第30話 「会長が倒れ、心の読めない刑事が来た」
「伊庭源一郎さん、七十二歳。今朝、ご自宅で倒れているところを、通いの家政婦さんが見つけました」
電話の向こうは病院の事務の女性だった。電話越しに頭の中は聞こえない。宍戸は受話器を耳に当てたまま、相手の声の調子だけを聞いていた。
「脳梗塞です。命はとりとめました。ただ、右半身に麻痺が残っていて、言葉が……今はお話ができない状態です。ご家族の秀明さまにご連絡がつかなくて会社のほうへ」
「承知しました。すぐに会長にお伝えします」
十二月二十六日、金曜の朝十時。会社は昨日で仕事納めで、六階には宍戸と榎本しかいなかった。暖房の止まった廊下は冷えきり、社長室の窓ガラスの隅に、うっすらと結露が浮いている。
受話器を置くと、榎本が戸口に立っていた。
「源一郎さんが」
「倒れたそうです。脳梗塞。右の半身が動かないと」
榎本は何も言わなかった。頭の中だけが短く動いた。右。取締役会のとき、右手をポケットに入れてた。
宍戸は机の上の小皿から角砂糖を一つ取って口に入れた。
目白の座敷で会長の手は震えた。宍戸が会長の中の小さな怖さを押した。押したあとも、震えはしばらく止まらなかった。取締役会の日も、右手はポケットの中で震えていた。右の足を少し引きずっていた。
あれが始まりだったのか。
それとも、七十二歳の体が、いつ倒れてもおかしくなかっただけなのか。
確かめる方法はなかった。宍戸は確かめたいとも思わなかった。
どちらでも、同じだった。四十四年この会社の頂点にいた男が、宍戸の前から去り、そして、二度としゃべれなくなった。あの老人の頭の中にあった一本の線が、今、病院のベッドの上でもつれて切れている。
もし、自分の指が、あの線を切ったのだとしたら。
宍戸は角砂糖を奥歯でゆっくり噛み砕いた。じゃり、という音の中で、背中を冷たいものが駆け上がった。恐ろしさではなかった。自分の指の先がどこまで届くのかを、初めて垣間見たときの、ぞくりとするような震えだった。
「社長」
榎本がまだ戸口に立っていた。
「お見舞いの手配を、いたしますか」
「お願いします。花を。会長の名前と、私の名前で」
榎本が小さくうなずいて出ていく。この人、少しも驚いていない。
宍戸は窓の外を見た。年の瀬の神田の街が、灰色の雲の下に沈んでいた。
翌日の土曜、会社は休みだった。宍戸は一人で社長室に出ていた。年明けの営業所の統合の書類が、机の上で山になっている。
午後二時、一階の警備員から内線が入った。
「社長に、お客さまです。神奈川県警の方だと」
受話器を握ったまま、宍戸は少しだけ黙った。
「お通ししてください」
五分後、エレベーターの扉が開く音がした。廊下を歩いてくる足音は重かった。革靴の底が絨毯の上を、ゆっくり一歩ずつ踏んでくる。急がない人間の足音だった。
扉が二度叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは五十代の男だった。灰色の短い髪。くたびれた紺のコートに、片手でねずみ色の帽子を持っている。背は宍戸と同じくらいで肩幅が広く、指が太くて爪が短い。コートから、煙草と冬の外気のにおいがした。
「お休みのところすみません。神奈川県警、組織犯罪対策課の兵頭と申します」
開いた警察手帳の写真の下に、兵頭幹夫、とある。
「伊庭興産の、新しい社長さんですね。宍戸さん」
「宍戸です。どうぞ、おかけください」
兵頭はソファに腰を下ろした。コートは脱がず、帽子を膝の上に置いて、その上に両手を重ねる。宍戸は向かいに座った。一メートル半。
兵頭の頭の中を、聞いた。
ざっ、という音がした。
古いラジオのつまみを、局と局のあいだで止めたときのような雑音だった。その奥から、ときどき切れ切れの言葉が浮かんでくる。
『……さむ……』
『……エレベーター、遅……』
『……若い……な……』
聞こえる。だが続かない。一つ浮かんだかと思うと、すぐ雑音に呑まれて消える。浮かんでくるのは、寒いとか、エレベーターが遅いとか、どうでもいいことばかりだった。この男が何を考えてここへ来たのか。宍戸をどう見ているのか。肝心なところだけが、雑音の向こうに沈んでいて、少しも浮かんでこない。
会長の頭の中は静かな一本の線だった。どれほど重くても、耳を当てれば、線の上の考えが一つずつ読めた。兵頭の頭の中は嵐の夜の海に似ていた。波の音の合間に、遠くの船の汽笛が切れ切れに聞こえる。その船がどこへ向かっているのかは、わからない。
宍戸は兵頭の目を見た。目を合わせれば、深く読める。誰でもそうだった。
小さく、少し灰色がかった目だった。まばたきが少ない。宍戸の目を真っすぐに見返してくる。
三秒。五秒。十秒。
雑音が大きくなった。深く聞こうとすればするほど、耳の奥でざあっという音がふくらみ、切れ切れの言葉さえ聞こえなくなる。砂嵐の真ん中に、頭から突っこんでいくようだった。
指の先が冷えはじめた。ほとんど何も読めていないのに、力だけが雑音の中で空回りしている。空振りしたバットの重さが腕に残るように。
宍戸は目をそらした。
喉の奥がひりついていた。
九月のあの朝から、初めてだった。目の前に座った人間の、頭の中が読めない。宍戸の刃物が刃先から滑っていく。
「ご用件を、伺えますか」
兵頭は膝の上の帽子を指で軽く撫でた。
「湊浜環境サービス、という会社をご存じですよね」
「取引のあった会社です。総務課で、私が請求書を通していました」
「ええ。……あそこの本当の持ち主が誰か、ご存じでしたか」
「存じません」
兵頭は少しだけ首を傾けた。口もとがわずかに動く。笑ったのか、そうでないのか、宍戸にはわからなかった。
人の顔を、こんなふうに見たのはいつ以来だろう。口の端の動き。まぶたの下がり方。指が帽子のどこを撫でているか。九月の朝から、人の顔を見る必要はなかった。頭の中を聞けば、全部わかった。今、目の前の男の顔はただの顔だった。何が書いてあるのか読めない、一枚の紙だった。
「湊浜に、黒沼組という暴力団があります。湊浜環境サービスは、その組の、いわば財布です。……おたくの会社は、三年間、その財布に二億円以上を入れていた」
兵頭は帽子の上で指を組み直した。
「先週の月曜、伊庭源一郎さんから、私のところに電話がありました。湊浜のことで話がしたい、と。会って話す約束をしました。昨日の午後に」
宍戸は何も言わなかった。
「源一郎さんは、昨日の朝、倒れた」
小さな目が宍戸を見ていた。
「偶然でしょうね。七十二歳ですから」
「……そうだと思います」
「ええ。私も、そう思いたい」
兵頭は帽子を手に取って立ちあがった。
「それと、もう一つ。去年まで湊浜の営業を担当していた、野々村さんという方がいましたね。懲戒解雇になった。先週、会ってきました。奥さんがもうすぐ出産だそうで。……いい人でした。あの人が業者から金を受け取っていたとは、私には思えなかった」
名刺が一枚、テーブルの上に置かれた。神奈川県警察本部、組織犯罪対策課、警部補、兵頭幹夫。
「何か思い出したら、ご連絡ください。番号は直通です」
兵頭は扉のほうへ歩き、ドアノブに手をかけたところで振り向いた。目が宍戸の机の上の白い小皿を見ていた。角砂糖が二つ残っている。
「甘いもの、お好きなんですね」
宍戸はすぐには答えられなかった。
兵頭の頭の中は相変わらず雑音の向こうにあった。『……砂糖……』という切れ端が一つだけ浮かんですぐに消えた。今の一言がただの世間話なのか、何かに気づいて言ったのか。確かめる方法が宍戸にはなかった。
「……疲れると、欲しくなるんです」
「わかります。私も張り込みのときは、あんパンばかり食べてますよ。……では、よいお年を」
帽子をかぶって兵頭は出ていった。重い足音が廊下を遠ざかり、エレベーターの扉が開いて、閉まる。
エレベーターの中で、兵頭幹夫は帽子のつばに指をかけた。
若い社長だった。三十四と聞いた。二か月前まで総務の主任だったという。その男の前に座っているあいだ、ずっと、こめかみの古い傷が疼いていた。三年前、張り込み中に車にはねられてからときどきこうなる。人混みや、騒がしい場所で。
あの静かな社長室でなぜ疼いたのか。
兵頭はエレベーターの階数表示を見上げた。数字がゆっくり下りていく。
あの男の指は白かった。暖房の効いた部屋の中で、冬の外から入ってきた自分の指より、ずっと白かった。そして、机の上に、角砂糖。
理由はまだ、何もない。勘だけだった。兵頭は三十年、その勘だけで食ってきた。
宍戸はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。
九月のあの朝から、三か月半。電車の乗客。課長。社長。秘書。専務。会長。宍戸の前に立った人間は、一人残らず、頭の中を宍戸に開けて見せた。誰も、何が起きているのかわからなかった。あれほど勘の鋭い会長でさえ、最後まで、わからないまま宍戸の前から去っていった。
あの刑事の頭の中だけが、雑音の向こうにあった。聞こえるのは寒いとか、エレベーターが遅いとか、どうでもいい切れ端ばかり。肝心なことは何一つ届かない。わざと隠しているのか、そういう頭なのか、それさえわからなかった。
宍戸は両手を膝の上で握りしめた。
怖い、と思った。正直に、そう思った。九月の朝の電車以来の、本物の怖さだった。
そして、その怖さの底から、別のものが、ゆっくりと立ちあがってきた。
この世に、読めない人間がいる。宍戸の刃が通らない頭がある。それなら、その頭を、どうやって崩すか。読めないなら、読まずに崩す方法を、考えればいい。蛭田より、峯岸より、会長より、もっと面白い相手が、たった今、あの扉から出ていった。
口の端がゆっくり上がっていった。指は冷えたまま、心臓だけが、熱く速く打っていた。
机の前に戻り、小皿の角砂糖を一つ取る。口に入れる前に、テーブルの上に残された名刺を見た。白い長方形の紙が、ガラスの天板の上に置かれている。
動け。
名刺がガラスの上をすっと滑った。天板の縁まで来て止まる。
物は動く。人の頭も、動く。あの男の頭の中だけが、まだ、つかめない。
まだ、だ。
名刺は縁から半分はみ出したまま、落ちずに止まっていた。
兵頭幹夫。
宍戸は、その四文字を、しばらく見下ろしていた。あの男は、また来る。来るたびに、宍戸には、雑音しか聞こえない。
第30話 了
◆ 第一章「会社」 終
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