第8話 「植木に水をやるだけで、会社の秘密がわかった」
エレベーターの扉が閉まりかけたところへ、誰かが一人、駆けこんできた。
『あと三年。三年で、会長の首に鈴をつける』
エレベーターの中で、その声は宍戸の真後ろから聞こえた。
金曜の昼、十二時五分。六階から降りてきたエレベーターに、宍戸は四階から乗りこんだ。先客が一人いた。灰色の髪を後ろへ撫でつけた背の高い男で、濃い紺のスーツの襟に、小さな社章が光っている。
専務の峯岸隆之。六十一歳。創業者の伊庭源一郎の右腕として三十年以上この会社にいて、社内の誰もが社長より先にこの人の名前を出す。箱の中に、古い木の箪笥のような整髪料のにおいがこもっていた。
「お疲れさまです」
峯岸はうなずきもしなかった。
『総務の。……どうでもいい。会長は今年で七十二。社長はあの調子。役員会の票は俺が四、会長が三、社長は数にならん。湊浜のほうの金は今月も予定どおり。来月は少し増やすか』
湊浜。神奈川の港町だ。取引先にも、湊浜の会社がいくつかある。
一階で扉が開くと、峯岸は先に降りて、ロビーの外に待たせてあった黒い車に乗りこんだ。三メートルを超えたところで声はぷつりと切れる。
宍戸は自動ドアの前に立ったまま、黒い車が走り去るのを見送った。
どうでもいい、と言われた。三十年この会社を動かしてきた男の頭の中で宍戸は「どうでもいい」の一言で片づけられた。
だがその一言のすぐあとに、男は自分の首の値段を、全部しゃべった。票の数。会長への野心。湊浜という地名と、金。宍戸がどうでもいい男だから、峯岸は宍戸の前で何の警戒もしなかった。
どうでもいい男でいることは、こんなにも役に立つ。
九月の終わりの日差しが、ロビーの床を白く光らせていた。宍戸はその白さの中に立って、しばらく笑いをこらえていた。
その日から、昼休みの使い方を変えた。
弁当を五分で食べ、残りの五十五分で社内を歩く。蛍光灯の点検、消火器の期限の確認、会議室の備品の補充。台車を押して廊下を歩いていれば、誰も宍戸の顔を見ない。見ない人間の頭の中は、いくらでも聞けた。月曜は三階の営業部、火曜は五階の経理部と人事部、水曜は二階の倉庫と物流課、木曜はもう一度六階。
一週間で、会社の地図が頭の中にできあがった。
紙の上の地図ではない。川の流れに近かった。どこから水が湧いて、どこへ流れこみ、どこで淀んでいるか。社内のあらゆる頭の中に、同じ二つの名前が繰り返し浮かんでいた。
一つは会長、伊庭源一郎。会長が来週の役員会に出るらしい、またピリピリする。会長がうんと言わなきゃ何も決まらない会社だ。社長は会長の操り人形だからな。
もう一つは専務、峯岸。専務に逆らったら終わり。あの部長も専務の一言で飛ばされた。蛭田課長が助かったのも、専務の子飼いだからだろ。
社長の伊庭秀明の名前は、ほとんど出てこなかった。出てきても、ため息と一緒だった。
二階の倉庫ではフォークリフトの運転手がパレットを積みながら考えていた。会長が来るときだけ、倉庫がきれいになる。油と段ボールのにおいの中で、その一言だけが妙に耳に残った。
会社には、川が二本流れている。会長の川と、専務の川。二本はときどき交わり、ときどきぶつかる。社員はどちらかの岸にしがみついて流されないようにしていて、社長だけが、川の真ん中で浮き輪につかまって漂っていた。
宍戸はその地図を、毎晩ベッドの中でひらいた。目を閉じると、会社の各階が、透けた模型のように浮かんでくる。誰がどこで何を怖がり、誰が誰を憎み、誰が誰の弱みを握っているか。十二年間、宍戸は、自分の机の半径一メートルのことしか知らなかった。今は会社の血管の一本一本まで見えている。
眠れなかった。眠りたくもなかった。
木曜の昼、六階。
宍戸は役員会議室の空調のフィルターを替えに来ていた。脚立の上で天井の格子を外すと、埃が日の光の中に細かく舞う。
役員会議室の隣が、会長室だった。会長は週に二度しか出社しない。今日はその日だ。脚立の上からでは、扉まで五メートルある。
フィルターを替え終えて脚立をたたみ、会長室の前の廊下に置かれた観葉植物の鉢を、少し横にずらした。指で土を確かめる。湿っていた。誰かが今朝のうちに水をやったらしい。
かまわない。総務の主任が植木に水をやるのは、誰が見てもおかしくない。給湯室でじょうろに水を汲んで鉢の前にしゃがむ。
扉まで一メートル半。
意識を扉の向こうへ伸ばした。
最初、何も聞こえないのかと思った。違った。聞こえてはいる。ただ、これまで聞いてきた誰の声とも違っていた。ざわざわした独り言の波がない。洗濯機のように同じところを回る声もない。
声は一本の線になっていた。
『三期連続の減益。原因は三つ。営業所の統合の遅れ、仕入れ先の偏り、経費の緩み。秀明には無理だ。峯岸は使える男だが、使いすぎた。……湊浜。峯岸のあの金に、私が気づいていないと思っているな』
ぴんと張った線が、静かに先へ伸びていく。子どものころ、祖父の家で聞いた、障子の向こうで誰かが墨をすっている気配に似ていた。音はほとんどしないのに、そこに人がいることだけが、はっきりわかる。
『総務の蛭田の件。社長に渡したのは榎本だろう。あの娘は目端が利く。……その榎本に、誰が渡した』
じょうろの中の水が、かすかに波立った。
『社長の机の上の領収書の折り目は二つ。拾った者が自分で折った。拾ったのは総務課の床だ。あの日、総務課で席にいたのは誰か』
宍戸はじょうろを傾けた。水が鉢の土に吸いこまれていく。湿った土はもうあまり水を飲まなかった。
鳥肌が立っていた。
怖さではなかった。いや、怖さもあった。だがそれより大きかったのは別のものだった。この会社に、宍戸の手の跡を、紙の折り目から嗅ぎ当てる人間がいる。十二年間、宍戸がどんな仕事をしても、誰も気づかなかった。この老人だけが総務課の床に目を向けている。
初めてまともに相手にされている。
その手ごたえが背中の産毛を一本残らず逆立てていた。
『まあいい。蛭田が一人躓いた。峯岸の子飼いが一人傷んだ。悪くない』
線がふいに曲がり、来週の取引先との会食の段取りに切り替わる。
宍戸はじょうろを床に置いた。指の先が冷えている。ただ聞いていただけなのに、ほかの誰を聞くときよりも冷えが深い。整理されていて、静かで、それだけ重い頭だった。
障子の向こうで、誰かが立ちあがる気配がした。宍戸はじょうろを持って隣の鉢へ移る。
会長室の扉が開いた。
出てきたのは小柄な老人だった。白髪を短く刈りこみ、地味な灰色のスーツを着ている。社内報の写真で見るより、ずっと小さい。ただ、目が違った。老眼鏡の奥の目が、廊下の端から端までを、一度で量るように動いた。
伊庭源一郎は廊下の鉢の前にしゃがんでいる男を見た。
紺のスーツ。じょうろ。総務の者か。
鉢の土が黒く濡れていた。今朝、自分で水をやったばかりの鉢だった。四十年、この鉢に水をやるのは自分だけだ。総務の誰かが知らずにもう一度やったのだろう。
それだけのことだった。源一郎は目を離し、役員会議室へ歩いた。
歩きながら、頭の中で、さっきの男の手もとをもう一度ひらいた。じょうろを持つ指が、やけに白かった。九月の終わりの、暖かい日だというのに。
会長の足音は絨毯に吸いこまれてほとんど聞こえなかった。
宍戸は二つ目の鉢に水をやった。手が冷えていて、取っ手がうまく握れない。水が少しこぼれて絨毯に小さな染みを作った。
夕方、四階の自分の席に戻る。蛭田は今日も早く帰っていた。この一週間、定時になると逃げるように席を立っている。
黒飴を口に入れて窓の外を見た。
会長の川と、専務の川。専務の川は湊浜という港町へ何かを流していて、会長はそれに気づいていながら、黙っている。社長は川の真ん中で浮き輪につかまっている。その隣に、紙の値段がわかる秘書がいる。
そして会長は総務課の床に目を向けはじめた。
思っていたより、早い。
宍戸は黒飴を舌の上で転がしながら、自分の口の端が上がっていくのを止められなかった。早いほうがいい。あの老人とはいずれ向かい合うことになる。それなら、向こうから来てくれたほうが手間が省ける。
あの老人も、宍戸の名前など覚えていないだろう。十二年、廊下ですれちがっても、一度も目を止めなかった男だ。……覚えさせてやる。忘れられないくらいに。
西日が神田のビルの谷間に差しこんでいた。窓ガラスに反射した光が、机の上に細長い四角形を落としている。その真ん中に、ボールペンが一本転がっていた。
ボールペンがころりと半回転して光の外へ出た。
第8話 了
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