第13話 「毎月九百万円が、ヤクザに流れていた」
九百万。今月も、九百万。
請求書の数字を、宍戸は三度読み直した。
課長代理になって四日目の夕方。蛭田の引き出しに残っていた決裁待ちの書類を、一枚ずつ片づけているところだった。課長がいなくなれば、課長の判子が要る書類は課長代理に回ってくる。蛭田が三週間ため込んだ紙の山は、宍戸の机の上で、辞書二冊ぶんの高さになっていた。窓の外はもう暗く、島に残っているのは宍戸ひとりだ。コピー機が待機中の小さな音を立て、蛍光灯の一本がまたちらついていた。
清掃、警備、植栽の手入れ、エレベーターの点検。本社ビルを動かすための外注の請求書は、全部総務課を通る。毎月だいたい同じ金額で、毎月だいたい同じ会社から届く。十二年、宍戸はその数字を見てきた。
その中に一枚だけ、見たことのない請求書があった。
株式会社湊浜環境サービス。産業廃棄物の収集運搬および処分。本社ビル分、九月分。九百万円。
デスクライトの下に置く。上質な紙に、鮮明な印刷。住所は神奈川県湊浜市の港の近くで、担当者の欄には名前ではなく「営業部」とだけある。決裁の欄には、すでに判子が一つ押してあった。峯岸。総務課長の欄は空いていて、その上の専務の欄だけが先に埋まっている。
過去の綴りを棚から引っぱり出した。支払いは三年前の四月から始まっていた。最初の月が三百万、半年後に五百万、一年後に七百万、今年の春から九百万。どの月も、専務の判子が先にあって、総務課長の判子があとから押されている。三年前の課長の判子も、去年からの蛭田の判子も、どれも少しずつ斜めに傾いていた。中身を読まずに、急いで押した傾きだった。
本社ビルのごみのことは、宍戸が一番よく知っている。毎週火曜と金曜に区の委託業者の小さなトラックが裏口に来て、可燃ごみと資源ごみと段ボールを持っていく。壊れた椅子や古いキャビネットが出れば、別の業者に頼む。年に百万もかからない。
神田の古い事務所ビルのどこから、月に九百万の産業廃棄物が出るのか。
宍戸は綴りを閉じて下から両手で持った。
手のひらの上で、紙の束が、ずしりと重かった。三年で二億を超える金だ。そして、その一枚一枚に、専務の判子が押してある。
蛭田の領収書は三枚で三百万だった。これはその七十倍だ。
指先が熱くなっていた。力を使っていないのに、冷えるどころか熱い。宍戸は自分がいま宝の地図を広げているのだと思った。誰も読まずに判子を押してきた地図。それを、十二年、判子を押させられる側にいた男が、初めて読んでいる。
翌朝、二階の倉庫へ下りた。本社ビルで唯一、物を置いている階だ。サンプル品の段ボールと販促用ののぼり旗、営業所へ送る前の消耗品が鉄のラックに積まれ、フォークリフトのバッテリーが、焦げた金属のようなにおいを立てていた。
倉庫の主任は五十代の小柄な男で、首に白いタオルを巻いている。
「湊浜環境サービス? ああ、あのトラックね。月に一回かな。大きいトラックで来て、ちっちゃい袋を二つ三つ持って帰る」
あれ、なんなんだろうな。運転手もガラ悪いし、荷台は毎回ほとんど空だし。でも専務の肝いりだって聞いたし、俺が口出すことじゃねえ。
「何を持っていくんですか」
「壊れたパレットとか、古い蛍光灯とか。まあ、そんなもんだよ」
壊れたパレットと古い蛍光灯で月に九百万。宍戸は礼を言って階段を上がった。一段ごとに、地図の線が濃くなっていく。
昼過ぎ、決裁の書類を抱えて六階へ上がった。課長代理の判子が要る書類は、課長代理が専務のところへ持っていく。それも、総務の仕事だった。
専務室の扉は開いていた。峯岸は窓際の机で電話をしていて、戸口で頭を下げた宍戸に、受話器を耳に当てたまま指で机の端を二度叩いた。そこへ置け。宍戸は書類の束を机の端に置き、一番上に、湊浜環境サービスの請求書を載せた。
机まで一メートル。
「……ええ、そのように。来週の会食は私のほうで」
『湊浜の請求書。今月も来たか。総務の新しい代理。こいつは中身を見たのか』
峯岸の目が電話をしながら請求書の上に落ち、それから宍戸の手もとへ移る。宍戸はゆっくりと頭を下げ、顔を上げるときに、峯岸と目を合わせた。
三秒。
九百のうち、二百はいつもの口座へ。残りの七百は湊浜の連中に。あの連中に逆らったら何をされるかわからん。三年前、最初はあの連中から近づいてきた。会社の倉庫の土地のことで。断ったら、営業所の車が三台、一晩で燃えた。払っているうちは静かだ。静かにさせておくのも経営だ。二百は俺の取り分だ。三十年、源一郎さんの下でこの会社のために働いた。これくらいは。
峯岸が目をそらし、受話器を置いた。
「新しい代理か」
「宍戸と申します。よろしくお願いいたします」
「蛭田くんは、気の毒なことをした」
本当に気の毒だ。あいつはこの判子を黙って押す男だった。
「この請求書は、いつもどおりで構わんから。前の課長からの引き継ぎだ」
「承知しました」
宍戸は請求書の課長の欄に、自分の判子を押した。
真っすぐに押した。少しも傾けなかった。
峯岸がその判子を見下ろす。眉と眉のあいだに一瞬だけ細い溝ができてすぐに消えた。……まあいい。置物だ。置物の判子だ。
宍戸は頭を下げて専務室を出た。
エレベーターの中で手のひらを開く。指先が白っぽく冷えていた。峯岸の頭の中は会長ほど重くはない。だが底のほうに冷たく沈んだものがあった。燃えた車。夜中の駐車場。誰かの笑い声。古い沼の底の泥のような記憶。
あいつはこの判子を黙って押す男だった。
宍戸は峯岸のその一言を何度も舌の上で転がした。そうだ。だから宍戸は今日、黙って押した。真っすぐに。いつでも、この紙を持って専務室に戻れるように。
毎月二百万。三十年分の恩を理由に、会社の金を抜いている男。その男が宍戸のことを「置物の判子」だと思っている。
エレベーターの壁に額をつけて宍戸は声を出さずに笑った。肩が小刻みに揺れた。
夕方、宍戸は自分の席の受話器を取った。請求書の代表番号を、一つずつ押す。
湊浜の連中、というのがどういう人間なのか、確かめておきたかった。紙の上の数字だけでは、地図の端が見えない。
呼び出し音が四回鳴った。
「はい、湊浜環境サービス」
低く、少しかすれた男の声。電話越しでは頭の中は聞こえない。
「お世話になっております。伊庭興産、総務課の宍戸と申します。九月分のご請求書の件で、内訳の明細をいただけないかと思いまして」
受話器の向こうが静かになった。二秒、三秒。どこかでテレビが鳴っている。競馬の中継らしかった。
「……伊庭興産さん。明細ね。いつも出してないけど」
「総務の担当が替わりまして。念のため、確認させていただきたいんです」
向こうで誰かが笑った。電話の男ではない。もっと遠くの、別の男の笑い声だった。
「担当が替わった、ね」
声の調子は変わらない。丁寧でも乱暴でもなく、包丁を研ぐときのような、平らな声だった。
「宍戸さん、だっけ。下の名前は」
受話器を握る指先が、すっと冷えた。力は何も使っていない。
初めてだった。九月のあの朝から、宍戸はずっと、相手の頭の中を先に知っている側にいた。今、受話器の向こうの男が何を考えているのか、宍戸には一言もわからない。わかるのは相手が宍戸の名前を、確かめようとしていることだけだ。
背中を、冷たい汗が一筋流れた。
そして、その汗の下で別のものが脈を打っていた。
「……恭司です」
言ってから、しまったと思った。
十二年、電話で下の名前を訊かれたことなど一度もなかった。訊かれたら答える。総務の男の体には、その癖が染みついていた。
「恭司さん。ね」
受話器の向こうで、ペンの先が紙をこする音がした。
書いている。
「明細は、出せないね。うちは前からそういう決まりなんで。……専務さんに、よろしく」
電話が切れた。
宍戸は受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。
島にはもう誰もいなかった。蛍光灯がちらつき、蛭田の空いた机に、コーヒーの輪じみが一つ乾いて残っている。
ばかが。
宍戸は自分に向かって、声を出さずに言った。
名前を渡した。顔も知らない連中に、手の届かない場所から、下の名前まで。九月のあの朝から、宍戸はずっと、相手の中身を一方的に覗く側にいた。今日初めて、覗かれる側に回った。
受話器を置く手が、かすかに震えていた。
震えている手を、宍戸は机の上で握りこんだ。握りこむと、震えは止まった。止まったあとで、腹の底から、別のものがじわじわと上がってきた。
怖さではなかった。
蛭田は宍戸の手のひらの上で壊れた。社長は宍戸の指で決めた。専務は宍戸を置物だと思っている。誰も、宍戸に手を伸ばしてこなかった。伸ばしてくる力のある人間が、あの会社の中には一人もいなかった。
電話の向こうの男は、伸ばしてきた。
面白い。
宍戸は湊浜環境サービスの三年分の綴りを、机の一番下の引き出しにしまった。鍵をかける。
鍵を抜いたとき、机の上の電話が鳴った。
外線のランプが点いていた。
二回。三回。
宍戸は受話器に手を伸ばさなかった。誰もいない島に、呼び出し音だけが鳴りつづけた。
十二回鳴って、止まった。
第13話 了
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