第17話 「会長の頭の中だけは、静かだった」
会長室の前の廊下には、誰もいなかった。宍戸は扉の前で、一度だけネクタイの結び目に指をかけた。
『来たか』
会長室の扉の向こうからは、その短い一言のあと、何も聞こえてこなかった。
社長室長になって三日目の朝だった。榎本の机の電話が鳴り、受話器を置いた榎本がこちらを向いた。
「会長が、お呼びです」
会長が社員を名指しで呼ぶのは珍しい。部長以上しか呼ばない人なのに。
宍戸は上着を羽織り、ネクタイの結び目に指をかけた。廊下の突き当たりの会長室まで二十歩。観葉植物の鉢の前を通るとき、土がしっとりと湿っているのが目に入った。あとで榎本に聞くと、水をやっているのは会長自身だという。週に二度、出社した朝に、給湯室で湯呑みに水を汲み、自分で鉢まで運ぶ。七十二歳の創業者が腰をかがめて植木に水をやる姿を、見たことのある社員はほとんどいない。
二十歩のあいだに、宍戸の心臓は少しずつ速くなっていった。
怖いのか、と自分に訊いた。違った。これは待ちきれないときの速さだ。この会社の、一番奥の部屋の扉が、向こうから開こうとしている。
扉を二度叩いた。
「入りなさい」
会長室は社長室より狭かった。窓は一つでブラインドが下りている。壁ぎわの本棚には、古い帳簿のような背表紙の分厚いファイルが年号順に並んでいた。木の机は角がすり減って丸くなり、その上に硯と筆が一本、湯呑みが一つ。墨のにおいがかすかにする。硯の横の半紙に、乾ききっていない墨で「量」と一字だけ書いてあった。筆の勢いが紙の端まで飛んでいる。
伊庭源一郎はその机の向こうにいた。小柄な体を灰色のスーツが包み、短く刈りこんだ白髪の下で、耳の上の地肌がうっすら透けている。老眼鏡は机の端に外してあった。
椅子はすすめられなかった。宍戸は机の前に立った。
「宍戸恭司。総務課に十二年。大学を出て入社。出身は栃木。父親は亡くなっていて、母親は郷里で一人暮らし。……間違いはあるか」
会長は手もとの紙を読んでいなかった。目は宍戸の顔の上から動かない。
「ございません」
机まで一メートル半。宍戸は会長の頭の中に耳を寄せた。
背筋は普通。手は体の横。指は動かない。目は私の目を見ている。逸らさない。十二年間、誰の印象にも残らなかった男が、三週間で社長室長。蛭田が崩れ、秀明が変わった。役員会で秀明が初めて数字で答えた。偶然が三つ。三つ重なれば、偶然ではない。
一本の線だった。ざわざわした独り言の波が一つもない。考えが一本ずつ真っすぐ並んで先へ伸びていく。整然とした倉庫の棚のように、どこに何があるかが全部決まっている。
蛭田の頭の中は濁った排水溝だった。秀明は強風の中の竿。榎本は底の見える井戸。野々村は扉を開け放した家。
会長の頭の中は鍵のかかった蔵だった。中はきれいに片づいていて、入口は一つしかない。
欲しい、と宍戸は思った。
その蔵の中身が。四十四年かけて、この老人が積み上げてきたものが。会社が。
「秀明を、助けてくれているそうだな」
「お役に立てていれば、ありがたいです」
「立っている。あれはこの一か月で変わった」
変わりすぎた。人は一か月であんなに変わらない。誰かが横から糸を引いている。
「礼を言っておく」
「恐れ入ります」
会長は湯呑みを取って一口飲んだ。湯呑みを机に戻すまで、目は宍戸から一度も離れない。
「宍戸」
宍戸は背筋を伸ばした。
「秀明は、私の一人息子だ。あれは気が小さい。見栄を張る。数字に弱い。人の顔色ばかり見る。……全部、私のせいだ。私があれの前で強すぎた」
枯れ葉を指でこすり合わせるような、乾いた声だった。
この男はどう答える。
口では息子の話をしながら、頭の中では宍戸を量っている。どう答えるかで、宍戸という男の重さを測ろうとしている。宍戸はもう一段下を覗いた。会長と目が合ったまま、三秒。
秀明に会社は渡さない、渡せば三年で潰れる。峯岸にも渡さない、あれは湊浜の連中に首根っこを押さえられている。では誰に渡す。私が死んだら、誰に。……この男はどうだ。
宍戸はそこで覗くのをやめた。
蔵の扉の奥へもう一歩踏みこめば、何かに触れそうな気がした。目を合わせている時間が長くなれば、この老人は、それにさえ意味を見つけるだろう。
指先が冷えていた。一本の線に耳を当てているだけで、氷の柱に手のひらを押しつけているような冷たさが、指から手首へ這い上がってくる。
それでも、口の中に唾が湧いていた。
この男は宍戸に会社を渡すかどうかを、今、考えている。十二年間、湯呑みを下げに来るだけだった総務の男に。
「社長は、優しい方です。優しい方は決めるのに時間がかかります。私は時間を短くするお手伝いをしているだけです」
会長はしばらく黙っていた。ブラインドの隙間からの光が硯に細い線を落とし、墨の表面が鈍く光っている。
うまい答えだ。……うますぎる。
「そうか」
会長は老眼鏡をかけ、机の上の紙に目を落とした。
「下がっていい」
頭を下げ、扉へ向かう。ドアノブに手をかけたとき、背中から声が来た。
「宍戸」
振り向くと、会長は紙から目を上げていなかった。
「来週の木曜、昼を一緒にどうだ。神田に、古い蕎麦屋がある」
もう少し、近くで見る。
「喜んで」
扉が閉まる音を聞きながら、源一郎は筆を硯に置いた。
喜んでとあの男は言った。声に、ためらいがなかった。七十二の会長に昼を誘われて、総務から上がったばかりの男が、少しの怯えも見せずに、喜んでと。
半紙の「量」の字に、目を落とす。四十四年、人を量ってきた。量れなかった人間は、一人もいない。
あの男の重さだけが、どこにも引っかからなかった。秤に載せたはずなのに、針が動かない。
源一郎は湯呑みの冷めた茶を一口飲んで、それが苦いことに、今さら気づいた。
廊下に出ると、膝から力が抜けそうになった。
観葉植物の鉢の横の壁に、手をつく。冷えた手のひらに、壁紙が妙に温かく感じられた。廊下の向こうで秘書室の電話が鳴り、呼び出し音が四回、五回と続くあいだ、宍戸は壁から手を離せなかった。
十分足らずだった。それなのに、体じゅうの熱をあの部屋に置いてきた気がする。指先は白く、爪の色が薄い紫に変わっていた。
ポケットのミルク飴を二つ取り出し、一つ目の包みを開けようとして、指がうまく動かずに落とした。飴が絨毯の上を小さく転がっていく。止まって、ゆっくりと宍戸の靴の先まで戻ってきた。それだけで、手首まで来ていた冷えが肘まで上がった。
拾って二つまとめて口に入れる。飴が歯に当たってかちりと鳴った。
壁に手をついたまま、宍戸は笑っていた。
膝が震えていた。指も唇も冷えきっていた。それでも、腹の底から湧いてくるものが止まらなかった。蛭田も秀明も峯岸も、宍戸の前では、開いた本だった。会長だけが扉に鍵をかけていた。
鍵のかかった扉ほど、開けたくなるものはない。
社長室に戻ると、榎本が顔を上げた。キーボードの上で指が止まり、マグカップの湯気だけが窓の光の中をのぼっていく。
「会長は、何と」
「来週、蕎麦をごちそうしてくださるそうです」
会長が社員と二人で食事。私が知る限り、一度もない。この人、会長にまで。……それとも、会長が、この人を。
宍戸は自分の机に座り、来週の予定表を広げた。木曜の昼の欄は空いている。ボールペンを持ったまま、その欄を見つめた。
書けば、誰かに読まれる。この部屋には、字の読める人間が二人いる。
宍戸はボールペンを置き、何も書かれていない欄の上に、指を一本、そっと置いた。
第17話 了
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