第7話 「課長の不安を、ほんの少し大きくしてみた」
翌朝、蛭田は八時前に出社してきた。いつもより一時間も早かった。
『なんで社長があれを持ってたんだ。誰だ。誰が出した』
蛭田の頭の中は朝からずっと同じところを回っていた。
木曜の朝、総務課の島には昨日から妙な湿り気が漂っている。蛭田が部長の個室に呼ばれたのは昨日の夕方で、四十分後に出てきた蛭田は誰とも目を合わさずに席へ戻り、そのまま定時で帰っていった。何があったのかは、課の誰もがうっすら知っていた。課長、経費のことで怒られたらしい。社長から直々にって本当。専務がかばったって聞いた。口に出す者はいない。キーボードを叩く音と空調の音だけが、いつもより大きく聞こえる。
昨日、個室で何が話されたのか、宍戸は半分だけ聞いていた。給湯室へ行くふりをして、二度、扉の前を通ったのだ。蛭田は、丸山梱包の社長ではなく担当の部長と会っていた、日曜に急に呼ばれた、宛名は向こうが気を遣ってそう書いてくれと言った、と並べていた。頭の中の声は口の言葉と一つも合っていなかった。
それでも、話は終わった。専務の峯岸が個室に内線を入れたからだ。蛭田くんはうちの大事な戦力だから、今回は厳重注意で。
結局、蛭田は一枚の紙で何も失わなかった。失ったのは少しの眠りだけだ。
『誰だ。安達か? いや、あいつは鈍い。係長か? あのじじいは俺を嫌ってる。……宍戸は、ないな。あいつにそんな度胸はねえ』
宍戸は伝票をめくった。紙の端で人差し指の腹を少しだけ切る。小さな赤い線が浮かんですぐに消えた。
悔しくはなかった。むしろ、ちょうどいいと思った。一枚の紙で終わっていたら、蛭田は泣いて謝ってそれきりだった。まだ立っている男なら、もう一度、自分の手で崩せる。
昼休み、会社の近くの定食屋に入った。カウンターだけの狭い店で、油の染みた暖簾をくぐると、生姜焼きのたれが焦げるにおいと味噌汁の湯気が、一度に顔に当たる。
カウンターの端に座ると、隣に安達がいた。
「あ、宍戸さん。珍しいですね」
「たまには」
安達はサバの味噌煮をつつきながら、スマホで何かのメッセージを打っていた。合コンの人、返事来ない。やっぱダメだったかな。いや、まだ一日しか経ってないし、待てばいいか。
宍戸は生姜焼き定食を頼み、カウンターの上の自分の手を見た。
六階の秘書室で社長の頭の中の「言う」に、指を一本置いた。あれが何だったのかを、確かめたかった。確かめずにはいられなかった。
安達の中には、小さな不安がある。返事が来ない。ダメだったかもしれない。その横に、まだ一日だという声。不安と、それを打ち消す声が、てんびんの両皿に乗っている。
宍戸は不安のほうの皿に指を置いた。ほんの少しだけ、押す。
『……ダメだったんだ』
安達の箸が止まった。
『絶対ダメだった。あの人、最後、目も合わせてくれなかったし。私、しゃべりすぎた。いつもそう。いつもそうなんだよ私』
声の調子が目に見えて変わっていく。石を投げこんだ水面のように、輪がどんどん広がる。安達はスマホを伏せて、サバの味噌煮をじっと見つめた。
「……安達さん、大丈夫ですか」
「え? あ、全然。なんでもないです」
なんでもなくない。最悪。もう誰とも会いたくない。
宍戸は指を離した。安達はしばらくそのままだった。広がった輪がゆっくり平らに戻っていくのに、一分ほどかかった。まあいいか、どうせ合コンだし。安達はスマホを手に取り直し、サバの味噌煮を大きく一口食べた。
指先が冷えていた。社長のときより強い。押す時間が長かったからだろう。
生姜焼き定食が来た。キャベツより先に、味噌汁に砂糖を入れたかった。もちろん入れなかった。代わりに、帰りにレジ横の黒飴を三つもらった。
店を出て、歩きながら、すれ違う会社員の頭の中を一人ずつ撫でてみる。昼の献立に満足している男。午後の会議を楽しみにしている女。どちらにも、指を置く場所がなかった。皿が最初から空っぽなのだ。空の皿はいくら押しても沈まない。
横断歩道の手前で、スマホを見ながら舌打ちしている若い男がいた。また既読無視かよ。その苛立ちに指を置くと、男はスマホを握ったまま、信号の柱を靴の先で蹴った。
宍戸は黒飴を口に入れた。
作れはしない。だがあるものなら、いくらでも大きくできる。そして、人間の頭の中に、不安や苛立ちがない日など、一日もない。
信号が青に変わる。横断歩道を渡る人波の頭の中を眺めながら、宍戸は、ここにいる全員の皿の中身が見えているような気がしていた。押せば沈む皿がこんなにもたくさん並んでいる。
午後三時、総務部の月次報告会が小会議室で始まった。
各課の課長が今月の数字と来月の予定を部長に報告する、二十分ほどの決まった会議だ。宍戸は議事録係として部屋の隅に座っている。ブラインドが全部下ろされ、蛍光灯の白い光の下で、ホワイトボードのマーカーのにおいが鼻をつく。
蛭田の番が来た。
「総務課です。今月の消耗品の発注額は、前月比で……」
声がいつもより小さい。
『部長の顔、見られねえ。昨日の今日だ。部長、俺のことどう思ってる。専務がかばってくれたけど、部長は納得してねえ。あの目は、納得してねえ』
昨日の夕方から、蛭田の中には大きな不安が居座っている。安達の不安とは比べものにならない。てんびんの皿はとっくに傾いていた。
距離、二メートル。届く。
宍戸は膝の上で手を組み、指を置いた。
『部長、俺を見てる。見てる。疑ってる。全部バレてる。ミカのことも。三枚のことも。全部』
「……前月比で、えー、八パーセントの、増……いや、減、です」
小田切が資料から目を上げた。
「蛭田くん。増か減か、どっち」
「減です。失礼しました、八パーセントの減」
『見ろ、今、部長がこっち見た。疑ってる』
宍戸はもう少しだけ押した。
蛭田の額に汗が浮く。こめかみのあたりで、蛍光灯の光を受けて小さく光った。資料をめくろうとした指が、紙の端を二度空振りする。
「来月の、予定ですが……防災訓練を、えー、十五日……いや、十六日に」
「十五日だよ。宍戸くんが段取りしてくれてる」
小田切の声は穏やかだった。穏やかなぶん、蛭田には冷たく聞こえたらしい。部長が俺じゃなくて宍戸の名前を出した。俺はもう見放されてる。
宍戸は蛭田の後頭部を見ていた。
十二年、この男の機嫌で朝の胃が痛んだ。この男が会議で言葉に詰まるところなど、一度も見たことがない。いつも大きな声で、宍戸の作った資料を、自分の言葉のように読み上げてきた。
その男が今、宍戸の指一本で、自分の課の数字も読めなくなっている。
腹の底から、何かがせり上がってきた。笑いではなかった。もっと重くて熱いもの。何年も蓋をされていた鍋が、内側から蓋を押し上げはじめたような。
蛭田は最後まで報告を読み終えられなかった。三行を残して「以上です」と言い、椅子にどすんと腰を落とす。課長どうしたの、顔色やばくない、昨日の件相当効いてるな。会議室じゅうの頭の中が、一斉にざわめいた。
宍戸は指を離し、議事録に「総務課:報告途中で終了」と打ちこんだ。
手が冷えきっていた。指の関節が思うように曲がらず、キーを打つたびに爪の先がかちかちと鳴る。机の下で黒飴の包みを、音が立たないようにゆっくり開けた。
会議が終わっても、蛭田は最後まで椅子に座っていた。資料を片づける手が、まだ少し震えている。
『なんでだ。なんで、あんなにビビったんだ、俺。いつもなら、あんなの適当に流せたのに』
指を離してもう三分たっていた。蛭田の不安は大きいままだった。安達のように、一分では戻らない。もともと大きいものは、戻るのにも時間がかかる。
つまり、毎日少しずつ足していけば、戻らなくなる。
入社二年目の冬の朝を、宍戸は思い出していた。蛭田に、課の全員の前で、書類の束を床に叩きつけられた朝だった。宍戸は笑って謝りながら、床に散った紙を一枚ずつ拾った。拾った紙の角が、指の腹を細く切った。誰も手伝わなかった。
あの朝の紙の冷たさを、宍戸は今でも指先で覚えている。
毎日、少しずつ。あの朝の分を、一枚ずつ返してやる。
宍戸は口の中の黒飴を奥歯で噛んだ。
ばりっ、と固い音がした。蛭田がびくりと肩を揺らしてこちらを振り向いた。宍戸はいつもの困ったような笑いで、軽く頭を下げた。下げた頭の中で、明日の朝、何時に指を置くかを、もう考えていた。
第7話 了
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