第32話 「九百万円の行き先は、湊浜の港だった」
湊浜駅の改札を出ると、潮の匂いのする風が吹いてきた。
『社長が、湊浜に? 何しに来るんだ、わざわざ』
湊浜営業所の所長の頭の中は、宍戸を出迎えたときから、ずっとそれを考えていた。
一月二十日、火曜。湊浜は東京から電車で一時間ほどの港の町だった。駅を出ると、潮のにおいとどこかの工場の油のにおいが、冷たい風に混ざって吹きつけてくる。駅前のロータリーにタクシーが三台と、魚の絵が描かれた観光案内の看板。空が広く、低い雲が海のほうへ流れていた。
伊庭興産の湊浜営業所は、駅から車で十分の、港の倉庫街の中にある。
「社長、ようこそ。こんなところまで」
所長は五十代の太った男で、作業着の上にネクタイを締め、何度も頭を下げた。この前まで総務の主任だった男が社長。何がどうなってるんだ。それより統合の話だ。湊浜は残るのか、残らないのか。
「営業所の統合の件で、一度現場を見ておきたくて参りました」
倉庫を一時間かけて見て回った。梱包資材の段ボールが天井近くまで積まれ、フォークリフトが低い音を立てて通路を行き来している。床のコンクリートが、足の裏から冷えを伝えてきた。
所長の頭の中には、湊浜環境サービスの名前は一度も浮かばなかった。この男は何も知らない。知らないまま、三年間、同じ町で、自分の会社の金が組に流れていくのを眺めていたのだ。
「港のほうを、少し歩いてきます。車は要りません」
湊浜環境サービスの事務所は、倉庫街から歩いて十五分の、埠頭の近くにあった。
二階建てのプレハブだった。外壁の白いトタンが潮風で赤く錆び、窓には全部ブラインドが下りている。入口の横に会社の名前を書いた小さな看板が一枚。その隣に防犯カメラが二台、入口と道路を向いていた。前の駐車場に、窓ガラスが真っ黒な大きな車が二台。産業廃棄物を運ぶトラックは、一台もない。
宍戸は道路の反対側をゆっくり歩いた。事務所の入口まで道幅を入れて十メートル。何も聞こえない。
道路の先に自販機があった。缶のココアを一本買ってその場でプルタブを起こす。自販機から事務所の入口まで斜めに八メートル。
しばらく、そこで待った。
潮風が頬を刺した。手袋のない指が缶の熱で少しだけ温まる。宍戸は自分の心臓が、いつもよりゆっくり、重く打っているのに気づいていた。
あのプレハブの中に、三年間、会社の金を吸ってきた連中がいる。車を燃やす連中がいる。電話口で、宍戸の下の名前を訊いてきた男がいる。その連中の、ほんの数メートル先で宍戸はココアを飲んでいる。誰にも気づかれずに。
十分ほどして事務所の扉が開いた。若い男が二人出てくる。一人は髪の両側を短く刈りあげて黒いダウンジャケット、もう一人は坊主頭で首に金の鎖。二人とも煙草をくわえ、火をつけながら黒い車のほうへ歩いてくる。車は自販機の側の歩道に寄せて停めてあった。距離が縮まる。五メートル。四メートル。
三メートル。
あー、だりい。また兄貴の使いかよ。伊庭の金、止まったってマジ? 年末から一銭も入ってねえって。財前さん、キレてたな。来週あたり、誰か行かせるって。誰が行くんだ、俺はやだぞ、東京の会社とか。テツでいいだろ。あいつ、木場さんの言うことなら何でも聞くし。
宍戸は缶を、ゆっくり口に運んだ。
二人は自販機の前の宍戸を、ちらりと見ただけだった。スーツを着た印象に残らない男が、港でココアを飲んでいる。二人の頭の中に、宍戸のことは一秒も残らなかった。昼、何食う。ラーメン。
二人が黒い車に乗りこむ。エンジンがかかり、車は低い唸りを立てて走り去った。排気ガスのにおいが、潮風に混ざってすぐに消える。
宍戸はココアを飲みきって空き缶を回収箱に入れた。
財前。木場。テツ。
知らない名前が三つ増えた。
湊浜の連中は私よりずっと怖いぞ。目白の座敷で聞いた会長の最後の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
怖いか、と自分に訊いた。
怖さがあるはずの場所には、潮風の冷たさがあるだけだった。代わりに、もっとはっきりしたものがあった。知らない名前が三つ増えたことが、宍戸には、嬉しかった。総務課の机に、まだ片づけていない伝票の束が新しく三つ届いたときのように。いや、それよりずっと強く。
会社の中の人間は、もう全部読んだ。読み終わった本を、宍戸は何度も読み返す気はなかった。ここには、まだ読んでいない頁が山ほどある。それも、血のにおいのする頁が。
自販機のガラスに、自分が映っていた。紺のコート。ほんの少し上がった口の端。宍戸はそのガラスの中の男に、またな、と心の中で言ってから駅のほうへ歩きだした。
東京に戻ったのは夕方の六時過ぎだった。宍戸はまっすぐ六階の専務室へ行った。
峯岸が書類から顔を上げた。年が明けて少し痩せ、灰色の髪の撫でつけ方が前より雑になっている。
「湊浜に、行ってきました」
峯岸の手からペンが落ちた。机の上を転がって床に落ちる。行った? 湊浜に? 自分で?
「財前、という人を、ご存じですか」
峯岸はしばらく宍戸を見ていた。それから、床のペンを拾いもせずに、椅子の背にもたれた。
「……黒沼組の、若頭だ。三年前、最初に会社に来たのが、あの男だ。倉庫の土地のことで話がしたいと。組長の黒沼はもう六十を過ぎていて、表には出てこない。組を実際に動かしているのは財前だ」
四十五か、六か。体が大きい。目が笑わない。会ったのは三回だけだ。三回とも、殺されると思った。
「黒沼組は、どのくらいの大きさですか」
「六十人、と聞いた。……上に、竜政会という、関東の大きな組織がある。黒沼組はその孫請けのようなものだ」
峯岸は引き出しから煙草の箱を出し、一本抜いて、火はつけずに指のあいだで転がした。社内は禁煙だった。
「社長。支払いを止めたのはまずい」
峯岸が宍戸を社長と呼んだのは初めてだった。
「あの連中は、金が止まったら必ず来る。最初は若いのが脅しに来る。それで払わなければ」
「次は、もう少し上の人間が来る」
兵頭の言葉を、宍戸はそのまま繰り返した。峯岸の指のあいだで煙草が止まった。
「……知ってるのか」
「伺いました。警察の方から」
峯岸の顔から血の気が引いた。警察。警察がもうここに。俺の口座のことも、もう。
宍戸は峯岸の膨らみかけた怖さに、指を置かなかった。峯岸はもう怯えきっている。これ以上押せば、首輪をつけた犬が鎖を引きちぎって逃げ出す。
「専務の口座のことは、警察には出ていません。これからも出しません」
峯岸は何も言わずに、煙草を箱に戻し、箱を引き出しに戻した。引き出しを閉める手が、少し震えていた。
「専務。黒沼組の人が来たら、私に回してください。専務は何も知らないことにしておいてください」
この男は何をする気だ。六十人の組を相手に、総務の主任上がりが一人で。
宍戸はその声を背中で聞きながら専務室を出た。
六十人の組を相手に、一人で。そうだ。だから面白い。
廊下の窓の外はもう真っ暗だった。ガラスに映った自分のネクタイの結び目が、ひとりでに、すっと上へ締まった。
社長室に戻ると、榎本が机の上に白い小皿を置いて待っていた。角砂糖が五つ。いつもより二つ多かった。湊浜から帰ってきてから指が白い。……疲れてる。
宍戸は一つ目を口に入れた。窓の外の神田の灯りを見ながら、来週あたり来るという、テツという男のことを考えた。木場の言うことなら、何でも聞く男。
なら、今度は、宍戸の言うことを何でも聞く男にすればいい。
第32話 了
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