応です。
「白砥さんは、俺の推しなんです」
いつだって無口で真面目で無表情だとばかり思っていた部下の口から、不意に飛び出した耳慣れない言葉に思わず目を瞬けば、表情の薄い顔が少しだけ緩んだように見えた。
「その、失礼だったらすみません。白砥さん、『推し』って、わかります?」
「……ごめん、ちょっとわかんない」
「いえ。……推しって、定義はいろいろあると思うんですけど、俺にとってはずっと、世界で一番幸せになって欲しい人のことでして」
つまり、と彼が続ける。いつになく饒舌に。初めて聞く熱量で。
今どうしてもその言葉を、自分に伝えたいかのように。
「俺が白砥さんを推してるってことはですね、俺にとっての白砥さんは、世界で一番幸せになって欲しい人だ、ってことなんですよ」
(……嫌な予感って、なんでこう当たるんだろうねぇ……)
昼休みまではあと十分。
別棟にある工作室での軽い打ち合わせを終え、休み時間が始まる前に一度自席へ戻ろうと向かった設計室の入り口で。
ドアノブに手を掛けた瞬間走ったなんともいえない感覚に、念の為ドアを少しだけ開けて中を覗けば、パーティションで区切られた机が並ぶ中、一人だけ立っている長身の男性が見えた。
こちらに背中を向けているから表情までは読み取れないが、よく見慣れた立ち姿から誰なのかはすぐにわかって、白砥晶はそっと息を吐く。
(ああもう、何で根津さんがいるんだよ。営業部の机は隣の部屋だろ? どっか行ってくんないかな、邪魔なんだけど)
「ねーねー根津さん、お相手は幼なじみだとか聞いたんすけど、やっぱ、俺らに内緒でずっと付き合ってたんすか?」
「え、中学時代の同級生って噂はフェイク? 再会して一ヶ月の超スピードプロポーズっていう……」
「いや、だからそれが幼なじみなんじゃねえの? 同中ってことはさぁ」
「そもそも再会したってなんでなんっすか? 普通、地元離れちゃったら会う機会なんてないんじゃ……」
「はいはい、お前らうるさいぞ。まだ昼休みになってないんだから、無駄口叩かないで仕事しろ?」
形としては白砥の部下である設計部の社員たちから口々に声を掛けられている長身の男は、根津優成という。
営業部主任の一人であり、今朝の全体朝礼で突如として総務部長から結婚したことを発表された彼は、社内で一躍時の人となっていた。
部長からの覚えもめでたく将来を嘱望された三十五歳、明るく陽気で誰とでも臆さず会話し、百八十三センチという高身長と大学時代まで野球部だったためか筋肉のついた頑丈な身体に野性味のある精悍な顔。
これだけ要素が揃えば相手がいない方が嘘だろう、と思われるはずの根津の結婚がこうも話題に上るのは、彼にこれまで浮ついた話が一切なかったからだ。
取引先からそれとなく勧められようとも、空気を読まないことに定評のある総務部長が直接的に言おうとも、今は仕事に注力したくて、恋愛を考える気はないんですよ、などとかわしてきた根津が、今朝になって急に結婚した――しかも、した、という過去形なのだ――とわかったのだから騒ぎにもなるだろう。
先程まで打ち合わせをしていた工作部の主任によれば、何故か工作部の若手男子社員にもショックを受けている者がいるらしい。
もっとも彼らが直接根津を狙っていたというわけではなくて、根津を狙っていたらしい他部署の女子社員数名が彼の結婚にショックを受けており、その女子社員を狙っていた工作部の男子社員がそれにショックを受けてしまった、という悲しい連鎖反応のようだが。
(……まあ、なんであれ、僕にはもう関係ないけどね)
そう、白砥にはもう関係のない話だ。
だっておおよそ一ヶ月前に、白砥と根津は別れているのだから。
他に好きな人ができたから別れてくれ、と根津が神妙な顔で言ってきたからなのだが、まさかこんなに早く結婚までされてしまうとは思わなかった。
(別にいいっちゃいいんだけどさ、その人と再会したのが一年前だって知ってる以上、ここまでされたらさすがに交際期間中の二股を疑うというか……あー、だから根津さん、僕にそこまで言わなかったのか。発表する気も本人にはなくて……でも、倉石部長なら聞いたら言っちゃうよなぁ。せめて、全体朝礼のない週中とかに報告したら良かったのに……)
いくら根津が役職者だからといって、全体朝礼で結婚を発表する義務などない。もちろんしてはいけないわけでもないので、本人が希望すれば別だけれど、今回のことは完全に事故であろう。
諸々の手続きのため入籍となれば誰であろうと総務部に報告しないわけにはいかず、そして総務部長の倉石は現代的なコンプライアンスなどについて見事に疎い昭和の人間で、めでたいことなら第三者から発表してもいいだろう、の精神にのっとり根津に断りもなく言ってしまったのに違いない。
悲しいかな、これまでにもその流れで噂話の餌食にされた人間を、白砥も何度か見てきているので。
「ねー根津さん、奥さんに年の離れた妹かフリーの後輩とかいません? 俺もう三ヶ月も彼女いなくってぇ……」
「うわ露骨すぎ引くわー、同期として恥ずかしい」
「なんだよこちとら必死なんだぞ! 根津さん! マジで頼みますって!」
「そういうこと言い出す奴には紹介しないって決めてんだよな」
「えーひでえ! 自分が勝ち組だからってずるくないすか!」
(……どこまでも勝ち組だよね、この人ってさ)
いいことだ、と思う。
唯一の懸念であった、同性である白砥との交際、という汚点すら、彼にはもうないのだから。
(ねえ、根津さん。後悔してるんじゃない? 四年前に僕、やめた方がいいって何度も止めたもんね)
付き合って欲しい、と言ってきたのは、根津の方からだった。
学生時代から、自分の性的嗜好が同性、異性関係ないものだとわかっていた白砥と違い、根津はこれまでずっと異性との交際だけを重ねてきたという。
同性に惹かれたことは一度もないとも、彼は言った。それでも白砥に惹かれてしまったのだと、この思いは本物なのだと、休日出勤した人気のない設計室で詰め寄られた。
だから白渡は彼を諫めた。絶対に止めた方がいいと、そんなのは一時の気の迷いで、今後の人生を考えても同性の自分を選ぶべきではないと何度も説得を試みた。
しかしそれでも、好きだの惚れたのお前しかいないだのと徹底的に押しに押されて、最後には折れてしまったのだ。
(とはいえ四年なら、普通に心変わりもあり得る時期かぁ。……まあ今更、どっちだって変わらないからいいんだけど)
根津の希望で早いうちから同棲を始めて四年が経ち、恋人として経験するだろういろいろなことは一通りやってきたと思う。
それでも終わらなかった関係に少しばかり安堵して、もしかしたら、彼とずっと一緒にいられる未来もあるのかもしれない、なんて白砥も思い始めていたけれど。
その矢先の、破局であった。
根津の新しい恋人が女性なのだと知って、やっぱりね、だから言ったじゃん、などとその場では苦笑混じりに応じることができたのに、同じ空間にいるのが辛くて急遽取ったビジネスホテルの部屋に入ったら、馬鹿みたいに涙が止まらなくなってしまって。
金曜日の夜で良かったな、と思いながら、結局朝まで一人で泣いたりして。
(こんなのはもう全部、終わった話ですからね、僕にとっては)
同棲していたのだから、まずは引っ越さなくてはならない。
根津も引っ越す予定だからこのままいてもいいと言われたが、たとえ一人になれるとしてもあの家にとどまろうという気は到底起こらなかった。
だから事情を知った姉が協力してくれて、即時入居可能でそこそこ手頃な物件を見つけることができ、破局から十日で引っ越しができたことは白砥にとって不幸中の幸いであった。
荷物が少なく引っ越し業者を頼まなくて良かったことも、早期に転居できた理由の一つだろう。
正直あらゆる物を持っていく気が起きず、必要最低限の衣服とごく個人的な私物だけを集めたら、スーツケース一つでおつりが来てしまったのだ。
あとの片付けを思えば多少の罪悪感はあったが、他のものは全部いらないから根津が不要なら処分してくれ、と連絡し、白砥は四年間住んだ部屋にきっぱり別れを告げた。
そういうわけで生活面での区切りは早期についたけれど、精神面ではちっとも上手くいかなかった。なにせ、根津と白砥は同じ会社に勤める同僚なのだ。部署こそ営業部と設計部で違うけれど、お互い主任という部長に次ぐ役職だったし、業務内容的にも一切の関わりを無くすことは難しい。
転職、の二文字も頭をよぎったけれど、さすがにそれは悔し過ぎると思って止めた。
そもそも根津はつい最近まで白砥に転職を勧めていたのだ。自分が家に帰ったとき、おかえりと出迎えてくれる家族が欲しいから、という理由で。
今の仕事に不満はないし、大恩ある上司もいるから辞める気などこれまでは全くなかったが、根津とこれからも暮らしていくつもりなら叶えられる希望は叶えてやりたいと、勤務時間の短い仕事か在宅の仕事を探そうとしていた矢先の破局。
この上、高卒から十一年勤めて役職だってもらったばかりで大きな不満もない会社を根津のために辞めるとしたら、あまりにも自分ばかりが失いすぎではないか。
だから白砥は転職の二文字を自分の中から綺麗さっぱり捨て去った。
そして、逆にとにかく仕事を詰め込んだ。別れた直後の二週間など自主的に休日を返上し、残業を続けて時間が許す限りひたすら仕事をしていたくらいだ。
業務上ほぼ必ず関わらなければならないとはいえ、営業部の社員は根津の他にもいる。必要なときには上手く相手を選ぶことで、根津との接触を最小限に抑え、仕事に注力することは十分可能であった。
ろくな家具もない殺風景な一人の家に帰っても、余計なことばかり考えてしまう。だから仕事をしていた方が、気が楽だったのだ。
けれどさすがに部長の中西や勤怠管理をしている総務部に気づかれてしまい、働き過ぎだと怒られたのと、ちょっとした事件があって気持ちの切り替えがついたので、そこから少しずつ仕事を手放して今ではいつもの量に戻っている。
それでも設計部内で一番残業が多くなっているようだが、それ自体はいつものことなので、今のところ許されているらしい。
(んー、出ていく気配ないな……仕方ない、このまま昼休憩入っちゃうか……)
昼の休憩時間まで残り五分を切ったからか、もう設計室内のほぼ全員が根津との雑談に興じている。
今は急ぎの仕事もないし、設計部に三人いる役職者の内、トップである部長の中西とやや規則にうるさい――自分としては、やや、くらいの気持ちでいるのだが、部下たちからどう思われているか正確なところはわからない――白砥の二人がいないのだから、多少の気の緩みは仕方のないことだと思えた。
しかし、根津が雑談に応じるばかりで一向に動かないのはどういうことだろうか。
彼はそこまで真面目というわけではないが、時間を無駄にしない選択をしたがる人間だから、ただどうでもいい話をしに来るようなことはないはずなのだが。
(……もしかして根津さん、僕を待ってる?)




