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世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


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第15話 「迷う社長の耳もとで、一言だけささやく」


 役員会議室の扉が、重い音を立てて閉まった。


 その音と同時に、社長の秀明の頭の中の声が聞こえた。


 頭が白くなる。また、白くなる。


 十月最初の火曜、午後一時。六階の役員会議室には、楕円形の大きなテーブルが一つ置かれ、磨きこまれた木の天板に天井の照明が白く映りこんでいた。半分下ろしたブラインドの隙間から、秋の光が絨毯に細い縞を作っている。新しい紙と古い革の椅子のにおいに、誰かの湯呑みの焙じ茶の香りが細く混じっていた。


 上座に会長の伊庭源一郎。その右に社長の秀明、左に専務の峯岸。あとは営業担当の常務、経理担当、物流担当、営業所出身の取締役が二人と、取引銀行から来た社外取締役が一人。全部で九人。


 宍戸は壁ぎわの、資料の説明員の席に座っていた。膝の上に、配布用の資料の束を抱えている。


 三日前の夜から、毎晩、社長室で秀明と資料を読み合わせてきた。榎本が付箋をつけた議事録から、専務が過去に出した質問を三十二拾い、今回の議題にかかわりそうな十四に絞り、一つずつ答えを用意した。秀明はそれを声に出して三回ずつ読んだ。最後の夜、秀明は答えを見ずに十四のうち十一を言えた。


 十一個。三つ、まだ怪しい。在庫の回転率のやつと、営業所の人員のやつと、もう一つ、何だった。


 テーブルの下で、秀明の手がズボンの膝を握っている。


「では、始めます」


 司会の峯岸が言うと、会議室の空気が一段静かになった。


 宍戸は九人の背中を眺めた。この会社を動かしている九人だ。十二年間、宍戸がこの部屋に入るのは、湯呑みを下げに来るときだけだった。今日、宍戸の膝の上には、この九人の会議の筋書きが載っている。




 最初の三十分は筋書きどおりに進んだ。


 秀明が経費の見直しの方針を読み上げ、消耗品の一本化の数字を説明する。峯岸が二つ質問をした。どちらも十四の中にあった。秀明は答えを見ずに答えた。少し早口で声も高かったが、数字は一つも間違えなかった。よし。よし。言えた。膝を握っていた手が少しゆるむ。


 会長は何も言わず、老眼鏡を鼻の先にかけて資料をめくっていた。紙をめくる音が一枚ごとにはっきりと聞こえる。会長の席までは四メートル半。頭の中は届かない。


 峯岸が三つ目の質問をした。


「営業所の統合ですが。十四ある営業所を来年度中に九つにするというお話でしたな。統合で浮いた人員は、どうなさるおつもりで」


 十四の中に、ない質問だった。去年の議事録で峯岸が訊いたのは統合の時期のことで人のことではなかった。


 人員。人員って何だ。考えてない。そこは考えてない。白くなる。白く。


 秀明の口が半分開いたまま止まった。ペンを持った右手が、テーブルの上で動かなくなる。


 会議室の空気がまた一段冷えた。常務が資料に目を落とす。経理の取締役が湯呑みに手を伸ばす。銀行から来た社外取締役が、秀明ではなく、会長のほうを見た。また会長が答えるのか。去年と同じだ。


 会長が老眼鏡を外しかけた。


 宍戸は立ちあがっていた。


 考えるより先に、体が動いていた。会長に答えさせてはいけない。ここで会長が口を開けば、秀明は、また父親の影に戻る。秀明を宍戸の手の中に置いておくには、秀明に、今、ここで答えさせなければならない。


「失礼します。補足の資料を、お配りしてよろしいでしょうか」


 九人の目が一斉に壁ぎわに向いた。峯岸の眉間に細い溝ができる。


「補足?」


「営業所の統合に伴う、物流の見直しの数字です。社長からのご指示でご用意していました」


 そんな指示はなかった。資料は宍戸が念のために自分で作っておいたものだ。統合する五つの営業所の倉庫の面積と在庫と、そこで働く人の数を、一枚の表にまとめてある。


 宍戸は資料を抱えてテーブルの周りを歩いた。会長の前に一部。峯岸の前に一部。常務、取締役たち、社外取締役。最後に秀明の後ろへ回り、肩越しに一部を置きながら、身をかがめて口の中だけで言った。


「倉庫へ配置換えです。解雇はしません。表の、下から三行目」


 秀明の首の後ろが、ぴくりと動いた。


 宍戸は秀明の頭の中の、真っ白になった場所に指を置いた。白の中に、かろうじて残っていた「大丈夫かもしれない」という小さな声を、押す。


 ……下から三行目。倉庫。配置換え。解雇はしない。そうだ、そうだった。これは言える。


 壁ぎわの席に戻るころには、指先から手首まで冷えきっていた。膝の上で左手で右手を包む。鼻の奥がつんとした。


「人員は、統合する営業所の倉庫業務へ配置換えをします。解雇は考えていません。この表の下から三行目をご覧ください。統合後に倉庫の在庫を集約すると、各地の倉庫で人手が足りなくなります。そこへ移ってもらいます。物流の外注費がこれで年間およそ四千二百万円減ります。消耗品の一本化と合わせて六千万円です」


 声はまだ少し高かった。だが止まらなかった。


 会議室が静かになった。さっきの冷えた静けさとは別の静けさだった。社長が数字で答えた。初めてじゃないか。常務が顔を上げる。悪くない、銀行に持って帰れる数字だ。社外取締役が表を指でなぞりながら小さくうなずく。


 宍戸は膝の上の資料に目を落としていた。冷えきった手の中で、心臓が、手のひらにまで響くほど強く打っていた。


 九人が今、宍戸の書いた数字を見ている。宍戸の耳打ちした言葉を、社長の口から聞いている。この会議室の誰も、それを知らない。


 舞台の上で人形の口が動く。糸を引いているのは、客席の暗がりの中の宍戸だった。




 峯岸隆之は表の数字を見下ろしたまま、黙っていた。


 誰だ。社長に、これを仕込んだのは。秀明に、こんな答えが出せるはずがない。三十年、この会社の数字を見てきた。秀明の頭の中に何が入っていて何が入っていないかは、源一郎さんの次に、よく知っている。


 壁ぎわに目をやった。総務の、新しい代理。うつむいて資料を見ている。補足の資料を配ったのはあの男だ。


 ……総務の、あの置物か。


 置物が社長の背中にくっついて、口を動かしている。峯岸は首の後ろがかすかに冷たくなるのを感じた。


「結構です。では次の議題に」




 会議が終わったのは、三時を少し過ぎたころだった。役員たちが一人ずつ部屋を出ていき、宍戸は残った資料を集めてテーブルを回った。


 会長の席の前で手を伸ばしたとき、会長がまだ座っていることに気づいた。老眼鏡を外してテーブルに置いている。宍戸の配った補足の資料が、会長の手の下にあった。


 一メートル。


 『あの総務の男。紙を配るたびに、秀明の口が回る。秀明の後ろを通ったとき、何か言った。口は見えなかった。だが秀明の首が動いた。……総務課の床。榎本。社長室。この男か』


 一本の線が静かに張りつめたまま、宍戸のほうへ伸びてきていた。墨をする音のように、音もなく、それでいて確かに。


「君」


 小柄な体からは思いもよらない、低く乾いた声だった。


「名前は」


「総務課の、宍戸と申します」


「宍戸」


 会長はその名前を、口の中で一度転がすように繰り返した。


 『宍戸。覚えた』


「いい資料だった」


 会長は補足の資料を一部だけ手もとに残し、残りを宍戸のほうへ押しやった。杖もつかずに立ちあがり、会議室を出ていく。足音は絨毯に吸いこまれてほとんど聞こえなかった。


 宍戸は資料の束を胸に抱えたまま、しばらくその場に立っていた。


 覚えた。


 四十四年、この会社を背負ってきた男の頭の中に、宍戸の名前が刻まれた。電気ポットの隣ではなく、一本の線の先に。


 背筋がぞくぞくと震えた。寒さのせいではなかった。




 会議室の外で秀明が待っていた。廊下の真ん中で宍戸の両肩をつかむ。


「宍戸くん。助かった。本当に助かった。あの質問、私は……いや、もういい。助かった」


 声がまだ震えていた。会議室で出せなかったぶんの震えが、今になって出てきたのだ。この男がいなかったら、また親父に答えられてた。役員全員の前で。手放せない。この男は手放せない。


「これからも、私の横にいてくれ」


「お役に立てるなら」


 秀明は宍戸の肩を二度叩いて、社長室へ戻っていった。来たときより足取りが軽い。秘書室の入口で榎本がこちらを見ていた。目が合うと、小さく頭を下げる。


 エレベーターに乗った。扉が閉まると、鼻の下を温かいものが伝った。指で拭うと赤い。ハンカチで押さえた。


 手放せない、と社長は思った。


 そうだろう、と宍戸は思った。手放せないようにしたのは宍戸だ。


 あの男は一生、宍戸の横で震えていればいい。震えているあいだは、役に立つ。役に立たなくなったら、そのときは、そのときだ。


 四階で扉が開いた。ハンカチをポケットにしまい、宍戸は総務課の島へ歩いていった。


 六階の専務室の扉が、そのとき閉まったことを、宍戸は知らなかった。




 峯岸隆之は、専務室の扉の鍵をかけた。


 窓際の机に戻り、引き出しの奥から、古い型の携帯電話を出した。会社の電話は使わない。三年前から、あの連中と話すときは、いつもこれだった。


 短縮の一番を押した。


 呼び出し音が二回鳴って、相手が出た。


「峯岸です。……ええ。今月の分は、いつもどおりに」


 受話器の向こうで、低い声が何か言った。テレビの音がしていた。


「それと、一つ。うちの総務に、宍戸という男がいる。課長代理になったばかりの、三十四の男だ。……調べてもらえるか。どこに住んでいて、誰と会っているか」


 受話器の向こうの声が、少しだけ笑った。


「……ほう。そちらにも、もう電話を。下の名前まで」


 峯岸の指が、携帯電話を握りなおした。


 あの置物が。自分から、湊浜に。


「恭司、だそうですよ。専務さん」


 電話の向こうの男は、楽しそうにそう言った。


 峯岸は返事をせずに電話を切った。


 窓の外の神田のビルのあいだに、十月の午後の光が斜めに差していた。峯岸は、その光の中で、自分の指先が冷えているのに気づいた。


 三十年、この会社の数字を見てきた。数字の裏に人がいることも、知っている。


 だが、あの置物の裏に何がいるのかは、まだ、わからなかった。




第15話 了

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