第11話 「『棚ぼた』と笑うやつらの本音」
部長の個室の扉を、宍戸は二度叩いた。
『この男で、穴は埋まるか』
扉を開けると、小田切の声が先に聞こえた。
ガラス張りの小さな部屋だった。机の上に湯呑みが二つ残っている。一つは空で、一つはなみなみと冷めた茶が入ったまま。蛭田は一口も飲まなかったらしい。小田切は窓を背に座り、向かいの椅子をすすめた。
「座って。……驚いたろう」
「少し」
驚いてないな、この男。小田切の目が宍戸の膝の上の手に落ちる。重ねた手は震えていない。宍戸は手のひらを少しだけ握った。
「蛭田くんのことは人事委員会で決まる。たぶん懲戒解雇までは行かない。でも、もう総務課には戻れない。それでね」
机の上を、書類が一枚滑ってきた。辞令の下書きだった。総務課長代理を命ず、宍戸恭司。
「当分のあいだ、課長代理として課をまとめてほしい。正式な課長は来年の春の異動で決める」
『正直、誰でもよかった。一番波風が立たないのが、この男だ』
その下から、もう一つの声が浮かんでくる。蛭田くんが最後に言っていた。消耗品の資料は宍戸が作ったと。三週間、夜中まで残って。私は気づいていたのに、見ないふりをしていた。
小田切の指が辞令の端をとんと叩いた。
「消耗品の件も聞いた。あれは君の仕事だったそうだね。役員会に上げるときは、作成者を君の名前に直しておいた。社長にも、そう伝わっている」
「課長のご指示でまとめただけです」
「謙遜はいいよ」
謙遜じゃない。この男は眉ひとつ動かさずに言う。
宍戸は辞令の下書きを手に取った。紙は薄くて軽かった。蛍光灯にかざすと、裏に刷られた社章がうっすら透ける。蛭田の引き出しから抜いた領収書と、ほとんど同じ重さだった。
同じ重さの紙が一枚、蛭田を落とし、一枚、宍戸を持ち上げた。
喉の奥で、何かがこみ上げてくるのを、宍戸は飲みこんだ。
「お受けします」
よかった。これで私の監督責任の話も少しは薄まる。小田切がほっと息を吐く。窓の外で、夕方の雲が、ビルの屋上の給水塔に引っかかるように流れていった。
見ないふりをしていた、と、この人は今さら頭の中で認めている。認めたところでこの人は何もしない。十二年間、ガラスの向こうで、蛭田が宍戸を怒鳴るのを眺めていただけの人だ。
いずれ、この人の椅子も空ける。宍戸はそれを、辞令を両手で受け取りながら決めた。決めるのに、一秒もかからなかった。
翌朝、八時半の朝礼で小田切が辞令を読み上げた。
島に、まばらで乾いた拍手が起きる。その下で、頭の中の声がいっせいにしゃべりだした。え、宍戸さん? 棚ぼただな。まあ他にいないか。あの人が上司ってちょっと楽かも、怒鳴らなそうだし。
安達は手を叩きながら、一瞬だけ眉を寄せた。もう仕事押しつけられないってこと? ……いや、宍戸さんなら課長代理でも引き受けてくれるか。
島の端で、主任の香坂が拍手の手を止めた。三十一歳。宍戸より三つ下だが、同じ主任だ。営業から総務に移ってきて三年。声が大きく、会議でよく発言し、蛭田によく飲みに誘われていた。なんで宍戸なんだよ。年功か。俺のほうがどう見ても上に向いてるだろ。蛭田さんがいなくなって次は俺だと思ってた。
「じゃあ、宍戸くん、一言」
宍戸は一歩前に出て頭を下げた。
「至らないところばかりですが、よろしくお願いします。課長がいらっしゃったときと、やり方は変えません」
島の空気がふっとゆるむ。変えないのか、助かる。まあ、そうだよね。
香坂だけがゆるまなかった。変えない、ね。変える力もないくせに。
頭を下げたまま、宍戸は床を見て笑った。変える力もないくせに。そうだ。そう思っていてくれればいい。
課長代理になって、宍戸がまず変えたのは席だった。
蛭田の机には座らない。窓際の、課の全員を見わたせる席は空けたままにして、自分の机を、島の真ん中に寄せた。真ん中にいれば、どの席にも三メートルで届く。
その日一日、宍戸は課員の頭の中を一人ずつ聞いた。何を怖がっているか。何を欲しがっているか。誰を嫌っているか。誰の言うことなら聞くか。
伝票の仕分けに似ていた。勘定科目ごとに紙を箱へ入れていく。使える紙と、使えない紙。今すぐ要る紙と、あとで要る紙。十二年間、宍戸は他人の紙を仕分けてきた。今、仕分けているのは人間だった。
安達美緒、二十六歳。仕事を人に押しつける癖がある。その代わり、社内のあちこちに友だちがいる。経理にも営業にも秘書室にも。誰と誰が付き合っているか、どの部長が左遷されそうか、そういう話を山ほど仕入れてくる。使える。耳として。
隣の島から移ってきた係長、五十九歳。定年まであと一年。何も欲しがらず、誰の味方でもなく、言われた仕事を言われたとおりにやる。使える。手として。
香坂、三十一歳。上に行きたい。自分は宍戸より上だと思っている。宍戸の下で働くとかマジでありえねえ、小田切さんに直接言うか、いや専務に話を持ってったほうが早い、蛭田さんも専務の筋だったし。
使えない。今はまだ。
分け終えたとき、宍戸は自分が、十二年働いてきた島を、初めて上から見下ろしているのに気づいた。高い場所ではなかった。椅子の位置を、一メートル真ん中に寄せただけだ。それだけで、島の全員の頭の中が、宍戸の手もとに並んでいた。
午後二時、安達が机の横に来た。
「宍戸さん……じゃなくて宍戸代理。すみません、これ」
営業所の備品の見積もりの束だった。十日前と同じように、押しつけようとしている。課長代理でも、頼めば断らないよね。今までずっとそうだったし。
宍戸は束を受け取ってぱらぱらとめくった。三分の一ほどが数字の入っていない空欄だった。
「安達さん」
安達が首をかしげる。
「これ、安達さんが仕上げてください。金曜までで構いません。わからないところがあれば、聞いてください。一緒に見ます。ただ、手を動かすのは安達さんです」
穏やかな声のまま、宍戸は束を、安達の手のひらの上に戻した。
なんか宍戸さん怒ってる? ……怒ってない。いつもどおり。いつもどおりなのに、なんか、断れない。
安達は束を胸に抱えて席に戻り、一枚目の空欄にペンを当てたまま、しばらく動かなかった。
指は冷えていなかった。力は何も使っていない。
宍戸は自分の手を見下ろした。何も使わずに、人は断れなくなる。肩書き一つと、声の調子一つで。十二年間、蛭田が宍戸にやってきたことと、同じだった。
それがこんなにも簡単で、こんなにも気持ちのいいことだとは、知らなかった。
宍戸は安達の小さくなった背中を眺めた。ちょろいのは、どっちだ。断れない人間の背中は、上から見るとこんなに小さいのか。十二年、宍戸もこの背中だった。今は、見下ろす側にいる。見下ろすのは、思っていたよりずっと、気分がよかった。
引き出しを開けると、昨日のうちに替えておいたミルク飴の袋が、一つも減らずに入っていた。宍戸はそれを、引き出しの奥へ押しこんだ。
夕方五時半、机の上の内線電話が鳴った。液晶に、六階の秘書室の番号が光っている。
「総務課、宍戸です」
「秘書室の榎本です」
給湯室で聞いたのと同じ、低くて平らな声だった。電話越しに頭の中は聞こえない。宍戸は受話器を耳に押しつけて息づかいだけを聞いた。
「社長が、明日の朝一番に、宍戸さんにお会いになりたいそうです。八時半に社長室へお越しいただけますか」
「承知しました」
「それと」
受話器の向こうで、榎本がほんの少しだけ間を置いた。紙をめくる音がする。
「課長代理のご就任、おめでとうございます」
電話が切れた。
宍戸は受話器をゆっくり置いた。社長。四十年の会社の、二代目の頭の中が、明日の朝、宍戸の目の前に開く。
島の端で香坂がこちらを見ていた。目が合うと、香坂は画面に戻った。キーボードを叩く音が、さっきより少しだけ強い。
宍戸はその音を、心地よく聞いた。
第11話 了
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