第10話 「十日目、課長は泣きながら白状した」
月曜の朝、蛭田は目の下を黒くして出社してきた。ネクタイの結び目が、少しだけ曲がっていた。
『眠れねえ。また三時だ』
蛭田の頭の中は、その一行から始まっていた。
この月曜から押すと、宍戸は決めていた。やり方も決めてあった。朝、蛭田が席に着いてパソコンを立ち上げるまでの五分。昼休みの前の五分。夕方、帰り支度をするときの五分。一日三回、合わせて十五分だけ、指を置く。
それ以上は押さない。押しすぎれば自分の指が先に凍るし、一度に大きく押せば、蛭田は自分の異変に気づく。気づけば医者に行く。医者に行けば薬が出る。薬は宍戸の指より強いかもしれない。
少しずつ。毎日。雨垂れが石に穴を開けるように。
日曜の夜、宍戸はこの手順を、ベッドの中で何度も組み直した。組み直すたびに、胸が躍った。十二年間、宍戸が組んできた段取りは、全部誰かのためのものだった。防災訓練の段取り。会議室の段取り。蛭田が手柄にする資料の段取り。
これは初めての、自分のための段取りだった。
一日目。蛭田は朝のメールを三回読み直した。部長からの、ただの会議の日程変更だった。部長、なんで俺にだけ別で送ってきた、何か意味があるのか。実際は課長全員への一斉送信だった。
三日目。蛭田は昼に何も食べなかった。弁当を開け、箸を持ち、そのまま閉じる。食えねえ、胃が石みたいだ。島に、冷めた唐揚げのにおいが漂った。安達がちらりと蛭田を見てすぐに目をそらした。
五日目。蛭田は十分遅刻してきた。ネクタイが曲がり、シャツの襟の裏に、ファンデーションのような薄い色がついている。嫁に言われた、最近おかしいって。夜中に何度も起きて引き出しを開けて。……家の引き出しじゃねえ。会社の引き出しだ。あの二枚。
蛭田は席に着くなり一番下の引き出しを開け、奥に手を突っこんで何かを確かめるように探った。閉めた。閉めきらずに止めてもう一度開けた。また閉めた。
宍戸は伝票を一枚めくった。めくる指が少しだけ震えていた。冷えのせいではなかった。
七日目。蛭田は部長の個室の前を通るたびに足を止め、ガラス越しに小田切の様子をうかがうようになった。部長、今誰と話してる、経理か、人事か、専務か。俺のことか。俺のことだ。
島の空気は湿った新聞紙のように重くなっていた。課員たちは蛭田の様子に気づいていて、誰も何も言わなかった。課長やばいよね、病院行ったほうがいいんじゃない、関わりたくない。
指を置くたびに、手が冷えた。最初の二日は飴が一つあれば戻った。五日目からは二つ要った。七日目には、昼休みに板チョコを一枚丸ごと食べた。体重計に乗ると一週間で二キロ落ちていた。甘いものばかり食べているのに、減っている。
それでも、やめる気にはならなかった。やめたくなかった。
朝の五分が待ち遠しかった。蛭田が席に着き、パソコンの電源ボタンに指をかける。その瞬間に、宍戸も指を置く。蛭田の頭の中で不安がひと回り膨らみ、肩がわずかに上がるのが見える。昼の五分、夕方の五分。十二年間、宍戸の一日は蛭田の機嫌で決まっていた。今は蛭田の一日が、宍戸の指で決まっている。
蛭田の不安はもう押さなくても大きいままだった。夜になっても、週末をはさんでも戻らない。宍戸が指を置くのは、膨らみきった風船に、もうひと息だけ吹きこむ作業になっていた。割れる手前の風船は、表面がつるつるに張って光を跳ね返す。
蛭田克也は自分の頭がどうかしてしまったのだと思っていた。
領収書の件は専務のおかげで厳重注意で済んだ。それで終わったはずだった。それなのに、毎日、何かが胸の上に乗っている。朝、会社の自動ドアをくぐると、それが重くなる。総務の島に近づくと、もっと重くなる。
島の中の、どこかに、何かがいる。
そんな気がしてならなかった。顔を上げて見回しても、いつもの連中しかいない。安達。係長。香坂。宍戸。誰も蛭田のほうを見ていない。見ていないのに、背中のどこかに、ずっと視線が刺さっている。
宍戸と目が合うと、決まって息が苦しくなった。
あいつは何もしていない。伝票をめくって飴を舐めているだけだ。いつもの困ったような笑いで、課長、と頭を下げてくるだけだ。
なのに、なぜ、あいつの目を見ると、胃の底が冷えるのか。
九日目の夜、宍戸は誰もいなくなった島で一人残業をしていた。
蛭田の机はひどく散らかっていた。書類の山が崩れ、コーヒーの空き缶が三本並び、家族の写真立てが伏せられている。一番下の引き出しは、今日も少し飛び出していた。
宍戸は立ち上がり、蛭田の机の前まで歩いた。伏せられた写真立てに、手を触れずに目だけを向ける。
写真立てが、ゆっくりと起き上がった。
海を背に、奥さんと中学生くらいの娘が笑っていた。娘は蛭田に少し似ている。眉の太いところと、笑うと目がなくなるところ。
宍戸はその写真をしばらく見ていた。
来週の今ごろ、この写真の二人は、父親が会社で何をしていたのかを知るだろう。ミカという女のことも。経費のことも。娘は笑うと目がなくなる父親の顔を、二度と前と同じようには見られない。
そう考えて、胸の奥で何が起きるのかを、宍戸は確かめた。
ちくりとも、しなかった。それどころか、写真の中の蛭田が、いつもの大きな声で笑っているように見えて、宍戸の口の端が勝手に上がった。会議室で宍戸の資料を読み上げたときの、得意げな声。宍戸の胸にファイルを押しつけたときの、鼻を鳴らす音。
お前の家族には、悪いことをするな。
口の中だけでそう言ってみた。言葉は少しも重くなかった。
写真立てを、また伏せた。かたん、と小さな音がした。
十日目。蛭田は朝七時二十分に出社した。いつもより一時間半も早い。フロアにはまだ宍戸しかいなかった。
蛭田は鞄を置き、パソコンも立ち上げずに、両手を膝の上に置いて机の木目を見つめていた。宍戸は席を立ち、蛭田の机の横を通る。
「おはようございます」
返事はなかった。
『もう無理だ』
頭の中の声はその一行で止まっていた。あれほど同じところをぐるぐる回っていた声が、今朝はひどく静かだ。嵐のあとの海のように、平らで、灰色で、何も浮かんでいない。もう無理だ。全部バレてる。バレる前に言っちまったほうがいい。言えば、楽になる。
宍戸は席に戻り、パソコンの起動音を聞きながら指を置いた。
今日だけは五分では終わらせない。
言えば、楽になる。言えば、楽になる。言えば、楽に。
手が冷えていく。指先から手首へ、手首から肘へ。机の下で左手で右手を握る。右手は冷蔵庫から出したばかりの缶のようだった。鼻の奥がつんとした。
八時五十五分、小田切が出社して個室に入った。
九時ちょうど、蛭田が立ち上がった。
課員たちの目が一斉に蛭田を追う。蛭田は一番下の引き出しから二枚の紙を取り出し、そのまま部長の個室へ歩いていった。ノックもせずに扉を開ける。
「部長。話があります」
扉が閉まった。
宍戸は指を離した。鼻の下を温かいものが伝う。指で拭うと赤かった。ティッシュで押さえながら、引き出しのミルク飴を三つまとめて口に入れる。
ガラス越し、四メートル先。頭の中の声は届かない。だが口から出る声は島まで聞こえた。
「ミカって女です。銀座の、月白って店の。二年前からです。経費で取引先の名前を使って。全部で、たぶん、三百万くらい……すみません。すみませんでした。もう無理なんです。毎晩眠れなくて。全部言います、全部……」
声は途中から泣き声になっていた。島がしんと静まりかえる。安達が口を手で押さえ、係長が湯呑みを持ったまま固まっていた。
宍戸はティッシュで鼻を押さえたまま、その泣き声を聞いていた。
十二年。十二年、この声に怒鳴られてきた。その声が今、ガラスの向こうで、子どものようにしゃくりあげている。
ティッシュの下で宍戸は笑っていた。誰にも見えないように、鼻を押さえる手のひらで口もとを隠して。
ざまあみろ。
その一言が、喉の奥から何度も湧いてきた。書類を床に叩きつけられた朝。手柄を取られた春。怒鳴り声で胃が痛んだ、何百という月曜日。
それなのに、ちっとも足りなかった。この男が泣いた三分で、十二年が埋まるはずがなかった。
午後四時、蛭田は段ボール箱を一つ抱えて島を出ていった。懲戒の処分は来週の人事委員会で決まる。それまでは自宅待機。課長の職は今日付けで解かれた。専務からの内線は、今度は入らなかった。
段ボールの中には、ボールペンと湯呑みと、伏せられた写真立てが入っていた。
宍戸の机の横で蛭田の足が止まった。赤く腫れた目が宍戸を見下ろす。目が合った。
『こいつが近くにいると、なんでか、息が苦しかった。……なんでだ』
宍戸は少しだけ眉を下げ、いつもの困ったような笑いを作った。
「お疲れさまでした」
蛭田は段ボールを抱えなおし、エレベーターのほうへ歩いていった。背中が丸まって、来たときより二回りほど小さく見えた。エレベーターの扉が閉まる音がする。
空いた課長の席に、夕方の日差しが差しこんでいた。椅子の背に、蛭田の上着がかけっぱなしになっている。
部長の個室の扉が開き、小田切がガラスの戸口から顔を出して島を見回した。その目が宍戸の上で止まる。
「宍戸くん。ちょっといいかな」
宍戸は返事をする前に、机の上の書類の角を、指でそろえた。
椅子を引いて立ちあがる。椅子の脚が床をこする音が、静かな島にひとつ響いた。最初の一人が片づいた。
第10話 了
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