第14話 「社長秘書が、取引を持ちかけてきた」
件名は「役員会の資料の件」。本文は二行だけだった。
金曜 二十時 喫茶ミモザ(地下)
お一人で
昼休みに届いた社内メールを、宍戸は三回読み直して、それから消した。差出人は社長秘書の榎本沙耶。社長室の前の廊下で、初めてまともに口をきいてから、まだいくらもたっていない。
お一人で、の四文字が、午後のあいだずっと頭の隅に引っかかっていた。
喫茶店の扉の鈴が鳴ったとき、奥の席から、声が聞こえた。
今日、言う。言わないと、この人はもっと先へ行ってしまう。
金曜の夜八時。神田の古いビルの地下にある、窓のない喫茶店だった。壁は煙草のやにで飴色に染まり、天井の扇風機がゆっくり回っている。カウンターの奥でサイフォンがこぽこぽと音を立て、焦げた豆と古い木の床のにおいが混ざっていた。
榎本沙耶は一番奥の席にいた。会社と同じ紺のスーツで、髪も同じようにまとめている。テーブルの上の手だけが違った。白いコーヒーカップの取っ手を、指でつまんだり離したりしている。
「お呼びだてしてすみません」
「いえ」
向かいに座り、ブレンドと、メニューの端のチーズケーキを頼む。甘いものを頼んだ、と榎本が思った。この人、最近いつも甘いものを持ってる。飴とか。
テーブルの上に、茶封筒が一つ置かれた。
「去年と一昨年の役員会の議事録です。専務がなさった質問に、印をつけてあります」
中身を半分引き出すと、黄色い付箋が紙の端からびっしりのぞいていた。専務・営業所統合の件。専務・在庫回転率。整った小さな字だった。封筒の厚みは指一本ぶんある。
「これを作るのに、何日かかりましたか」
「三日です。夜に」
ブレンドとチーズケーキが来た。フォークでケーキの先を切って口に入れると、濃いチーズの甘さが舌の上にゆっくり広がる。
榎本がカップの取っ手から指を離した。
「宍戸さん。社長が次に何を言うか、わかるんですよね」
扇風機が一回転した。サイフォンの音が止んで、店主がカップに珈琲を注ぐ細い音だけが聞こえる。
宍戸の背中が、椅子の背もたれから離れかけた。離れかけて、止まった。
ばれたのか。
十二年、誰にも見られなかった。三週間で、この女に。……どこまで。どこまで、ばれた。
宍戸は何も言わなかった。否定も、しなかった。カップを持つ指に力が入って、受け皿がかちりと鳴った。
否定しない。……否定、しないんだ。
「給湯室で、私が考えていたことを、そのまま言いましたよね。一字一句、同じでした。社長室の前でも。社長は三十分同じところを迷っていたのに、宍戸さんが名刺の箱を置いた瞬間に決めました。このあいだの朝も。読み合わせの話を聞いた途端、社長の肩の力が抜けました。私、社長のあんな肩、三年間で一度も見たことがありません」
声は少しも揺れていなかった。議事録を読み上げるように、日付と場所と出来事を並べていく。三つ。三つ重なったら、偶然じゃない。この人は、人の考えを先回りする。怖いくらいに。勘なのか、観察なのか、どうやってかは知らない。でも、わかる人なんだ。
宍戸は、榎本の頭の中のその一行を、息を止めて聞いていた。
勘なのか、観察なのか。
頭の中、とは思っていない。
宍戸の肩から、ゆっくりと力が抜けた。抜けたあとで、背中に汗がにじんでいるのに気づいた。
宍戸はブレンドを一口飲んだ。苦かった。
胸の奥で、二つのものが同時に動いていた。一つは警戒だった。十二年、誰にも気づかれずにきた男が、三週間で一人に、半分まで見抜かれた。この女は危ない。危ない女は、遠ざけるより、手もとに置いたほうがいい。
もう一つは喜びだった。
この女は見抜いたうえでここに座っている。逃げずに、取り引きをしに来ている。宍戸が何者なのかを知りながら、宍戸の隣に立とうとしている人間が、この世に一人だけいる。
「それで、榎本さんは、どうしたいんですか」
榎本の目がほんの少しだけ大きくなった。答えを用意していたはずなのに、すぐには出てこない。カップの取っ手を、また指でつまむ。
宍戸はその目を見た。三秒。
工場のシャッター。父の背中。差し押さえの紙の赤い判子。上に行く、上に行かないとまた閉められる。社長は弱い。でもこの人は強い。強いのに、誰も気づいてない。今ならまだ、私だけが気づいてる。……怖い。この人、怖い。でも、怖い人の隣が、一番安全。
目をそらしたのは宍戸のほうだった。指先が冷えている。チーズケーキをもう一口食べる。
怖い人の隣が一番安全。
舌の上の甘さと一緒に、その一行を味わった。十二年間、宍戸のことを怖いと思った人間は、一人もいなかった。最初の一人がこの女だった。
「社長の予定と、来客の記録と、役員室の中の話」
榎本が低い声で言った。
「私は全部わかります。会長がいつ出社するかも。専務が誰と会っているかも。社長が誰に電話をかけたかも。……それを、お渡しします」
言った。言っちゃった。
「代わりに」
榎本は両手をテーブルの上で重ねた。爪の透明なマニキュアが、暗い照明を小さく跳ね返す。
「私を、上へ連れていってください。宍戸さんがどこまで行くのか、私にはわかりません。でも、そこへ」
扇風機が回る。店主がカウンターの奥で新聞をめくった。客はほかに誰もいない。
宍戸はチーズケーキの最後のひとかけを、フォークの先で皿の真ん中へ寄せた。
「どこまで行くか、私にもまだわかりません」
「構いません」
「途中で、榎本さんの知っている誰かが、困ることになるかもしれません」
「構いません」
少しも迷わない声だった。社長が困っても。専務が困っても。会長が困っても。私が困らなければ。
宍戸は最後のひとかけを口に入れた。甘さが溶けて消える。
この女と自分は同じだと思った。底に溜まったものの種類は違っても、それを上に行くための燃料にしようとしている。ただ一つ違うのは、宍戸には、この女の燃料の中身が全部見えていて、この女には、宍戸の中身が何一つ見えていないことだった。
見えている側と、見えていない側。その差が、宍戸にはたまらなく心地よかった。この女はこれから、宍戸の隣で宍戸の役に立つ。役に立つあいだは、大事にしてやればいい。
「一つだけ、条件があります。私に、嘘をつかないでください」
総務の島で課員に仕事を頼むときと同じ、穏やかで角のない声で宍戸は言った。
「つけば、わかりますから」
テーブルの上で榎本の指がぴくりと動いた。重ねた手の、下になっていたほうの指が上の手の甲をきつく握る。……この人には、きっとわかる。嘘をついたら、すぐに。怖い。でも、これで私は、この人の隣にいられる。
「わかりました」
榎本が深く頭を下げた。まとめた髪の先が、肩から前へこぼれた。
地上へ上がる狭い階段の上に、九月の終わりの夜風が溜まっていた。どこかの換気口から、天ぷらの油のにおいが流れてくる。階段の上で榎本が足を止めた。
「来週の火曜は役員会です。会長も出られます。午前中は取引銀行の支店長とお会いになって、役員会のあとは、専務と二人で」
「何の話か、わかりますか」
「専務とのほうは、わかりません。会長室の扉を閉めてお話しになりますから。……でも、会長は最近、総務の話をよくされます。蛭田課長の領収書を、誰が社長に渡したのか。会長は私だと思っています。そして、私に誰が渡したのかを、考えておられます」
宍戸は階段の最後の一段に足をかけたまま、榎本を見た。
会長は怖い人です。宍戸さんよりも? ……わからない。
「教えてくれてありがとうございます」
榎本は駅のほうへ歩いていった。低いヒールの音が、夜の歩道を遠ざかっていく。
宍戸は駅とは反対へ歩いた。まっすぐ部屋に帰って、一人で天井を見る気分ではなかった。神田の路地は金曜の夜でにぎわっていて、居酒屋の提灯の下で会社員たちが肩を組んで笑っている。どの頭の中にも何かが詰まっていた。上司への悪口。終電の時刻。家で待っている誰か。
宍戸はその人波の中を歩きながら、今夜手に入れたものを数えた。社長の予定。来客の記録。役員室の中の話。そして、宍戸を怖がりながら、宍戸についてくると決めた女。
会長は宍戸よりも怖いか。
宍戸は歩きながら笑った。わからない、と榎本は思った。それなら、会長に会って確かめればいい。
榎本沙耶は、山手線の吊り革につかまっていた。
金曜の夜の電車は、酒のにおいと笑い声で満ちていた。窓ガラスに、自分の姿が映っている。紺のスーツ。まとめた髪。いつもと同じ、社長秘書の榎本沙耶。
吊り革を握る右手だけが、まだ震えていた。
言った。全部、言った。
あの人は、否定しなかった。
榎本は窓の中の自分の目を見た。三年、社長の隣に座って、社長が迷うたびに、その迷いが終わるのを待ってきた。待つことしかできなかった。父の工場のシャッターが下りた夜も、榎本は、ただ待っていた。
もう、待たない。
あの人の隣にいれば、上が見える。
電車が駅に止まり、扉が開いた。冷たい夜風が吹きこんできた。榎本は吊り革を握りなおした。
震えは、まだ止まらなかった。
それが怖さなのか、それとも別のものなのか、榎本にはわからなかった。
わからないまま、榎本は、自分の口の端が少しだけ上がっているのに気づいた。
第14話 了
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