第33話 「ヤクザの下っ端が、ナイフを抜いた」
午後四時、社長室の内線が鳴った。社長に面会の方が、ロビーでお待ちです、と受付の声が言った。
『しくじったら、木場さんに殴られる。しくじったら』
ロビーのソファに座っている若い男の頭の中は、その一行でぱんぱんに膨らんでいた。
一月二十八日、水曜の朝九時半。一階の受付から榎本に内線が入り、受話器を置いた榎本の眉間に、細い縦じわが一本できていた。
「一階に、湊浜環境サービスの方が。社長に会わせろと、受付で大きな声を出しているそうです」
来た。本当に来た。警察に電話したほうが。社長は刑事さんの名刺を持ってたはず。
「私が行きます」
「社長。……警察に」
「必要になったら、呼びます」
宍戸は上着を羽織り、ポケットの角砂糖の数を指で確かめた。
警察は呼ばない。兵頭に電話をすれば、あの男がここへ来る。読めない男の目の前で、宍戸は、何もできなくなる。それに、と宍戸は思った。せっかく向こうから来てくれた獲物を、警察に渡す理由がない。
エレベーターの扉が開くと、ロビーの空気がいつもと違っていた。
受付の女性二人がカウンターの奥で身を固くし、出勤してきた社員たちがロビーの端を足早に通りすぎていく。誰もソファのほうを見ない。
来客用の黒いソファに、男が一人、足を大きく開いて座っていた。二十代の半ば。髪を金色に脱色して毛先を立て、痩せた体に黒いジャージの上下、白いスニーカー。首に太い金の鎖をかけている。肘掛けに片肘をつき、もう片方の手でスマホの画面を親指で叩いていた。
テツ。湊浜の自販機の前で聞いた名前だった。
宍戸が近づくと、男は顔を上げた。細くて鋭い目。頬に、にきびの跡がいくつか残っている。
「あんたが、社長?」
「宍戸です」
男はスマホをポケットにしまって立ちあがった。宍戸より頭半分ほど背が低い。それでも肩をいからせ、顎を上げて下から睨みつけてきた。
「湊浜環境サービスの、鮫島っす。……ちょっと、話あるんすけど」
でけえ声出せ。舐められたら終わりだ。こいつ、なんか、ひょろいな。楽勝か。
ひょろいリーマン。十二年間、誰もがそう思ってきた。宍戸はその声を聞いても少しも腹が立たなかった。むしろ、ありがたかった。その見た目が今は、宍戸の一番の武器だった。
「ここでは、ほかの社員の目もあります。外でお話を伺えますか」
「は? なんで外なんだよ。ここでいいだろ」
鮫島の声がロビーに響き、受付の女性の一人が肩を震わせた。社長、外に連れてく気? 危ない。誰か、警備の人を。
宍戸は鮫島の目を見た。三秒。
木場さんに言われた。社長を外に連れ出せって。人のいねえとこでちょっとビビらせろって。外のほうがいいのか。……こいつから言い出した。ラッキーじゃん。ナイフはジャージのポケット。出すなって言われてる。見せるだけ。母ちゃん、今月の入院費、まだ払えてねえ。これうまくいったら、木場さんから三万もらえる。
目をそらした。
母親の入院費。三万円。
二十四歳の男が人を脅しに来る理由が、三万円だった。
入社した年、宍戸は母に仕送りをするために三か月昼飯を抜いた。休みの日の倉庫の棚卸しを頼まれて断れなかった。断れば査定が下がり、査定が下がれば仕送りが減る。この男の頭の中は、あのころの宍戸の頭の中に、少しだけ似ていた。
似ている、と思ったところで宍戸は考えるのをやめた。似ているから何かをしてやろう、という気には、ならなかった。金のいる人間は金で動く。三万円で動く男なら、五万円でもっとよく動く。
「……まあ、いいっすよ。外で」
鮫島はジャージのポケットに両手を突っこんで、自動ドアのほうへ歩きだした。
ビルの裏口を出ると、細い路地だった。自販機が一台と、ゴミ置き場と、エアコンの室外機。秋の夜、野々村と缶コーヒーを飲んだ場所だった。路地の奥は隣のビルの壁で行き止まりになっている。一月の朝の空気が、肌を刺すように冷たかった。室外機のファンが、低く唸っている。
鮫島は路地の奥まで歩いて、振り向いた。
「あんたさあ」
さっきより低い声だった。ロビーの声は受付に聞かせるための声で、今は、宍戸ひとりに聞かせるための声だ。
「年末から、うちへの支払い止めてんだろ。どういうつもり?」
「契約を、終了させていただきました。十二月の末で」
「終了?」
鮫島が一歩近づいた。
「終了とか、ねえんだよ。うちとの付き合いは。三年前から、そういう話になってんの。あんたんとこの前の専務と」
「前の会長も専務も、その話はご存じないそうです」
「知らねえとか、知るかよ」
もう一歩。鮫島の息が白く、宍戸の顔の前で広がった。煙草と、朝に食べたらしいカップ麺のにおいがする。こいつ、なんでビビらねえんだ。普通、ここで後ずさるだろ。もっと近づけ。もっと。
「三年前、おたくの営業所の車、燃えたの知ってる? 三台。あれ、また燃えるかもな。今度は車じゃねえかもしんないけど。倉庫とか。……社長さんちとか」
鮫島がジャージのポケットから右手を出した。手の中に、折りたたみのナイフ。刃はまだ閉じている。黒い柄を、宍戸に見せるように、指でくるりと回した。
見せるだけ。見せるだけ。頼む、ビビってくれ。
宍戸はナイフを見た。それから、鮫島の目を見た。
怖くなかった。宍戸には、この男がナイフを開くつもりがないことが、全部聞こえていた。見せるだけ。頼む。ビビってくれ。脅しに来た男のほうが、宍戸に頼みこんでいる。
口の端がほんの少しだけ動きそうになった。
鮫島の頭の中で何かがぐらりと揺れた。宍戸の目が少しも揺れないことに、鮫島は気づいていた。なんだ、こいつ。なんでナイフ見てなんも変わんねえんだ。
鮫島の左手が宍戸のネクタイをつかんだ。ぐいと引き寄せる。宍戸の体が前に傾き、ワイシャツの襟が首の後ろに食いこんだ。
「聞いてんのかよ!」
目の前に、鮫島の顔があった。にきびの跡。乾いて切れた唇。細い目の奥で、黒い瞳が小刻みに揺れている。怖え。こいつ、怖え。なんでだ。
宍戸はネクタイをつかんでいる鮫島の左手首を、右手で握った。
細い手首だった。骨の形が指にはっきり伝わってくる。脈がどくどくと速く打っていた。
この手首で、人を脅して三万円。
宍戸の中で、何かが、小さく笑った。哀れんだのではなかった。この程度の重さなら、自分の手のひらで楽に握りつぶせる、という手ごたえだった。十二年間、宍戸の手が握ってきたのは、ボールペンと伝票の束だけだった。
そのとき、宍戸の中で何かが開いた。
今までのどれとも違う感覚だった。頭の中を聞くときは、耳を寄せる。気持ちを大きくするときは、指を置いて押す。どちらも、相手の中にあるものに触れるだけだった。
今は違った。
宍戸の手のひらから、鮫島の手首へ、何かが流れこもうとしていた。冷たくて、重くて黒いもの。インクの瓶を倒したときのように、手のひらの真ん中から、じわりと広がっていく。
鮫島の中には、もともと怖さがあった。だが宍戸が流しこもうとしているのは、鮫島の怖さではなかった。宍戸自身の中から出てくる、まったく新しい、一粒の何かだった。
指先が凍った。手首から肘へ、肘から肩へ、冷たさが今までにない速さで這い上がってくる。鼻の奥がつんと鳴った。
それでも、宍戸は、手を離さなかった。離したくなかった。手のひらの中で、まだ名前のない何かが、生まれようとしている。それが何なのかを、最後まで見届けたかった。
鮫島の手から、ナイフが落ちた。アスファルトの上で、かしゃん、と乾いた音がした。
宍戸は鮫島の手首を握ったまま、その音を聞いた。
第33話 了
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