第9話 「ただ一人の友人は、俺を本気で心配していた」
夕方六時、総務課の島に、帰りじたくの椅子の音が広がりはじめていた。
『宍戸、最近ちょっと変だよな。……変っていうか、なんか』
机の横から聞こえた声に、宍戸は顔を上げた。
「宍戸。今日、空いてる?」
金曜の夕方六時。営業課の野々村康平が、ネクタイをゆるめながら総務課の島に来ていた。同期入社の三十四歳。背は宍戸より少し低く、丸い肩と、日に焼けた首をしている。外回りを十二年続けた男の首だった。
「空いてる」
「じゃ、いつものとこ」
それだけ言って、野々村はエレベーターのほうへ歩いていく。宍戸はパソコンを閉じ、上着を取った。
いつものとこ、は神田駅のガード下の焼き鳥屋だ。誕生日の夜、百円玉を落としたあの自販機から、二十メートルほど離れている。電車が頭の上を通るたびに、天井から細かい振動が降ってくる。焼き台から、炭と焦げたたれのにおいがもうもうと流れてきた。
「とりあえず、生二つ」
野々村はおしぼりで顔をごしごし拭き、首の後ろまで拭いた。新入社員のころから変わらない癖だ。ジョッキがぶつかって泡がこぼれ、野々村は最初の一口で三分の一を空けた。
「いやー、今週しんどかった。湊浜の営業所、また回されてさ。最近、あっちの取引がやたら増えてんだよ。産廃の業者とか、港の倉庫とか。専務の肝いりらしくて、俺みたいなのが手伝いに行かされる」
湊浜の連中、なんか怖いんだよな。愛想はいいけど、目が笑ってねえ。
湊浜。また、その名前だった。専務の頭の中にあった。会長の頭の中にもあった。そして今、目の前の同期が、その港町に手伝いに行かされている。
宍戸はビールを一口飲んだ。苦かった。このごろ、甘いもの以外の味が少し遠い。
「まあ、来年は子どもも生まれるし。稼がねえと」
野々村は去年結婚した。相手は取引先の事務の女性で、宍戸は新郎の友人代表のスピーチを頼まれ、三分の原稿を一週間かけて書いた。奥さんは今、妊娠六か月だという。
「スマホに写真あるぞ。エコーの。見るか」
返事も待たずに差し出された画面には、白と黒のざらざらした扇形の中に、豆のような影が浮かんでいた。ここが手、ほら、指っぽいだろ。野々村の太い指が画面をなぞる。爪の間に、湊浜の倉庫でついたらしい黒い油汚れが残っていた。
「名前、決めたのか」
「まだ。嫁が画数がどうとか言ってて。俺は元気に生まれりゃなんでもいいんだけどさ」
口と頭の声がぴったり重なっていた。野々村は昔からそういう男だった。思っていることと言っていることの間に、ほとんど隙間がない。
焼き鳥が来る。ねぎま、つくね、皮、ぼんじり。野々村はつくねを半分、一口で食べた。
「で。お前、大丈夫か。蛭田の件だよ」
ジョッキを置いて、野々村がこちらを向いた。
「蛭田って専務の子飼いなんだよ。知ってた? 前の営業所で専務に拾われて、本社に引っぱってこられたって。だから今回も、専務の一言で首がつながった。……あれ、お前の資料だろ。消耗品のやつ。俺、知ってるぞ。お前が夜中まで残って伝票めくってたの。営業所の伝票、俺もコピー頼まれたし」
野々村は皮の串を二本まとめて取り、一本を宍戸の皿に置いた。頼んでもいないのに、昔からこうする。こいつ、自分から取らねえんだもん。新人のころから。
「社内中、その話で持ちきりだぞ。お前、とばっちり食ってないか」
「別に」
「別にってさあ」
野々村と、目が合った。
表面の下へ降りていく。そこは思っていたよりずっと広かった。新人研修の夏、倉庫の棚卸しで数字を全部間違えた夜、宍戸が隣で黙って段ボールを開けていたこと。結婚式のスピーチを読みながら、少し泣いたこと。嫁には内緒だということ。最近のあいつは目が変わった、前はどこを見ているかわからない目だった、今はどこを見ているかわかりすぎる。何かあったなら言えよ。言わなくてもいい。俺はお前の味方だからな。
三秒。四秒。五秒。
冷蔵庫の奥まで懐中電灯で照らすように、宍戸は野々村の頭の中を一つずつ確かめた。嘘はどこにもなかった。この男は十二年間、本気で宍戸を心配していた。
「……なんだよ。じっと見んなよ。照れるだろ」
「悪い」
指先が冷えていた。五秒は長すぎた。
ねぎまを一つ食べながら、宍戸は、自分の胸の中で何が起きているのかを確かめていた。
温かいものが一瞬だけ来た。
十二年前の、倉庫の夜の空気。段ボールのにおい。隣で鼻をすすっていた新人の野々村。それが胸の奥をかすめてすぐに通りすぎた。
その後に来たのは別のものだった。
苛立ちに近かった。目の前の男の、まっすぐな優しさが、宍戸の袖をつかんで、昔の場所へ引き戻そうとしている気がした。段ボールを黙って開けていた男。誰にも言わずに夜中まで伝票をめくる男。頼まれれば断らず、取り分の串も自分からは取らない男。野々村が大事にしているのはその宍戸だ。宍戸がもう、脱ぎ捨てようとしている宍戸だった。
お前の味方だからな。
野々村は自分が宍戸のことを一番よくわかっていると思っている。宍戸の変化に気づいているのは、会社で自分だけだと思っている。
だが今、このテーブルの上で、相手のことを全部知っているのは宍戸のほうだった。結婚式で泣いたことも、嫁に内緒にしていることも、湊浜の連中が怖いことも。野々村は宍戸が何を知っているのかを、何ひとつ知らない。
そう思うと、苛立ちの下から、もう一つ、ひんやりとした甘さが湧いてきた。
誰よりも近くにいると思っている男の、一番奥まで覗いている。覗かれていることに、男は気づいていない。
「宍戸? 食わねえの」
「食うよ」
宍戸は野々村が皿に置いた皮の串を取って口に入れた。たれが甘かった。
十二年間、この串を、宍戸は一度も自分で取らなかった。取らない男でいれば、誰からも嫌われない。嫌われない男は誰の目にも留まらない。野々村だけが取らない男の皿に、黙って串を置きつづけた。
次は自分で取る。串も、皿も、店ごとでも。宍戸は串の最後のひとかけを噛みながら、そう思った。
店を出たのは夜の十時だった。野々村はほろ酔いで、ネクタイを肩にひっかけていた。駅とは反対へ歩きかけて振り返る。
「宍戸。なんかあったら、言えよ」
言わねえんだろうけどな。
「わかった」
野々村は片手を上げ、ガード下の暗がりへ歩いていった。三メートルを超えると頭の中の声は聞こえなくなったが、背中はまだしばらく見えていた。
宍戸は例の自販機の前に立ち、ミルクココアを買った。プルタブを起こして一口飲むと、冷えた指に少しずつ血が戻ってくる。
自販機の灯りの下で、さっきの頭の中をもう一度ひらいた。湊浜。専務の肝いりの取引。産廃の業者。港の倉庫。目の笑っていない連中。野々村はそこへ手伝いに行かされている。専務の金が流れていく港町へ。
会長の頭の中にも、専務の頭の中にも、その名前があった。そして野々村の爪の間には、その町の倉庫の油がついている。
頭の中で、地図の上に、点が一つ置かれた。湊浜と、専務と、野々村。三つの点が細い線でつながりかける。
缶を握る手に、力が入った。スチールの缶がぺこりと小さくへこむ。へこみは親指の形をしていた。
いつか、この線を使う日が来るかもしれない。
その考えが浮かんだとき、宍戸は、さっきの温かさがもう胸のどこにも残っていないことに気づいた。残っていないことを、少しも惜しいと思わなかった。
頭の上を電車が通っていった。天井から細かい砂のような振動が降ってきて肩に落ちる。宍戸はそれを手で払い、残りのココアを一息に飲み干した。
第9話 了
__________________________________________________________
ブックマークと、下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




