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世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


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第12話 「社長の頭の中は、見栄と怯えでいっぱいだった」


 六階の廊下は絨毯が厚く、足音がしなかった。


 『どう見られてる。俺は今、どう見られてる』


 扉を開ける前から、その声は廊下に漏れていた。


 朝八時半。榎本が社長室の扉を二度ノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。前に一度、扉ごしに聞いたことのある、少し高い声だった。


「失礼します」


 社長室は宍戸のワンルームが三つ入るほどの広さだった。二面の窓に神田の街と、その向こうの皇居の森が見える。壁際のガラス棚にゴルフのトロフィーがいくつも並び、応接セットの革から、新しい革のにおいがした。


 伊庭秀明は窓を背にした大きな机の向こうにいた。


 間近で見るのは初めてだった。年始の挨拶の壇上で見るより、少し痩せている。髪は短く整えてあり、紺のスーツは体にぴったり合い、左の手首で、文字盤の大きな銀色の時計が光っていた。秀明はすぐには顔を上げなかった。書類にペンで印をつけていて、宍戸が机の前まで歩いて頭を下げるのを待ってからゆっくりと目を上げる。


 待たせたほうが社長らしく見える。親父はいつもそうしてた。


 宍戸は頭を下げたまま、その声を聞いた。三十八歳の社長が、父親のまねをして部下を待たせている。そのことを、部下に全部聞かれている。


「ああ、宍戸くん。座って」


 秀明はソファにどさりと腰を下ろした。宍戸は向かいに浅く座る。榎本がコーヒーを置いて、扉の脇に下がった。


「消耗品の件。小田切部長から聞いたよ。あれ、君が作ったんだって?」


「課長のご指示でまとめたものです」


「いやいや。千八百万だよ。年に千八百万。うちみたいな会社でそれがどれだけの金か」


 身を乗り出した拍子に、時計がテーブルの縁にこつんと当たる。


 本当はこれを俺の手柄にしたい。社長室で見つけた若手を抜擢した、っていう形にすれば、親父も少しは認めるだろう。専務も文句は言えないはずだ。


 宍戸はコーヒーに口をつけた。苦かった。テーブルの端の砂糖のポットには、手を伸ばさなかった。


「こういう仕事ができる人間が、総務の奥に埋もれてた。それがうちの問題なんだよ。人を見る目がない。……いや、私じゃなくてね。前の体制の話だ」


 親父の話だ。親父が人を見なかった。峯岸の言うことばかり聞いて。


 秀明の頭の中は口から出る言葉の三倍の速さで回っていた。見られたい。認められたい。父に。専務に。社員に。そして、その全部を、同じくらいの強さで怖がっている。強い風の中でまっすぐ立とうとしている、細い竿だった。根もとが浅いから、どこから吹かれても大きくしなる。


 宍戸は秀明の目を見た。秀明は人と目を合わせるのが苦手らしく、一秒ほどで窓のほうへ逃げた。


 一秒あれば足りた。


 三千万。去年の暮れ。為替。親父には言ってない。言えない。峯岸は知ってるのか。知ってたらあいつは使ってくる。来月の役員会でまた詰められる。数字のことで。数字の話になると、頭が白くなる。


 三千万円。


 宍戸の年収の、七年分を超える。それを、この男は父親に隠したまま、毎朝この部屋でコーヒーを三杯飲んでいる。


 宍戸はゆっくりとコーヒーカップをソーサーに戻した。陶器の触れあう小さな音が、広い部屋に響く。手が震えていないことを、自分で確かめながら。震えそうだった。怖さではない。腹の底から湧いてくる、笑い出したいほどの喜びのせいだった。


 この会社の社長の首根っこが、今、宍戸の手の中にある。本人はそれを知らない。秘書も知らない。父親も知らない。


「それでね、宍戸くん。君に一つ頼みたいことがあるんだ。来月の役員会で、私が経費の見直しの方針を出す。消耗品の件も含めて会社全体のね。その資料を、君に作ってほしい」


 資料があれば、峯岸に詰められても、そこを読めばいい。いや、資料だけじゃ足りない。質問されたら終わりだ。去年もそうだった。営業所の統合の数字を聞かれて答えられなくて親父が横から全部答えた。あの日の、役員たちの目。


 秀明の右手の指が、ソファの肘掛けの縫い目を、何度もなぞっていた。


 宍戸は少しだけ考えるふりをした。


「資料はお作りします。ただ、一つお願いがあります。役員会の前に、社長と一緒に資料を読み合わせさせてください。役員の方から出そうな質問を、こちらで先に洗い出しておきます。答えも、ご用意します」


 肘掛けの上で秀明の指が止まった。


 『……それだ。それなら詰められない。先に答えを知っていれば』


「そこまでやってくれるのか」


「総務の仕事ですから」


 この男、わかってる。俺が何に困ってるか、全部わかってる。


 わかっているのではない。聞こえているのだ。宍戸は笑いを噛み殺しながら、秀明の頭の中の、安心しかけている場所に指を置いた。ほんの少しだけ、押す。


 『大丈夫だ。この男がいれば、大丈夫だ』


 秀明の肩から力が抜けた。スーツの肩の線が、目に見えて下がる。


 指先が冷えた。宍戸はソファの上で、手の甲をもう片方の手で包んだ。


「宍戸くん、君、この会社に何年いる」


「十二年です」


「十二年。……十二年も、総務の奥に。もったいないね、本当に」


 もったいない、と言っておけば、恩に着るだろう。


 秀明は立ち上がり、机の名刺入れから一枚抜いて、裏にボールペンで何か書きつけた。携帯の番号だった。


「何かあったら、直接ここにかけてくれていい。役員会までは毎日でも」


 宍戸は両手で受け取った。業界団体の理事の肩書きが一行増えている。宍戸が発注した新しい名刺だ。


 扉の脇で、榎本がほんのわずかに顎を引いた。社長が自分の携帯の番号を渡した。私が秘書になってから社員に渡したのは初めて。




 社長室を出ると、榎本が後ろからついてきた。エレベーターホールまでの十メートルを、宍戸の三歩後ろで、低いヒールの音がついてくる。


「宍戸さん。役員会の資料、私のほうで過去の議事録をお出しできます。専務がどんな質問をなさるか、去年の分ならだいたいわかります」


 振り向くと、榎本は両手を前で重ねて立っていた。短く切りそろえた爪に、透明なマニキュアが光っている。


 この人の側にいれば、上が見える。社長はこの人の言うことなら聞く。今日、それがはっきりした。


「助かります。いただけますか」


「今日中に、総務課にお届けします」


 エレベーターが来た。扉が閉まりかけたとき、榎本が言った。


「社長、今朝はコーヒーを一口も飲まずに、宍戸さんをお待ちでした。……いつもは、三杯目なんです」


 扉が閉まる。箱が低い唸りをあげて下りはじめた。


 宍戸は胸ポケットから秀明の名刺を出して裏の数字を眺めた。


 あの人は動かせる。


 小さい男だ、と宍戸は思った。三十八にもなって、父親の機嫌ひとつで朝のコーヒーも喉を通らない。この会社でいちばん偉い椅子に、いちばん小さい男が座っている。……その小さい男の首に、今、宍戸の手がかかっている。


 風の強い日の竿は、どちらに倒すかを決めるのが難しい。だが一度倒してやれば、あとは勝手にそちらへしなる。秀明の竿は今朝、宍戸のほうへ倒れた。見栄と怯え。どちらも押せば膨らむ。秀明の中には、その二つが、てんびんの両方の皿に山のように積まれていた。


 そして、三千万。


 宍戸は名刺を胸ポケットに戻し、その上から手のひらで軽く押さえた。社長の携帯の番号と、社長の一番深い秘密が、今、同じポケットに入っている。


 エレベーターの壁に映った自分に、宍戸は眉を下げずに笑いかけた。四階で扉が開く直前に、いつもの困ったような笑いに戻した。


 総務課の島で香坂がこちらを見ていた。社長室? なんで宍戸が社長室に呼ばれるんだよ。


 宍戸は席に座った。座りながら、背中で香坂の頭の中を聞いていた。


 調べてやる。……あいつの机の、引き出しの中を。


 宍戸は、机のいちばん下の引き出しの鍵を、指先でそっと確かめた。




第12話 了

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