↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/33

第6話 「社長秘書だけが、俺を見ていた」

 給湯室の換気扇が、低く唸っていた。


 『この人、見てた。見てて、黙ってた』


 目を合わせたまま、宍戸は榎本の声の下へ降りていった。


 表面の声の下に、もう一枚、別の層がある。蛭田のときはそこに濁った水が溜まっていた。榎本の下にあるのは、もっと冷たく澄んだものだった。山の湧き水を溜めた、底の見える井戸。底には、閉まっていく工場のシャッターの音と、玄関に貼られた差し押さえの紙の赤い判子が沈んでいた。上に行く。上に行かないと、また閉められる。社長は弱い。でも、社長の隣にいれば、上が見える。


 三秒で目をそらす。蛇口の先から、水の滴が一つ落ちた。


 この女は自分が何を欲しがっているのかを、自分ではっきり知っている。宍戸はそこが気に入った。欲しいものを知っている人間は、何を差し出せば動くのかも、はっきりしている。


「肩書きの直し、どちらでしたか」


「代表取締役社長の前に、一行足していただきたくて。業界団体の理事に就任されたんです」


 榎本は内ポケットとは反対側のポケットからメモを一枚出した。理事の正式な名称が、さっきと同じ整った字で書いてある。


「明日の朝には、刷り直しを手配します」


 それで榎本は出ていかなかった。給湯室の入口に背を向けたまま、宍戸を見ている。


「さっきの紙」


「紙、ですか」


「蛭田課長の机のほうから、落ちてきましたよね」


「そうでしたか。気づきませんでした」


 『嘘』


 短く、はっきりした声だった。


「風かもしれませんね。四階は空調の吹き出し口が多いですから」


「空調、今日は止まってました。点検日で」


 点検日の連絡を各フロアに回したのは宍戸自身だった。宍戸は少しだけ口の端を上げる。


「よく覚えていらっしゃいますね」


「秘書ですから」


 この人、何なの。いつもの、へこへこしてる総務の人じゃない。目が違う。前からこんな目だった?


 榎本の頭の中の声を聞きながら、宍戸は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。十二年、この女の目に、宍戸は映っていなかった。今、映っている。それも、正体のわからないものとして。


 換気扇が低く唸る。古い冷蔵庫がぶるっと身震いしてモーターを止めた。急に部屋が静かになる。


「宍戸さん」


 宍戸は手に持っていたコップを流しの縁に置いた。


「もし、宍戸さんがあの紙に気づいていたとして。……どうして、ご自分で経理に持っていかなかったんですか」


 榎本は言葉を一つずつ選んでいた。頭の中ではもっと速く言葉が回っている。言っていいこと、言ってはいけないこと、どこまで踏みこむか。駒を並べる手が盤の上で止まったり進んだりしている。


 ステンレスの縁が、手のひらに冷たい。


「総務の主任が、自分の課長の経費に口を出したら、どうなると思いますか」


 榎本のまつげが一度、速く瞬いた。


 『それ。それ、さっき私が考えたこと。そのまま』


「……どうなるんでしょうね」


「たぶん、何も変わりません。課長は宛名は取引先の担当者に頼まれたとでも言うでしょう。経理は上が認めているならと引っこめる。私は課長を売った部下としてどこかの倉庫に回される」


 声はいつもの総務の主任の声だった。穏やかで、腰が低くて角がない。言っている中身だけが、いつもと違った。


「でも、社長の手から出てきたら、話は変わると思います」


 榎本の喉が小さく動いた。


 この人、わかってる。私がどこへ持っていくか。わかってて、私に拾わせた?


「では、私はこれで」


 榎本の横を抜けて給湯室を出る。すれ違うとき、柑橘のハンドクリームのにおいが、また鼻をかすめた。背中で、榎本が何かを言いかけてやめる気配がする。


 『この人、何か変わった』


 廊下を三メートル歩くと、声は聞こえなくなった。


 宍戸は歩きながら口の中を噛んでいた。そうしていないと、廊下の真ん中で笑い出しそうだった。




 翌朝、宍戸は刷り上がった名刺の箱を持って六階へ上がった。


 エレベーターを降りると、空気が変わる。ベージュの絨毯に足音が吸いこまれて、廊下全体が息をひそめている。壁には創業者が若いころに撮ったという、倉庫の前の白黒写真が飾ってあった。


 秘書室の扉は半分開いていた。中には誰もいない。榎本の机の上はきれいに片づいていて、ペン立てに同じ黒のボールペンが三本、同じ向きで差してあった。奥の社長室の扉の向こうから、話し声が漏れてくる。


 社長室の扉まで四メートル。届かない。


 一歩、中へ入る。三メートル半。まだ遠い。


 秘書の机の横まで歩いて、名刺の箱を置いた。扉まで二メートル半。


 社長室の扉は閉まっていた。だが、扉は声を止めない。止めるのは距離だけだと、宍戸はもう知っていた。


 『どうする。どうする。これ、専務に言うべきか。でも、蛭田は専務が引っぱってきた男だし』


 社長の伊庭秀明の声だった。三十八歳、創業者の息子で二代目。毎年の年始の挨拶で、壇上に立つ姿を遠くから見たことがあるだけだ。頭の中の声は思っていたより高く、早口だった。専務にまた、管理が甘いって言われる。でもこれは専務の人事の失敗だ、言い返せる。……言い返して、いいのか。親父なら即日クビだ。でも俺は親父じゃない。


 その横に、もう一つの声が重なっている。


 『社長、決めて。今、決めて。専務が来る前に』


 榎本だった。社長の隣で、声に出さずに、頭の中だけでそう繰り返している。


 社長の声は同じところを回りつづけていた。言う。言わない。言ったらどうなる。言わなかったらどうなる。洗濯機の中で回る靴下のように、出口がない。


 宍戸は名刺の箱の角をそろえた。


 聞いているだけでは、もどかしかった。あと一押しなのだ。この男の中には、言いたい気持ちが、ちゃんとある。言いたい気持ちと、怖い気持ちが、てんびんの両方の皿に乗ってぐらぐら揺れている。


 押せばいいのに。


 そう思ったとき、宍戸は、自分の体が少しだけ前に傾いているのに気づいた。聞くときよりも、ほんの少し。社長の頭の中の「言う」のほうの皿に、指を一本、置くように。


 『……言おう』


 社長の声がふっと一つのところに止まった。


 『言おう。これは言っていい。俺が社長なんだから』


 指先が冷えた。小指の先から手首にかけてすうっと血が引いていく。物を動かすときとは違う冷え方だった。もっと細くて深い。針の先で、骨の内側を撫でられたような。


 手のひらを握って開く。指の関節が錆びた蝶番のようにぎこちなく動いた。


 今、何をした。


 問いの答えは問うより先に、体のほうが知っていた。心臓が電車の中で初めて声を聞いた朝と同じ速さで打っている。違うのは怖くないことだった。


 社長の頭の中に、指を入れた。そして、社長は、それに気づいていない。


 自分で決めたと思っている。


 毎年の年始の挨拶で、この男は壇上から、頑張った社員の名前を三人だけ読みあげた。十二年、その三人に宍戸の名前が入ったことは一度もない。入るはずがないと思っていたから、悔しいと思ったこともなかった。悔しいと思わないように、していた。


 その男の頭の中で、今、宍戸の指が判子を押した。


 社長室の扉が開いた。出てきた榎本が宍戸を見て足を止める。


「……宍戸さん」


「名刺、お持ちしました。受け取りのサインをいただけますか」


 榎本は机の上の箱と宍戸を交互に見てペンを取った。いつもの、整った字。


 社長、決めた。急に。さっきまであんなに迷ってたのに。……この人が来てから?


「社長が、今日の役員会で、例の件をお話しになるそうです」


「そうですか」


「宍戸さん、何か、ご存じですか」


「何のことでしょう」


 宍戸は名刺の箱を、榎本の机の真ん中に置き直した。ポケットからミルク飴を出して包みを開けて口に入れる。榎本はその指の動きを、じっと見ていた。


 社長室の中で受話器を取る音がした。内線のボタンを押す、ぴっ、という短い音。


「専務を呼んでくれ」


 社長の声が扉の向こうからはっきりと聞こえた。


 宍戸は、扉の外で、その声を目を閉じて聞いた。


 十二年、あの男が宍戸の名前を呼んだことは、一度もなかった。その男が今、宍戸の指で決めたことを、自分の声で言っている。




第6話 了

__________________________________________________________

ブックマークと、下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。


ブックマークと、下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。