第26話 「『おまえは、何者だ』と会長は訊いた」
夜の八時、宍戸は会長の家の門の前に立っていた。
『来たか。時間どおりだ』
門の呼び鈴を押す前に、玄関の奥から、その声が聞こえた。
夜の七時五十八分。目白の住宅街は大通りから一本入っただけで急に音がなくなる。古い屋敷の塀が続く坂道を、街灯が等間隔に照らしていた。どこかで犬が一度だけ吠えた。
伊庭源一郎の家は、坂の途中にあった。黒い瓦屋根の、木造の二階建て。門柱の表札は墨の字が雨に洗われて半分かすれている。庭の松が塀の上から枝を伸ばし、湿った土と冬の枯れ葉のにおいがした。
呼び鈴を押す。玄関の引き戸を開けたのは会長自身だった。
「上がりなさい」
家政婦も、家族もいない家だった。歩くたびに廊下の板が小さくきしむ。奥の座敷は十畳ほどで、床の間に掛け軸が一本、古い柱時計が一つ。黒い漆の座卓の上に、急須と湯呑みが二つ。電気ストーブが一台、赤く光っていた。
会長は床の間を背に座り、宍戸は向かいの座布団に正座した。会長が急須から茶を注ぐ。自分の湯呑みに、それから宍戸の湯呑みに。湯気がストーブの赤い光の中でゆっくりのぼっていく。
「飲みなさい」
湯呑みを両手で持つと、外の寒さで冷えた指に、陶器の熱がじんわりしみた。会長は自分の湯呑みには手をつけなかった。
「康二郎から電話があった。株を手放すつもりはない、とな。私が買い取ろうとしていると、誰かから聞いたらしい。……あれに、その話をしたことは一度もない」
柱時計の振り子が、こつ、こつと鳴っていた。
「典子は、昨日、私を訪ねてきた。外から社長を迎えるのか、と。泣いていた。あれが泣くのを、私は三十年ぶりに見た。東都銀行の神田支店長は、本店に意見書を出したそうだ。伊庭興産の経営の刷新を望む、と。頭取が電話をくれた」
会長はそこで初めて湯呑みを取り、一口だけ飲んで戻した。
「峯岸は、監査のあと、私の目を見なくなった」
全部、この男だ。
会長の頭の中はいつもの一本の線だった。ただ、会社で聞いたときより細く、きつく張られている。強く引きすぎた弓の弦のように、ぴんと震えていた。
宍戸は湯呑みを座卓に置いた。
四十四年かけて作った城の、石垣が一つずつ抜かれていく音を、この老人は聞いた。抜いた男を家に呼び、茶を出して正面に座らせている。逃げずに、真正面から。
敬意に似たものが、宍戸の胸をかすめた。そして、その敬意が、すぐに別のものに変わっていった。こういう男だからこそ、崩しがいがある。
「宍戸」
老眼鏡はかけていなかった。七十二歳の目は少し濁っていて、それでも真っすぐだった。
「おまえは、何者だ」
ストーブの中で、電熱線がじじ、と小さく鳴った。
宍戸はすぐには答えなかった。一メートル半。会長の頭の中に耳を寄せる。蕎麦屋の三問目。私と頭取しか知らない答え。康二郎の株。私の頭の中にしかなかった考え。典子への、外から社長の話。この男は私しか知らないはずのことを知っている。誰から聞いた。頭取か。いや、頭取は漏らす男ではない。ではどこから。……わからない。
会長は答えを探していた。四十四年、どんな相手の手の内も読んできた老人が、目の前の男の手の内だけは、どこから読めばいいのかさえわからずにいた。
わからないだろう、と宍戸は思った。わかるはずがない。
「総務課に十二年いた、ただの社員です」
「ただの社員が、一か月で、私の弟と娘と銀行と専務を動かすか」
「社長のお力です」
「秀明に、そんな力はない」
会長の声が少しだけ大きくなり、すぐに元の低さに戻った。
「……取引をしよう」
座卓の上で会長が両手を組んだ。骨ばった指の節が、ストーブの光で赤く光る。
「今、手を引け。秀明から離れろ。来年の春、関西の営業所長にしてやる。給料は今の倍だ。三年務めれば取締役にもしてやる」
受けるはずがない。だが受けなければ、それが答えになる。
宍戸はその条件を、頭の中でゆっくり転がした。
関西の営業所長。給料は倍。三年で取締役。二か月前の宍戸なら、この座敷で泣いて頭を下げただろう。十二年、誰にも見られなかった男には、夢のような話だった。
今は笑いをこらえるのに苦労した。
この老人は宍戸を、営業所長の椅子一つで買えると思っている。四十四年の会社を丸ごと手に入れかけている男に、倉庫の奥の小さな机を差し出している。
「この会社はな、宍戸。私が二十八のときに、倉庫一つから始めた。七十二になるまで四十四年、毎日、会社のことしか考えてこなかった。妻が死んだ日も、決算の数字を見ていた」
枯れ葉が乾いた地面を風に押されて転がるような、静かな声だった。
「その会社を、どこの誰とも知れない男に、食われるわけにはいかない」
宍戸は会長の頭の中の一本の線を見つめていた。
線の根もとに、小さな影があった。
『怖い』
会長自身も気づいていないほどの、小さな影だった。四十四年、誰にも負けなかった老人の一番奥に、針の先ほどの怖さが沈んでいる。正体のわからないものを前にしたときの、人間なら誰でも持っている古い怖さだ。
宍戸はその影に指を置いた。ほんの少しだけ押す。
会長の手が座卓の上でぴくりと動いた。組んでいた指がほどけ、右手が湯呑みのほうへ伸びかけて途中で止まる。……なんだ。
宍戸はもう少しだけ押した。
会長の右手が震えはじめた。小さく、細かく。座卓の漆の上で指先がかたかたと揺れる。会長は自分の手を見下ろし、左手で右手を押さえた。押さえた左手も震えていた。なんだ、これは。なぜ、手が。この男が何かを。
柱時計の振り子の音が、やけに大きく聞こえた。
宍戸の指先から熱が抜けていく。手首、肘。怖さに触れているだけで、氷の柱を素手で押しているような冷たさが、肩まで這い上がってくる。
それでも、宍戸は目を離せなかった。
四十四年、この会社を背負ってきた手が、宍戸の目の前で震えている。蛭田が怒鳴り、峯岸がひれ伏し、秀明が顔色をうかがってきた、その一番上にいた男の手が。
背骨の芯を、熱いものが駆け上がっていった。冷えきった体の中でそこだけが燃えていた。これが欲しかったのだと、宍戸は思った。十二年、湯呑みを下げに入るだけだったこの会社の、一番高い場所にいる男が、自分の前で震えるところを。
宍戸は指を離した。
会長の手の震えは、すぐには止まらなかった。十秒。二十秒。骨ばった二つの手が、座卓の上でゆっくりと静かになっていった。
「お気持ちは、ありがたく頂戴します」
座布団の上で手をついて、頭を下げた。
「ですが、営業所長のお話は、お受けできません。社長のおそばで、まだやることがありますから」
会長は何も言わなかった。自分の右手を見下ろしていた。
立ちあがると、膝が冷えてうまく伸びなかった。襖に手をかけて体を支える。
「宍戸」
背中で会長が言った。宍戸は振り向かなかった。
「湊浜の連中は、私よりずっと怖いぞ」
襖を開けた。冷えた廊下の空気が、座敷の暖かい空気と混ざって足もとを流れた。
玄関の引き戸が閉まる音を聞いてから、源一郎は、もう一度自分の右手を見た。
震えは止まっている。だが指先に、氷を握ったあとのようなしびれが残っていた。
なぜ震えたのか、わからなかった。七十二の体だ。どこかが悪くなっていてもおかしくはない。そう思おうとした。
思えなかった。
あの男が営業所長の話を断ったとき、口の端がほんの少しだけ動いた。笑ったのだ。七十二の老人が四十四年の会社を守るために差し出した条件を、あの男は、笑った。そして、その直後に、手が震えだした。
源一郎は湯呑みの冷めた茶を、震えの残る手で持ち上げた。茶の表面に、ストーブの赤い光が小さく揺れていた。
怖い、と思った。何が怖いのかも、わからないまま。
坂を下りながら、紙に包んだ角砂糖を二つ、まとめて口に入れた。噛み砕く音が静かな住宅街に響く。
指がひどく冷えていた。手袋のない手を上着のポケットに突っこむと、まだ残っている角砂糖の包みが指に触れた。
振り返らなかった。それでも、背中に何かが張りついている気がした。
あの老人は最後まで宍戸から目をそらさなかった。手が震えても、自分の手を見ていたのはほんの数秒ですぐにまた宍戸を見た。濁った目の奥で、一本の線は、震えながらも切れていなかった。
まだ切れていない。それがたまらなく嬉しかった。
簡単に切れる線なら、面白くない。蛭田は十日で峯岸は一晩で切れた。あの老人の線は手が震えても切れなかった。次はどうやって切る。どこから刃を入れる。
駅までの道にコンビニが一軒あった。温かい缶のココアを二本買うと、レジの若い店員が宍戸の手を見た。この人、指、真っ白。
店の外で一本目のプルタブを起こす。甘い湯気が冬の夜気の中に白く広がった。
あの家には今夜、老人がひとりしかいない。柱時計の音と電気ストーブの赤い光の中で、七十二歳の男が、自分の右手を見つめている。
宍戸はココアを一口飲んだ。甘さが冷えた喉を通って胃の底へ落ちていく。ポケットの中で握った二本目の缶から、少しずつ熱が手のひらに戻ってきた。
駅のホームに電車が入ってくる音がした。空になった缶を回収箱に入れると、ほかの缶の上に落ちて、からん、と鳴った。宍戸はその音を背中に聞きながら、改札へ歩いた。足取りは来たときより、ずっと軽かった。
第26話 了
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