第6話 「社長秘書だけが、俺を見ていた」
給湯室の換気扇が、低く唸っていた。
『この人、見てた。見てて、黙ってた』
目を合わせたまま、宍戸は榎本の声の下へ降りていった。
表面の声の下に、もう一枚、別の層がある。蛭田のときはそこに濁った水が溜まっていた。榎本の下にあるのは、もっと冷たく澄んだものだった。山の湧き水を溜めた、底の見える井戸。底には、閉まっていく工場のシャッターの音と、玄関に貼られた差し押さえの紙の赤い判子が沈んでいた。上に行く。上に行かないと、また閉められる。社長は弱い。でも、社長の隣にいれば、上が見える。
三秒で目をそらす。蛇口の先から、水の滴が一つ落ちた。
この女は自分が何を欲しがっているのかを、自分ではっきり知っている。宍戸はそこが気に入った。欲しいものを知っている人間は、何を差し出せば動くのかも、はっきりしている。
「肩書きの直し、どちらでしたか」
「代表取締役社長の前に、一行足していただきたくて。業界団体の理事に就任されたんです」
榎本は内ポケットとは反対側のポケットからメモを一枚出した。理事の正式な名称が、さっきと同じ整った字で書いてある。
「明日の朝には、刷り直しを手配します」
それで榎本は出ていかなかった。給湯室の入口に背を向けたまま、宍戸を見ている。
「さっきの紙」
「紙、ですか」
「蛭田課長の机のほうから、落ちてきましたよね」
「そうでしたか。気づきませんでした」
『嘘』
短く、はっきりした声だった。
「風かもしれませんね。四階は空調の吹き出し口が多いですから」
「空調、今日は止まってました。点検日で」
点検日の連絡を各フロアに回したのは宍戸自身だった。宍戸は少しだけ口の端を上げる。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「秘書ですから」
この人、何なの。いつもの、へこへこしてる総務の人じゃない。目が違う。前からこんな目だった?
榎本の頭の中の声を聞きながら、宍戸は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。十二年、この女の目に、宍戸は映っていなかった。今、映っている。それも、正体のわからないものとして。
換気扇が低く唸る。古い冷蔵庫がぶるっと身震いしてモーターを止めた。急に部屋が静かになる。
「宍戸さん」
宍戸は手に持っていたコップを流しの縁に置いた。
「もし、宍戸さんがあの紙に気づいていたとして。……どうして、ご自分で経理に持っていかなかったんですか」
榎本は言葉を一つずつ選んでいた。頭の中ではもっと速く言葉が回っている。言っていいこと、言ってはいけないこと、どこまで踏みこむか。駒を並べる手が盤の上で止まったり進んだりしている。
ステンレスの縁が、手のひらに冷たい。
「総務の主任が、自分の課長の経費に口を出したら、どうなると思いますか」
榎本のまつげが一度、速く瞬いた。
『それ。それ、さっき私が考えたこと。そのまま』
「……どうなるんでしょうね」
「たぶん、何も変わりません。課長は宛名は取引先の担当者に頼まれたとでも言うでしょう。経理は上が認めているならと引っこめる。私は課長を売った部下としてどこかの倉庫に回される」
声はいつもの総務の主任の声だった。穏やかで、腰が低くて角がない。言っている中身だけが、いつもと違った。
「でも、社長の手から出てきたら、話は変わると思います」
榎本の喉が小さく動いた。
この人、わかってる。私がどこへ持っていくか。わかってて、私に拾わせた?
「では、私はこれで」
榎本の横を抜けて給湯室を出る。すれ違うとき、柑橘のハンドクリームのにおいが、また鼻をかすめた。背中で、榎本が何かを言いかけてやめる気配がする。
『この人、何か変わった』
廊下を三メートル歩くと、声は聞こえなくなった。
宍戸は歩きながら口の中を噛んでいた。そうしていないと、廊下の真ん中で笑い出しそうだった。
翌朝、宍戸は刷り上がった名刺の箱を持って六階へ上がった。
エレベーターを降りると、空気が変わる。ベージュの絨毯に足音が吸いこまれて、廊下全体が息をひそめている。壁には創業者が若いころに撮ったという、倉庫の前の白黒写真が飾ってあった。
秘書室の扉は半分開いていた。中には誰もいない。榎本の机の上はきれいに片づいていて、ペン立てに同じ黒のボールペンが三本、同じ向きで差してあった。奥の社長室の扉の向こうから、話し声が漏れてくる。
社長室の扉まで四メートル。届かない。
一歩、中へ入る。三メートル半。まだ遠い。
秘書の机の横まで歩いて、名刺の箱を置いた。扉まで二メートル半。
社長室の扉は閉まっていた。だが、扉は声を止めない。止めるのは距離だけだと、宍戸はもう知っていた。
『どうする。どうする。これ、専務に言うべきか。でも、蛭田は専務が引っぱってきた男だし』
社長の伊庭秀明の声だった。三十八歳、創業者の息子で二代目。毎年の年始の挨拶で、壇上に立つ姿を遠くから見たことがあるだけだ。頭の中の声は思っていたより高く、早口だった。専務にまた、管理が甘いって言われる。でもこれは専務の人事の失敗だ、言い返せる。……言い返して、いいのか。親父なら即日クビだ。でも俺は親父じゃない。
その横に、もう一つの声が重なっている。
『社長、決めて。今、決めて。専務が来る前に』
榎本だった。社長の隣で、声に出さずに、頭の中だけでそう繰り返している。
社長の声は同じところを回りつづけていた。言う。言わない。言ったらどうなる。言わなかったらどうなる。洗濯機の中で回る靴下のように、出口がない。
宍戸は名刺の箱の角をそろえた。
聞いているだけでは、もどかしかった。あと一押しなのだ。この男の中には、言いたい気持ちが、ちゃんとある。言いたい気持ちと、怖い気持ちが、てんびんの両方の皿に乗ってぐらぐら揺れている。
押せばいいのに。
そう思ったとき、宍戸は、自分の体が少しだけ前に傾いているのに気づいた。聞くときよりも、ほんの少し。社長の頭の中の「言う」のほうの皿に、指を一本、置くように。
『……言おう』
社長の声がふっと一つのところに止まった。
『言おう。これは言っていい。俺が社長なんだから』
指先が冷えた。小指の先から手首にかけてすうっと血が引いていく。物を動かすときとは違う冷え方だった。もっと細くて深い。針の先で、骨の内側を撫でられたような。
手のひらを握って開く。指の関節が錆びた蝶番のようにぎこちなく動いた。
今、何をした。
問いの答えは問うより先に、体のほうが知っていた。心臓が電車の中で初めて声を聞いた朝と同じ速さで打っている。違うのは怖くないことだった。
社長の頭の中に、指を入れた。そして、社長は、それに気づいていない。
自分で決めたと思っている。
毎年の年始の挨拶で、この男は壇上から、頑張った社員の名前を三人だけ読みあげた。十二年、その三人に宍戸の名前が入ったことは一度もない。入るはずがないと思っていたから、悔しいと思ったこともなかった。悔しいと思わないように、していた。
その男の頭の中で、今、宍戸の指が判子を押した。
社長室の扉が開いた。出てきた榎本が宍戸を見て足を止める。
「……宍戸さん」
「名刺、お持ちしました。受け取りのサインをいただけますか」
榎本は机の上の箱と宍戸を交互に見てペンを取った。いつもの、整った字。
社長、決めた。急に。さっきまであんなに迷ってたのに。……この人が来てから?
「社長が、今日の役員会で、例の件をお話しになるそうです」
「そうですか」
「宍戸さん、何か、ご存じですか」
「何のことでしょう」
宍戸は名刺の箱を、榎本の机の真ん中に置き直した。ポケットからミルク飴を出して包みを開けて口に入れる。榎本はその指の動きを、じっと見ていた。
社長室の中で受話器を取る音がした。内線のボタンを押す、ぴっ、という短い音。
「専務を呼んでくれ」
社長の声が扉の向こうからはっきりと聞こえた。
宍戸は、扉の外で、その声を目を閉じて聞いた。
十二年、あの男が宍戸の名前を呼んだことは、一度もなかった。その男が今、宍戸の指で決めたことを、自分の声で言っている。
第6話 了
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