第31話 「刑事は、俺の砂糖の数まで知っていた」
コーヒーカップの縁から、湯気がまっすぐに立っていた。
『……砂……三つ……』
ざらついた雑音の奥から、それだけが浮かんですぐに消えた。喫茶店の向かいの席に座った男の頭の中は、年が明けても、やはり切れ端しか聞こえてこなかった。
一月十四日、水曜の午後四時。神田駅東口の、ガラス張りの明るい喫茶店だった。窓ぎわの二人がけの席で、兵頭幹夫はコーヒーに砂糖を三つ入れ、スプーンでゆっくりかき回していた。暖房と焦げたトーストのにおいの中で、カウンターの奥のラジオが小さく天気予報を流している。
兵頭が会社に来たのは、年が明けてこれで三度目だった。一度目は仕事始めの五日で、新年のご挨拶に、と菓子折りを一つ置いていった。二度目は九日で、湊浜環境サービスとの取引を止めたかどうかを訊いて、十分で帰った。三度目の今日は受付で宍戸を待っていて、外で話しませんか、と言った。
「源一郎さん、まだお話はできないそうですね。先週、病院に行ってきました。……右手で何か書こうとしてらした。ペンを持たせてもらって、紙の上でずっと手を動かして。でも、線にならなかった」
兵頭がスプーンをソーサーに置いた。宍戸は自分のコーヒーカップに目を落とす。ブラックの表面に、天井の照明が小さく映っていた。
兵頭の頭の中は雑音の向こうにある。聞こえるのはコーヒーが熱いとか、ラジオがうるさいとか、そういう切れ端だけだ。
だから、宍戸は兵頭の顔を見ることにした。
この二週間、宍戸は練習をしていた。社長室で榎本と話すとき、役員と打ち合わせをするとき、相手の頭の中を聞く前に、まず顔と手を見る。眉がどう動いたか。口の端がどちらへ寄ったか。指が何をしているか。そこから相手の考えを当て、それから頭の中を聞いて答え合わせをする。
最初の一週間は半分も当たらなかった。十二年間、宍戸は上司の機嫌を確かめるためにしか人の顔を見てこなかった。怒っているか、いないか。それだけだ。力を手に入れてからは、顔を見ることさえやめていた。頭の中が聞こえれば、顔など要らなかった。
兵頭はその宍戸を、十二年前の総務課の島に引き戻した。目隠しをされて、知らない部屋に立たされたような気がした。
腹立たしかった。そして、腹立たしさの下で、宍戸は、ひどく興奮していた。十二年ぶりに、相手の考えを、自分の目と頭だけで当てなければならない。負けるかもしれない勝負が、目の前に置かれている。
兵頭の右手の人差し指が、テーブルの縁を、とん、とんと二回叩いて、止まった。何かを言う前の癖か。それとも、ただの癖か。
「宍戸さん。湊浜環境サービスへの支払い、止めたそうですね」
「十二月で契約を終えました。社長になって最初にやったことです」
「……向こうは、何か言ってきましたか」
「いいえ、まだ」
兵頭の口の端がほんの少し下がった。宍戸はそれを見た。心配しているのか。何か知っているのか。
「まだ、ですか」
兵頭はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻した。かちり、と鳴る。
「黒沼組は、金の流れが止まると、まず一番下の若いのを寄こします。ちょっと凄んで、ちょっと大きな声を出して帰っていく。それで払わなければ、次は、もう少し上の人間が来る。それでも払わなければ」
兵頭はそこで言葉を切り、窓の外を見た。駅前の交差点を、コートを着た人たちが白い息を吐きながら渡っていく。
「三年前、伊庭興産の営業所の車が三台燃えたそうですね。配線の事故だと消防は判断した。私はそうは思っていません」
灰色がかった小さな目が、まばたきをせずに、宍戸に戻ってきた。
宍戸はその目を見返した。見返しながら、無意識に、目の奥へ耳を寄せていた。
ざあっ、と雑音がふくらむ。『……燃え……』『……三……』。切れ端が二つ、砂嵐の中をよぎって消えた。三年前の三台の車のことを考えているのか。まったく別のことか。続きは少しも聞こえない。
指先がまた少し冷えた。肝心なことは何も読めないのに、力だけが雑音の中で空回りする。テーブルの下で、宍戸は手のひらを膝に押しつけた。
「宍戸さん。さっきから、ずっと、私の目を見てますね」
目をそらさなかった。そらせば、それが答えになる。
「お話を伺っていますから」
「そうですね」
兵頭の口の端が今度は少しだけ上がった。
「私も、人の目を見て話すたちでね。……でも、宍戸さんみたいに、こっちの奥まで覗きこむように見てくる人は珍しい。普通の人は刑事と話すとき、目をそらすんです。悪いことをしていなくても」
ラジオの天気予報が終わって古い歌謡曲が流れはじめた。カウンターの奥で、店主がトーストの耳を切る音がする。
宍戸はゆっくりとコーヒーカップに目を落とした。
「十二年、総務課にいました。人の顔をまともに見たことが、あまりないんです。社長になってから見るようにしています。……慣れていなくて見すぎるのかもしれません」
嘘ではなかった。半分だけ、本当だった。
兵頭は何も言わずに、残りのコーヒーを飲み干した。
この男は宍戸の目を見ていた。宍戸が兵頭の頭の中に耳を寄せているあいだ、兵頭は兵頭で宍戸の目の奥を覗いていた。読めない男が読もうとしてくる。
宍戸はテーブルの下で指を一本ずつ握りこんだ。冷えた指の中で血が騒いでいた。
会計は兵頭が払った。
店を出ると、一月の風がビルの谷間を吹き抜けていて、頬がすぐに冷たくなった。兵頭はねずみ色の帽子を深くかぶり、コートの襟を立てる。横断歩道の手前で兵頭が立ち止まった。
「黒沼組の若いのが来たら、すぐに私に電話してください。一人で会わないように。……本当に、そうしてくださいよ」
兵頭の目が宍戸の顔の上で少しだけ長く止まった。帽子のつばの下、こめかみに、古い傷跡が見えた。髪の生え際から耳の上にかけて、白っぽい筋が三センチほど走っている。宍戸の視線に気づいて、兵頭は帽子のつばを指で少し下げた。
「昔の交通事故です。張り込み中に車にはねられまして。……それ以来、どうも頭の具合が普通の人と違うらしい。医者に言われました」
信号が青に変わった。兵頭は片手を軽く上げて横断歩道を渡っていき、くたびれたコートの背中が、人波に紛れて駅の改札のほうへ消えた。
宍戸は横断歩道の手前に立ったまま動かなかった。
頭の具合が普通の人と違う。兵頭はただの世間話のように、何気なくそう言った。
紙に包んだ角砂糖を一つ取り出して包みを開けて口に入れる。
兵頭の顔を思い出した。口の端が下がったとき。上がったとき。人差し指がテーブルを二回叩いたとき。どれが本当で、どれが見せるための動きだったのか。宍戸には、一つもわからなかった。
十二年かけて、宍戸は人に何も読ませない笑い方を身につけた。眉を少し下げた、困ったような笑い。あの笑いの下で何を考えていても、誰にも気づかれなかった。兵頭も、同じことをしているのかもしれない。
だとしたら、似た者どうしだ、と宍戸は思った。読ませない男が二人、交差点で向かい合っている。片方は読む力を持っている。もう片方はその力を通さない頭を持っている。
読めないなら、外から崩せばいい。あの男の周りにいる人間の頭の中は、全部読める。上司。同僚。家族。あの男が誰に何を報告し、誰に止められ、誰を怖がっているのか。外堀から、一つずつ。
信号がまた赤に変わった。宍戸の横に、信号待ちの人たちが並ぶ。寒い。今日何時に帰れる。あのメール返したっけ。どの声も、はっきり聞こえた。あの刑事の頭の中だけが、雑音の向こうにあった。
信号が青に変わっても、宍戸は歩きださなかった。歩きださないまま、口もとが勝手に笑っているのに気づいていた。
第31話 了
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