第28話 「会長の最後の反撃」
会議室の中で、誰かの椅子が、ぎしりときしんだ。
『終わりだ。全部、終わりだ』
峯岸の頭の中はその一行のまま止まっていた。
扉の向こうで紙を配る音がした。会長が封筒から出した紙を、テーブルの左右へ順に回している。紙が一枚、また一枚、天板の上を滑っていく。
「東都銀行の、峯岸隆之名義の普通預金口座。この三年分の、入金の記録だ。毎月二十五日、二百万円ずつ。振込元は湊浜のある会社の役員の個人名義だ。三年で三十六回。合わせて七千二百万円」
低く、落ち着いた声だった。右手の震えを、声にまでは出さなかった。
会議室の中で誰かが息をのむ。二百万、毎月。専務が? 野々村って営業がクビになったやつ、あれは。
「先月の監査では、湊浜環境サービスとの不正は、営業の担当者が業者と組んだもの、という結論になった。担当者は懲戒解雇になった。だが業者から金を受け取っていたのは担当者ではない」
会長の声が一段低くなった。
「峯岸。おまえだ」
峯岸は何も言わなかった。頭の中で言葉がばらばらに砕け、形にならない。どこから。どこから出た。銀行。口座。誰が。
「監査の書類を揃えたのは誰だったか。社長室長の、宍戸だ。……社長。宍戸を、ここへ呼びなさい」
扉を開けたのは秀明だった。頭の中が真っ白になっていた。どうする。どうする。宍戸、どうする。
「宍戸くん。……入って」
宍戸は会議室に入った。
楕円形のテーブルの周りに、八人が座り、一人が立っていた。上座で、会長がテーブルに左手をついて立っている。右手は上着のポケットの中だった。テーブルの上に銀行の明細の写しが一人一枚ずつ置かれ、どの紙にも同じ数字が並んでいる。二、〇〇〇、〇〇〇。二、〇〇〇、〇〇〇。
扉の内側に立つと、八人の頭の中が一度に流れこんできた。この男が書類を。野々村に罪を着せた? 専務とグルか。どうなる。この会議はどうなる。
八つの声が八つの方向から宍戸を刺してくる。十二年、誰の頭の中にもいなかった男が、今、会議室じゅうの頭の中の、真ん中にいた。
怖かった。確かに怖かった。そして、その怖さの、すぐ下で、宍戸の心臓は、これまでで一番速く打っていた。
「宍戸。監査に出した書類は、おまえが選んだな」
「総務課の書庫から、会計士の方のご要望に沿ってお出ししました」
「監査に出た書類は、どれも野々村を指していた。稟議書。会食の精算書。商品券の受付の台帳。三年分の紙の山から、よくそれだけ揃えたものだ」
会長の声は低いままだった。
「峯岸を指す紙は、一枚も入っていなかった。……なぜだ」
この男には、峯岸をかばう理由がある。それが何かはわからない。だがある。
「会計士の方からご指示のあった書類を、そのままお出ししました」
「そうか」
会長はテーブルを見回した。
「採決は延期する。代わりに、私から動議を出す。専務・峯岸隆之の解任。それと、社長室長・宍戸恭司の解任。この二人が何をしたのか、警察も入れてもう一度調べ直す」
会議室の空気がぐらりと傾いた。
宍戸には、それが音のように聞こえた。六つあった社長の側の頭の中で、てんびんの皿が一斉に揺れはじめる。専務が金を。それなら、専務の側にはもうつけない。警察。警察は困る。会長の言うとおりにしたほうが、安全か。
湯浅が明細の紙を見つめ、砂川が峯岸から目をそらし、菅原が自分の手のひらを見ていた。社外取締役の頭の中だけは、別のことを考えていた。この明細はうちの銀行のものだ。どうやって外に出た。……本店の誰かが、会長に流した?
そこだ、と宍戸は思った。
一番固いはずの銀行の男が、一番ぐらついている。宍戸はその揺れに、指を置いた。
「会長」
扉の内側から、一歩だけ前に出た。
「その明細は、東都銀行の、お客さまの口座の記録です」
社外取締役の手が明細の上で止まった。
「銀行が、お客さまの口座の中身を、外の人間に見せた。……そういうことになります」
社外取締役の頭の中で不安がぐっと大きくなる。宍戸の指がそれを押していた。表に出たら銀行が終わる。顧客情報の漏洩だ。本店の誰かのクビが飛ぶ。いや、俺もだ。俺はこの会社の取締役なんだから。
「もう一つ、申し上げます」
宍戸はテーブルの全員を見回した。
「湊浜環境サービスへの支払いは、三年前から続いています。会長はその支払いが何のためのものか、三年前からご存じでした。ご存じのうえで止めずにいらっしゃった。湊浜の方々がどういう方々か、ご存じだったからです」
会議室がしんとなった。常務が会長のほうを向く。知っていた? 会長が?
会長の線がほんのわずかに揺れた。蕎麦屋の座敷で見たのと同じ揺れだった。なぜ、それを。
「そのことが警察の調べで表に出れば、どうなるか。会社が反社会的な人たちに、三年間、二億を超える金を払いつづけていた。それを、創業者が知っていて、黙っていた」
声の調子は変えなかった。総務課の島で、蛍光灯の交換の段取りを説明するときと同じ、穏やかな声で。
「取引先は全部離れます。銀行は融資を引き揚げます。この会社は春までもちません」
そして、宍戸は、指を置いた。
八人全員の頭の中に、一度に。
会社が潰れる怖さ。警察の怖さ。自分の名前が新聞に載る怖さ。八人の中にもともとあった怖さを、全部、少しずつ大きくした。それから、その怖さが逃げていく先を、一つだけ、細く開けた。会長の動議ではなく、社長の動議のほうへ。調べ直すのではなく、静かに終わらせるほうへ。
手首から先の感覚が、消えた。
肘から肩へ、冷たいものが這い上がってくる。鼻の奥で何かがぷつりと切れた。温かいものが鼻の下を伝いはじめる。
宍戸は右手を口もとに上げた。考えこむときの癖のように、人差し指の背を鼻の下に当てる。袖口が赤く湿っていくのがわかった。
八人。物流会社の五人で倒れた男が、今、八人を同時に押している。
栓が抜ける、と頭の隅で声がした。抜けてもいい、と宍戸は答えた。この部屋を手に入れられるなら、ここで一度、栓が抜けてもいい。
静かに終わらせたほうがいい。警察は困る。会長が降りて、専務が……専務も、いずれ降りればいい。今日は社長の案で。会社が潰れるよりは。
てんびんが戻っていく。一つ。二つ。三つ。社長の側へ。
宍戸はその皿が一つずつ傾いていく音を、袖口で鼻を押さえながら聞いていた。十二年分の泥で作った刃物が、今、この会社の一番上の部屋で、八人の首筋に同時に当たっている。
会長が宍戸を見ていた。その目だけはてんびんの外にあった。
おかしい。さっきまで皆こちらに傾いていた。明細を見て顔色を変えていた。それがこの男が口を開くたびに、一人ずつ戻っていく。理屈なら、私のほうが通っている。それなのに。何が起きている。
会長の線が細かく震えていた。答えを探して、線の先が暗がりの中をあちこちへ伸びていく。どこにも、届かなかった。
会長は口を開きかけた。何かを言おうとして言うべき言葉を探した。だが自分が何に向かって言おうとしているのかさえ、会長にはつかめていなかった。
会長は口を閉じた。
「……社長」
社外取締役が言った。
「元の議題で採決をお願いします」
採決は二分で終わった。
会長の解職に、賛成が六。反対が二。秀明、峯岸、湯浅、砂川、菅原、社外取締役。常務と営業所出身のもう一人だけが、最後まで手を挙げなかった。会長の出した動議は、議題にさえならなかった。秀明が本日の議題は一件のみです、と言って閉会を告げた。その一行は宍戸が秀明の頭の中の台本に足しておいたものだった。
役員たちが一人ずつ会議室を出ていく。誰も会長のほうを見なかった。峯岸は明細の紙を上着の内ポケットに押しこんで真っ先に出ていった。常務だけが会長の横に立ち、何かを言おうとして言えずに、頭を下げて出ていった。
会議室に、会長と宍戸だけが残った。
会長は上座の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ポケットから右手を出す。右手はテーブルの上でまだ小さく震えていた。
宍戸は扉の内側に立っていた。袖口がすっかり赤く染まり、鼻の下の血は乾きかけていた。
会長が宍戸の袖口を見た。それから、宍戸の顔を見た。
血。鼻血……? いつから。会議の最中か。わからない。この男が何なのか。何をしたのか。何もしていないのか。わからない。
会長の頭の中の一本の線が、最後に、もう一度だけ、ぴんと張った。張りつめた線の根もとで、目白の座敷で見た小さな影が、今は、はっきりと大きくなっていた。
『怖い』
『あれは、人ではない』
宍戸はその一行を聞いた。
人ではない。四十四年、この会社の頂点にいた男が、総務の湯呑み係を見てそう思っている。
宍戸の体の奥で、何かが、音を立ててほどけた。十二年分の、固く結ばれていた何かが。膝が少し震えていた。冷えのせいでもあり、そうでないものでもあった。
ポケットから、紙に包んだ角砂糖を三つ取り出した。包み紙を、震える指で一つずつ剥がし、まとめて口に入れる。じゃり、じゃり、と噛む音が、二人きりの会議室に響いた。
会長はそれを最後まで見ていた。何も言わなかった。テーブルの上で、骨ばった右手が、小さく、かたかたと、木の天板を叩いていた。
四十四年、この会社でいちばん重かった手だった。その手が今、ただの年寄りの手になって、木の天板を叩いている。
宍戸は、その音を、最後の一つまで聞いていた。
第28話 了
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