第27話 「会長を降ろす取締役会」
『今日、親父を降ろす。今日、親父を』
役員会議室に入っていく秀明の頭の中は、同じ一行を、朝からずっと繰り返していた。
十二月の最初の月曜、午前十時。六階の廊下に、暖房の乾いた風が流れている。役員会議室の扉の前に、パイプ椅子が一つ置いてあり、宍戸はそこに座っていた。社長室長は取締役ではない。会議室の中には入れず、資料の説明が要るときだけ呼ばれる。だから扉の外で待つ。それが今日の宍戸の席だった。
扉まで二メートル。長いテーブルの、扉に近い半分までは、声が届く。
榎本が会議室に入る役員たちに一人ずつ資料を手渡していた。一枚目に、宍戸が作った議題が一行だけ印刷されている。
代表取締役会長、伊庭源一郎の解職の件。
宍戸はその一行を、昨夜、自分の部屋で何度も読み返した。四十四年の会社の創業者の名前の下に、解職の二文字。それを書いたのは、二か月前まで総務課で湯呑みを下げていた男だった。何度読んでも、そのたびに、胸の底から笑いがこみ上げてきた。
最初に来たのは峯岸だった。いつもより念入りに灰色の髪を撫でつけ、新しいネクタイを締めている。扉の前でちらりと宍戸を見て、目をそらして会議室に入った。四票は揃えた。経理の湯浅も、物流の砂川も、営業所の菅原も、昨日の夜、一人ずつ電話した。……源一郎さん、すまん。
経理担当の湯浅と、物流担当の砂川が並んで来た。湯浅は数字のことで頭がいっぱいだった。会長が降りれば来年の決算は社長と専務で回す。俺の首はつながる。砂川は早く終わってほしいとだけ思っていた。峯岸さんの言うとおりにしておけばいい。
営業担当の常務が来た。会長の側の人間で六十五歳。会長と一緒に、最初の倉庫で段ボールを運んでいた男だという。常務は扉の前で立ち止まって宍戸を見下ろした。
「君が、社長室長か」
「宍戸と申します」
「会長には、ずいぶん世話になったはずだがな。この会社の人間は、みんな」
恩知らずめ。
常務は返事を待たずに入っていった。宍戸は閉まりかけた扉に向かって心の中で答えた。世話になった覚えは、ない。十二年、この会社は宍戸を見なかった。見なかった会社に、恩などない。
営業所出身の取締役が二人、目も合わせずに、間をあけて入っていく。峯岸の側の菅原は、頭の中で言い訳を練習していた。会社の将来のために。会社の将来のために。そう言えばいい。会長の側のもう一人は、黙っていた。頭の中も静かだった。何かを決めている人間の静けさだった。
最後に近い時刻に、銀行から来た社外取締役が来た。五十八歳。東都銀行の元役員で、黒い革の鞄の取っ手を、指で何度も握り直していた。本店の審査部から昨日電話があった。神田支店の意見書のとおりに、と。銀行が創業者の首を切る側に回る。嫌な仕事だ。
社長の側は秀明、峯岸、湯浅、砂川、菅原、社外取締役。六人。会長の側は会長、常務、営業所出身のもう一人。三人。解職される本人は、この議題では票を入れられない。
六対二。
数字を並べ終えて、宍戸は、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
揃いすぎている。四十四年、誰にも負けなかった老人が、負けるとわかっている会議に、黙って座りに来るはずがない。目白の座敷で、あの老人の線は、手が震えても切れなかった。
ポケットの中で、紙に包んだ角砂糖を一つ、指でつまんだ。指はまだ冷えていない。ポケットには、角砂糖が十個ほど入っている。
来い、と宍戸は思った。何を持ってくるにしても、来い。
十時を三分過ぎた。会長はまだ来ていなかった。
会議室の中が声を出さずにざわつきはじめる。来ないのか。体調が悪いと聞いた。来なければ、そのまま決まる。……来ないはずがない。あの人が。
廊下の奥で、エレベーターの扉が開く音がした。
会長が歩いてきた。灰色のスーツ。短く刈りこんだ白髪の小さな頭。杖はついていない。だが歩き方が少しだけ違った。右の足を、ほんのわずかに引きずっている。右手を、上着のポケットに入れたままだった。
手の震えを、隠している。宍戸には、それがわかった。
目白の夜から、一週間。あの震えは止まっていなかったのだ。
宍戸はパイプ椅子の上で、背筋がぞくりとするのを感じた。指一本で押した怖さが、一週間たっても、七十二歳の右手に残っている。宍戸が触れた場所が、まだ震えている。
会長は廊下の真ん中で宍戸の前を通った。足を止めず、宍戸のほうも見なかった。小柄な背中が目の前をゆっくり横切っていく。
すれ違う瞬間に、会長の頭の中が聞こえた。
『今日で、終わらせる』
一本の線が細く、真っすぐに張っていた。その線の先に、何か固いものが結びつけてある。
『この封筒一つで、四票は崩れる』
会長は左手に、茶色い封筒を一つ持っていた。厚みは指一本ほど。口は糊でしっかりと閉じてある。
宍戸は中身を聞こうとした。だが会長はもう扉の向こうへ入っていた。二メートル。上座の席まで歩いていく。三メートル、四メートル。声が遠ざかって消えた。
宍戸はパイプ椅子の上で膝の上の手を組み直した。
やはり、来た。手を震わせながら、刃物を一本持って。
怖さはなかった。かわりに、組んだ指の中で脈が強く打っていた。あの老人はまだ戦う気でいる。それなら、こちらも、全部を使える。
「それでは、臨時取締役会を始めます」
司会は秀明だった。声は少し高かったが、震えてはいなかった。宍戸と三日かけて読み合わせた台本を、言葉を一つも間違えずに読み上げていく。
「本日の議題は、お手元の資料のとおり一件です。代表取締役会長、伊庭源一郎の解職の件。提案の理由を申し上げます。当社は三期連続の減益にあり、経営体制の刷新が急務です。取引銀行からも、同様のご意見をいただいております。会長には、長年のご功績に深く感謝申し上げたうえで、代表の権限をお返しいただき、経営を次の世代に……」
秀明の声が一瞬途切れた。親父の顔を見るな。見るな。
宍戸は扉の外から、秀明の頭の中に指を置いた。「見るな」という声を、少しだけ大きくする。
「……次の世代に、託していただきたいと考えます」
秀明は最後まで上座の会長を見なかった。
息子に、父親を見させなかった。それも、宍戸の指だった。
「この件について、ご意見のある方は」
沈黙が落ちた。暖房の音と、誰かが資料をめくる音だけが聞こえる。
「専務の峯岸です。賛成いたします。会長のご功績は誰よりも私がよく存じております。三十年、おそばにおりました。そのうえで申し上げます。会社の将来のために、体制を新しくすべき時期だと」
会社の将来のために。菅原の頭の中で練習していた一行が、そのまま峯岸の口から出てくるのが聞こえた。
「ほかに、ございませんか」
常務が何か言いかけてやめた。会長の側のもう一人は黙っていた。
「では、採決に……」
「待ちなさい」
会長の声だった。低く、乾いていた。大きな声ではない。それでも、会議室じゅうの空気が一度に止まった。
「私にも、一つ、話をさせてもらおう。採決の前に、皆さんに見ていただきたいものがある」
椅子が床をこする音。会長が立ちあがったのだとわかる。
紙の封筒を破る音が、扉越しに聞こえた。びり、びり、とゆっくり。糊づけされた口を、震える指で一度では開けられなかったのだろう。三度目で紙が裂けきる音がした。
宍戸はパイプ椅子から立ちあがり、扉に一歩近づいた。一メートル半。テーブルの中ほどまで届く。
峯岸の頭の中が聞こえた。
『……あれは』
凍りついた声だった。
『あれは、俺の口座の、明細だ』
宍戸は扉の前でゆっくりと息を吸いこんだ。
口の中が乾いていた。それなのに、舌の奥に、甘い味がした。角砂糖はまだ口に入れていない。その甘さは体の奥から湧いてきていた。
第27話 了
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