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世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


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第25話 「銀行の支店長が隠していた三億円」


 東都銀行神田支店の応接室は、空調が効きすぎていた。


 『伊庭興産の社長室長? 聞いたことのない肩書きだ』


 応接室の扉が開く前から、支店長の頭の中は宍戸を値踏みしていた。


 十一月の第三水曜、午前十時。東都銀行の神田支店は、会社から歩いて五分の、大通りに面したビルの一階と二階にあった。一階の窓口には、もう順番待ちの客が十人ほど座っている。番号を呼ぶ機械の声と、紙幣を数える機械のしゃっしゃっという音が、天井の高いフロアに響いていた。


 二階の応接室はソファとテーブルと、どこかの港を描いた油絵が一枚あるだけの部屋だった。ブラインドの隙間から、大通りを走るバスの屋根が見える。出された緑茶はぬるかった。


「お待たせしました。支店長の若松です」


 五十二歳。紺のスーツに、社章のついた細いネクタイ。髪が薄くなりかけて額が広く光っている。名刺を差し出す手つきは、何千回も繰り返したように滑らかだった。ソファに腰を下ろしながら、腕時計にちらりと目をやる。三十分。いや二十分で切り上げる。十一時から本店の部長と電話だ。


「伊庭興産の宍戸です。お忙しいところ、お時間をいただきまして」


「いえいえ。伊庭興産さんには長くお世話になっておりますから」


 世話してるのはこっちだ。あそこの会長は本店にばかり話を持っていく。支店はただの窓口扱いだ。


 宍戸はぬるい緑茶に口をつけた。ポケットの中で、角砂糖の包み紙が指に触れる。


 二十分で切り上げるつもりの男。銀行の支店長が社長室長などという聞いたことのない肩書きの男に、二十分しかくれない。それでいい、と宍戸は思った。二十分あれば、この男の一番奥まで行ける。


「今日は、社長からの言付けで参りました。来年以降の、御行とのお取引について」


 若松の目がわずかに動いた。


「来年から、営業所の統合と物流の一本化で、会社の資金の流れが大きく変わります。それに合わせて、社員の給与の振込口座と、全国の営業所の決済の口座を、一つの銀行にまとめたいと考えています。今は五つの銀行に分かれています。それを、御行の、この神田支店にまとめたいと、社長は考えています」


 若松の手がテーブルの上で止まった。ペンを持った指が、紙の上で宙に浮く。


 ……ほう。給与振込と営業所の決済。社員が四百人あまり。営業所が九つ。支店の預金がいくら増える。本店の部長に、言える数字だ。


「それは……ありがたいお話です」


 声が少しだけ高くなった。腕時計を見る目の動きが、止まる。


 宍戸はその変化を、釣り糸の先がぴくりと引かれる手ごたえのように感じた。


「ただし」


 湯呑みを茶托に戻した。


「それは、来年以降の新しい体制でということになります。今の体制のままでは、会長が本店とのお話を優先されますから、支店にまとめるのは難しいでしょう」


 若松の眉間に、細い溝ができた。


「本店とのお話、というのは」


 宍戸は若松の目を見た。まばたきを三つ数えるあいだ。


 本店。会長が本店と何を。俺の頭越しに、また何か。この支店に来て三年。来年の春の異動で本店の審査部に戻れなければ、俺はもう、どこかの地方の支店で終わりだ。そのためには今期の数字がいる。それと、去年のあの融資。あれが表に出なければ。


 あの融資。宍戸はもう一枚下を覗いた。


 神田の不動産屋。三億。審査を通したのは俺だ。半年後に社長が夜逃げした。焦げついたのを、担保の評価を書き換えて、まだ生きてることにしてある。監査が入れば、終わりだ。


 目をそらした。指先が冷えている。膝の上で手のひらを軽く握った。


 見つけた。


 この男にも、引き出しの奥の三枚があった。蛭田の三百万の、十倍の。それを、この男は本店にも監査にも隠したまま、毎朝この応接室で、取引先を二十分で追い返している。


 宍戸はその三億を、使わなかった。今日はまだ。握っていることを、この男に知らせる必要もない。握っている、それだけで、宍戸の声には、自然と重さが乗る。


「会長は、本店の頭取と直接、来年からの新しい社長について、お話を進めていらっしゃいます。外から、同業の大手の方をお迎えするそうです」


 若松の口が半びらきのまま止まった。ペンの先が紙の上に小さな点を一つ落とす。


 頭取と。支店長の俺を飛ばして頭取と直接。外から社長。新しい社長は本店が連れてくる。そうなれば伊庭興産の取引は全部本店の担当になる。支店には、何も残らない。


「支店長は、そのお話を、ご存じでしたか」


「……いいえ」


 ペンがテーブルのガラスに当たってかつんと鳴った。置き方が乱暴だった。


 宍戸は若松の頭の中のその小さな怒りに、指を置いた。頭越しにされた屈辱。本店へ戻れないかもしれない不安。三億の焦げつきが表に出る怖さ。三つの気持ちを、少しずつ、同じ方向へ押していく。


 ……会長さえ、いなければ。


 若松の頭の中で、その一行が、はっきりと形になった。


「社長は、お父さまの会長を、尊敬していらっしゃいます」


 宍戸はゆっくりと言った。


「ですが、会社のこれからを考えると、経営の体制を新しくする時期だともお考えです。取引銀行として、御行がそのお考えを支えてくださるなら、社長はとても心強いと思います」


「……具体的には」


「来月、臨時の取締役会を開く予定です。御行から来ていただいている社外取締役の方に、社長の方針を支持していただきたい。それと、御行がお持ちの五パーセントの株も」


 若松はしばらく黙っていた。壁の時計が十時半を指している。窓の外でバスが一台、ブレーキの音を立てて止まった。


 会長を降ろす話だ。銀行がそれに乗る。危ない。だが乗らなければ、伊庭興産の取引は全部本店に持っていかれる。俺の今期の数字はゼロだ。乗れば、給与振込と営業所の決済。社員四百人。本店の部長に言える。


 てんびんが傾いていく音がした。宍戸は指を離した。あとは若松自身の重さで、皿は下がる。


「社外取締役の件は、私から本店の審査部と人事部に話を通します。……支店から本店へ、意見書を出す形で。伊庭興産さんの経営体制の刷新は、取引銀行として望ましい。そういう意見書です」


「ありがとうございます」


 頭を下げ、顔を上げると、若松はもう腕時計を見ていなかった。約束の二十分はとうに過ぎていた。




 銀行を出ると、十一月の空が高く晴れていた。大通りの銀杏並木が黄色く色づき、風が吹くたびに葉が歩道に落ちて靴の下でかさりと鳴る。


 角砂糖の包みを開けて口に入れた。


 歩きながら、名簿の数字を並べ直す。社長と専務で、十五。持株会で、二十五。銀行で、三十。康二郎と典子で、四十八。取引先の三社で、五十五。


 過半数を、超えた。


 取締役会も数える。九人のうち、会長の側は会長と常務と、営業所出身の一人。三人。社長の側は社長と専務の四人と、銀行から来た社外取締役。六人。


 六対三。


 宍戸は銀杏の葉を一枚、靴の先で踏んだ。


 一か月前、宍戸は総務課の主任だった。蛍光灯を替え、湯呑みを下げ、課長に怒鳴られていた。その男が、今、四十四年続いた会社の創業者を降ろすための数字を、銀杏並木の下で指を折って数えている。会長の弟も、娘も、銀行も、専務も、もう宍戸の指の中に入っている。


 笑い出しそうになるのを、宍戸は角砂糖を噛み砕いてこらえた。じゃり、という音が、頭の中に響いた。




 六階でエレベーターを降りると、社長室の前の廊下で榎本が待っていた。白い封筒を一通持っている。


「社長室長。会長からです。今朝、会長室の机の上に置いてありました」


 封筒の表に、毛筆で宍戸の名前が書いてあった。墨の色が濃い。会長の字。……会長が、社員に手紙を書くなんて。


 和紙の封筒は思っていたより厚く、手のひらに少しざらついた。封を切ると、中には便箋が一枚だけ入っていた。真ん中に、毛筆で一行。


 今夜、八時。私の家へ来なさい。


 宍戸は便箋を封筒に戻した。


 口の中の角砂糖は、もう溶けきっていた。舌の上に、甘さの名残りだけが薄く残っている。


 気づいたのだ、と宍戸は思った。弟と娘と銀行。この一週間のあいだに、あの老人の足もとの土が、一度にいくつも崩れた。崩れた音を、あの老人は聞いた。そして、崩した男を呼んでいる。


 来い、と書いてあった。来てくれ、ではなく。


 宍戸は封筒を胸の内ポケットにしまった。和紙のざらつきが、ワイシャツ越しに心臓の上に当たる。心臓は少し速かった。怖さではなかった。招待状を受け取った子どもの、速さだった。


 廊下の突き当たりの会長室の扉は、閉まっていた。扉の前の観葉植物の葉が、空調の風を受けて、一枚だけゆっくり揺れていた。




第25話 了

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