第29話 「平社員だった男が、社長になった」
秀明は、会長室の大きな革の椅子に、浅く腰を下ろしていた。
『これで、もう、何も決めなくていい』
会長の椅子に座った秀明の頭の中は、そう言って深く息をついていた。
十二月十九日、金曜の午後三時。本社七階の、普段は倉庫代わりに使われている大会議室に、パイプ椅子が百脚並べられていた。臨時株主総会の会場だ。ブラインドは全部下ろされ、蛍光灯の白い光の下に、新しく敷いた絨毯のにおいと、石油ストーブの灯油のにおいが混ざっている。
出席した株主は三十人ほどだった。前の列に伊庭康二郎。その隣に柴崎典子。東都銀行から来た株式担当の行員。取引先の社長が数人。社員持株会の理事長として総務部長の小田切。
伊庭源一郎は来ていなかった。代わりに弁護士が一人、委任状を持って座っていた。
十日前、源一郎は取締役を辞める届けを出した。代表の権限を失った翌朝のことだった。届けは会長室の机の上に、毛筆で書いて置いてあった。一身上の都合により。ほかには一字も書いていなかった。あの日から、源一郎は一度も会社に来ていない。
総会の議題は一つだけだった。新しい取締役の選任。候補者、宍戸恭司。
宍戸は会場の一番前の、議長席の横に座っていた。新しく仕立てた紺のスーツは、榎本が選んだ店で、榎本が選んだ生地だった。肩が少し固く、腕を上げると脇の下がつっぱる。
採決は議決権の数で行われた。弁護士が源一郎の三十パーセントを、反対として入れる。それ以外の株はほとんどが賛成に回った。
賛成、六十一パーセント。反対、三十四パーセント。
宍戸が数えていた五十五より、六つ多かった。古い役員の遺族が細かく持っていた株の半分ほどが、賛成に入っている。誰が声をかけたのかと会場を見回すと、典子が宍戸を見て小さくうなずいた。大輝のこと、忘れないでね。
読みが外れたのに、悪い気はしなかった。外れた六つは典子が自分の足で動いた結果だった。人は一度押されると、自分の足でも歩きだすものらしい。宍戸が押したのは、法事の廊下でたった一言だった。
議長の秀明が決議を読み上げた。まばらな拍手が起きる。康二郎が手を叩きながら、ほんの少しだけ口の端を上げていた。兄貴。あんたの会社はもう、あんたのものじゃない。
宍戸は拍手の中で、膝の上に置いた手を見下ろしていた。指は冷えていない。今日は何も使っていない。
何も使わずに、会社が、手の中に落ちてきた。
総会のあと、同じ部屋で取締役会が開かれた。今度は宍戸もテーブルの席に座った。
議題は二つ。伊庭秀明を、代表取締役社長から代表取締役会長へ。宍戸恭司を、代表取締役社長に。
どちらも、全員一致で決まった。反対するはずの常務は、黙って手を挙げた。会長がいない会社に、いても仕方がない。来年の三月で辞める。
峯岸も手を挙げた。専務の椅子に座ったまま、宍戸のほうを見ようとしない。上着の内ポケットが、かすかに膨らんでいた。あの日の明細の紙が、まだそこにあるのだろう。この男の下で専務か。……首輪をつけられた犬だ。
首輪。そうだ、と宍戸は思った。その首輪の鎖は宍戸の机の一番下の引き出しに、三年分の請求書の綴りとして鍵をかけてしまってある。
秀明は大きな肘掛けのついた黒い革の会長の椅子に座り、背に深くもたれて天井を見上げた。もう決めなくていい。役員会で答えに詰まらなくていい。宍戸が全部やってくれる。親父のいない会社。……楽だ。
宍戸は秀明の頭の中に何もしなかった。何もしなくても、秀明はもう、宍戸の言うことしか聞かない男になっていた。
四十四年かけて会社を作った男が去り、その息子が、空いた椅子で天井を見て、楽だ、と思っている。宍戸はその横顔を眺めながら、少しも憐れまなかった。この男は楽をしたがった。だから、楽をさせてやる。楽をしているあいだに、全部を宍戸に渡してしまうように。
夕方五時。六階の社長室は秀明の私物が運び出されてがらんとしていた。ゴルフのトロフィーは、秀明が会長室へ持っていった。窓の外はもう暗く、皇居の森が黒い塊になって、街の灯りの向こうに沈んでいる。
宍戸は社長の机の前に立った。
総務課の机の三つ分はある。天板に、自分の顔がぼんやりと映った。
椅子に座る。革が体の形に沈んだ。秀明の体の形がまだ少し残っていて、宍戸の背中には合わなかった。
十二年間、宍戸の椅子は、総務課の島の奥の、背もたれの網が破れた事務椅子だった。座るたびに、破れた網の縁が背骨の横に当たった。
嬉しいか、と自分に訊いた。
嬉しかった。体じゅうの血が指の先まで熱く満ちていくほどに。だがそれは、腹がいっぱいになったときの嬉しさではなかった。目の前に一皿目が置かれ、それを平らげ、もう次の皿を待っているときの嬉しさだった。
目白の座敷を思い出した。電気ストーブの赤い光の中で、七十二歳の老人が、自分の右手を見つめていた。会議室で、骨ばった手が天板をかたかたと叩いていた。あの老人から、宍戸はこの椅子を取った。
宍戸は椅子の肘掛けに両手を置いた。冷たい革の感触が、手のひらに吸いついてくる。
背中に合わないなら、合うまで座ればいい。合ったら、次の椅子を探せばいい。
机の上に、湊浜環境サービスの請求書の綴りを、鍵つきの箱から出して置いた。三年分の紙。その向こうに、港町があって、組があって車を燃やす連中がいる。まだ宍戸の指が届いていない場所。
次の皿はもう見えていた。
扉が開いて、榎本が入ってきた。湯気の立つマグカップと、白い小皿を持っている。小皿の上に、角砂糖が三つ。
「社長」
マグカップを置き、小皿をその横に並べてから榎本は言った。
「肩書きで呼ばないと、ほかの人が呼んでくれません」
社長室長になった日と、同じ言葉だった。社長。……この人は本当にここまで来た。次はどこまで行くんだろう。私はついていく。
「ありがとうございます」
角砂糖を一つ、ほうじ茶の中に落とす。茶色い湯の中で、白い立方体が角から溶けていった。
「榎本さんは、来週から社長室長です。秘書も兼ねていただきます。肩書きは二つ。給料は課長と同じにします」
小皿の縁で榎本の手が止まった。……上へ。連れてきてくれた。
榎本は深く頭を下げた。まとめた髪の先が、肩から前へこぼれる。喫茶店の夜と、同じ角度だった。
「ありがとうございます、社長」
宍戸は頭を下げた榎本のつむじを見下ろした。この女は宍戸についてくると決めた。宍戸が何者かを、半分だけ知りながら。半分しか知らないまま、ここまで来た。
残りの半分を知ったら、この女はどうするだろう。宍戸はその日を、少しだけ楽しみに思った。
翌週の月曜、社内報の写真の撮影があった。
四階の大きな会議室に、役員が並ぶ。後ろの列に取締役たち。前の列に会長の秀明と、専務の峯岸。真ん中に、宍戸が立った。
写真屋は五十代の男で、三脚に据えたカメラのファインダーをのぞきながら、何度も手で合図をした。もう少し右。顎を少し引いて。この新しい社長、写真に慣れてないな。肩が固い。……でも、目は、変に落ち着いてる。
十二年間、社内報の写真で宍戸はいつも一番端にいた。総務課の集合写真。防災訓練の記録。新年会。どの写真でも、誰かの肩の後ろに半分だけ顔を出していて、名前の欄はたまに漢字を間違えられた。
今日は真ん中だった。左右に、それぞれ何十人もの部下を持つ取締役たちが並んでいる。後ろの列の誰かの頭の中が、背中に向かって何かを言っていた。三十四歳の社長。あの総務の。何をしたんだ、いったい。
何をしたのか、お前たちは一生知らない。
「はい、いきまーす」
写真屋が手を上げた。
宍戸は口の端を少しだけ持ち上げた。十二年かけて固めた、型抜きのクッキーのような笑い方ではなかった。眉は下げなかった。人の前で眉を下げずに笑ったのは、たぶん、初めてだった。頬の筋が慣れない形に引っぱられて少しだけ痛んだ。
その痛みさえ、心地よかった。
シャッターの音が、かしゃり、と響いた。フラッシュの白い光が、一瞬、全員の影を壁に焼きつけた。壁に焼きついた影の真ん中で、一番小さな男の影が、一番まっすぐに立っていた。
第29話 了
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