第16話 「総務の置物が、社長室長になった」
朝の九時、総務課の前の廊下の掲示板に、人事の紙が一枚貼りだされた。
『総務の置物が、社長室長?』
掲示板の前に立った誰かの声が、廊下の向こうまで届いてきた。
役員会から一週間後の月曜。四階のエレベーターホールの横の掲示板に、辞令が一枚貼り出された。社長室を新設する。社長室長に、総務課長代理・宍戸恭司を充てる。
掲示板の前には、朝から人だかりができていた。コーヒーの紙コップを持った営業部員、書類を抱えた経理の女性、倉庫から上がってきた作業着の男。全員が同じ紙を見上げて同じことを考えている。誰? 宍戸って、あの総務の? 社長のお気に入りらしいよ、役員会で何かやったって。何かって何を。
宍戸は掲示板の前を通らずに、階段で四階へ上がった。
階段の踊り場で一度立ち止まり、上から聞こえてくる声の波に、しばらく耳を澄ませた。誰。あの総務の。何をやった。十二年間、この会社で宍戸の名前がこれほど多くの頭の中に同時に浮かんだことはなかった。三人に一人しか覚えていなかった名前を、今朝は全員が口の中で転がしている。
踊り場の窓ガラスに映った男は、いつもと同じ紺のスーツを着ていた。違うのは男が笑っていることだけだった。
総務課の島に入ると、空気が一瞬止まった。キーボードの音がぴたりとやみ、それからばらばらに再開する。来た。社長室長様だ。
「宍戸さん、おめでとうございます! すごいですね、社長室って」
安達が椅子から半分立ちあがっていた。……でも、じゃあ総務課は誰が見るの? まさか香坂さん?
「ありがとうございます。総務課は当面、小田切部長が直接見てくださるそうです」
「そうなんですか」
よかった、香坂さんじゃなくて。
島の端で、香坂がモニターから目を離さずに、マウスを何度もクリックしていた。カチ、カチ、という音だけがやけに大きい。社長室長、ふざけんな。俺が総務課長代理になるはずだったのに、その上を飛び越えて。社長に取り入ったんだ。何か汚い手を使ったに決まってる。
汚い手。
宍戸は香坂の頭の中のその言葉を、少しおかしく思った。香坂が想像できるどんな汚い手よりも、宍戸のやったことは静かで深かった。それを、香坂は一生知ることがない。知ることのない男が、カチ、カチと、マウスに八つ当たりをしている。
社長室は六階の秘書室の隣の空き部屋を使うことになった。もとは来客用の小さな応接室で、窓が一つと、壁に古い風景画が一枚。机が三つ運びこまれた。宍戸の机と、社長室付きの事務を兼ねる榎本の机と、まだ誰も座らない机がもう一つ。
引っ越しは午前中に終わった。台車を押して四階と六階を二往復しただけだった。十二年いた島から持ち出すものが、台車一台に収まった。ボールペンが三本、電卓、湊浜環境サービスの綴りを入れた鍵つきの書類箱、ミルク飴の袋。空になった総務課の机の引き出しには、輪ゴムが一本と、乾いた飴の包み紙が一枚だけ残っていた。
十二年が台車一台。
軽すぎて笑えた。これから積み上げるものの重さに比べれば、何もないのと同じだった。
「社長室長、お茶です」
榎本が新しい机の上に湯気の立つマグカップを置いた。
「宍戸でいいですよ」
「いいえ。肩書きで呼ばないと、ほかの人が呼んでくれません」
この人の名前の前に、肩書きをつける。それが今の私の仕事。
榎本の頭の中は喫茶店のときよりずっと静かだった。怖さはまだ底に沈んでいる。その上に水がきれいに張っていて、波が立っていない。ほうじ茶の香ばしいにおいが、まだ新しい部屋のよそよそしい空気を少しだけやわらげた。
社長室長の仕事は、はっきり決まっていなかった。辞令にも、中身は一行も書かれていない。秀明が言ったのは、私の横にいて、私が困らないようにしてくれ、ということだけだった。
決まっていない仕事は、決めた人間のものになる。
その日の午後、宍戸は社長の来客に三件同席し、社長が目を通す書類を五十枚先に読んで印をつけた。社長が電話で取引先と話すときは横に座り、社長の頭の中の迷いを聞いた。迷いが大きくなると、紙に一行だけ書いて、社長の前に滑らせる。来月まで待つ、と言ってください。値段の話は先方から出るまで待つ。
秀明は紙を読み、そのとおりに言った。受話器を置くたびに宍戸を見て口の端を持ち上げた。楽だ。こんなに楽だったのか。
社長の口から、宍戸の言葉が出ていく。社長の声で、宍戸の考えが、取引先の耳に届いていく。それを聞くたびに、宍戸の喉の奥がひくりと鳴った。笑いをこらえる音だった。
夕方には、指が冷えきっていた。読むだけなら、物を動かすほどは冷えない。だが八時間続けると話が違う。足の先まで冷たく、靴の中で指を動かしても、自分の指のような気がしなかった。ミルク飴の袋は午後だけで半分になった。
夜の七時半、エレベーターを待っていると、背中から声をかけられた。
「宍戸」
野々村だった。外回りから戻ったばかりらしく、ワイシャツの袖を肘までまくり上げている。日に焼けた腕に、腕時計の跡が白く残っていた。
「社長室長だってな。見たぞ、掲示板。……すげえじゃん。すげえけどさ。ちょっと、いいか。下で」
ビルの裏口を出た路地の、自販機の横に立った。どこかの換気口から、カレーのにおいが流れてくる。野々村は缶コーヒーを二本買い、一本を宍戸に渡した。微糖、と缶に書いてあった。
「お前、最近おかしいぞ」
プルタブを起こしながら、野々村が言った。言っちまった。でも、言わないと。
「蛭田が辞めて、お前が課長代理になって一週間で今度は社長室長。役員会で、お前が社長の後ろで何か耳打ちしてたって、常務の秘書が言ってたらしい」
「資料を配っただけだよ」
「それだけじゃねえだろ。……お前、目が違うんだよ、最近。俺のこと見るとき、奥まで覗かれてる感じがする。冷蔵庫の中を、懐中電灯で照らされてるみたいな」
宍戸の指先が缶の冷たさとは別の理由ですっと冷えた。
焼き鳥屋で、宍戸は、まさにそうやって野々村の頭の中を覗いた。野々村はそれを言葉にできないまま、体のどこかで感じ取っている。
危ない、と思った。
同時に、別の考えが、もっと速く浮かんだ。この男は宍戸のことをよく見すぎている。会社でただ一人、昔の宍戸と今の宍戸の違いを、はっきり嗅ぎ分けている。
何かあったのか。言ってくれれば、俺は。
「何もないよ」
宍戸はプルタブを起こした。ぷしゅ、と小さな音がした。
「たまたま運がよかっただけだ。蛭田さんがいなくなって席が空いて、社長がそこを見てくれた。ほかには何もないよ」
野々村は宍戸の目をじっと見た。宍戸は目をそらさなかった。今度は覗かない。表面の声だけを聞く。
……嘘だ。こいつ、嘘をつくとき、目をそらさねえんだ。新人のころから。棚卸しの数字を間違えたとき、俺をかばって、自分が数え間違えたって課長に言ったときも、こうやって真っすぐ見てた。
宍戸はまばたきをしなかった。
この男は宍戸の嘘の癖まで知っている。十二年間で、宍戸の嘘を見抜けるのはこの男だけだった。
「わかった。もう訊かねえ」
訊かねえけど、見てるからな。
空き缶がゴミ箱の縁に当たって、からん、と跳ねてから穴へ落ちた。
「じゃあな、社長室長」
野々村は片手を上げて路地の先へ歩いていった。ワイシャツが背中に汗で貼りついていた。
宍戸は手の中の缶コーヒーを見下ろした。微糖。甘さが足りない。一口だけ飲んで、ポケットのミルク飴を口に入れる。
野々村は見ている。会長も、見ている。
十二年間、誰にも見られていなかった男を、今は二人が見ている。会長は上から、野々村は昔から。
見られるのは悪くなかった。ただ、見られすぎるのは困る。
十二年、宍戸を本気で心配してくれたのは、この男だけだった。わかっている。わかっていて、宍戸の頭の中では、もう、野々村の名前の横に小さな印がついていた。いつか邪魔になるかもしれない者の印だった。
飲みかけの缶を自販機の上に置いた。缶の底が金属の天板に触れてこつりと鳴る。宍戸はその音を聞きながら、二人のうち、先に目をふさぐならどちらが手早いかを、ぼんやりと量っていた。
第16話 了
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