第24話 「七回忌の料亭で、親族を寝返らせる」
線香の煙が、寺の本堂の高い天井に、ゆっくりと溜まっていた。
『義姉さんの七回忌か。兄貴は、今年も泣かないんだろうな』
読経の中で、一番後ろの列から、その声が聞こえた。
十一月の第二日曜。東京の西の外れの古い寺だった。本堂の畳の上に、伊庭家の親族が二十人ほど、喪服で並んで正座している。線香の煙が天井の太い梁まで細くのぼってそこで薄く広がっていた。開け放した障子の外から冷たい風が入り、蝋燭の炎を斜めに揺らす。
宍戸は本堂の一番後ろ、縁側に近い隅に座っていた。社長の付き添いとして、運転手と荷物持ちを兼ねて来ている。黒いスーツはこの日のために買ったものだ。
最前列の真ん中に会長がいた。小柄な背中が本堂の柱と同じくらい真っすぐだった。その右に秀明。左に黒い着物の女性。会長の長女で秀明の姉の、柴崎典子。四十五歳。夫の柴崎隆司と、大学四年の息子が隣に並んでいる。
さっきの声の主は、宍戸の二列前の老人だった。会長の弟で会社の相談役の伊庭康二郎。七十歳。兄より背が高く、兄より太っている。丸い肩で正座した膝の上で、数珠を指でいじりつづけていた。兄貴は義姉さんが死んだときも泣かなかった。会社の決算の数字を見てた。俺の女房が死んだときは、花だけ送ってきた。
宍戸は焼香の順番を待ちながら、親族の頭の中を一人ずつ聞いていった。足がしびれた。このあとの料亭、何が出るんだろう。兄さん、また痩せた。会長の跡は結局、秀明くんか。読経の低い声がその背景で波の音のようにうねっている。
死んだ女の七回忌だった。手を合わせている二十人の頭の中に、死んだ女のことを考えている者は、ほとんどいなかった。宍戸はその静かな薄情さが、少し可笑しかった。人は誰も見ていないと思えば、こんなにも正直になる。
会長の頭の中はここからは届かない。届かなくていい。今日、宍戸が聞きに来たのは会長ではなかった。
法要のあとは寺の近くの料亭に移った。襖を取り払った二間続きの座敷に膳が二列に並び、床の間に白い菊が一輪だけ活けてある。焼き魚と吸い物の出汁と熱燗のにおいが、部屋じゅうに漂っていた。
宍戸の席は下座の端、運転手の席だった。酒は飲まない。上座の会長まで六メートル。
康二郎が膳の前から立ちあがった。煙草の箱を手に、縁側のほうへゆっくり歩いていく。宍戸は少し間を置いて、席を立った。
縁側の外は小さな庭だった。苔の上に石灯籠が一つ立ち、植えこみの紅葉が赤く色づいている。冷たい空気に、湿った土のにおいがした。康二郎は縁側の端の柱にもたれて煙草に火をつけていた。宍戸は仲居から借りてきた灰皿を、康二郎の横の縁台に置いた。
「失礼します。社長の付き添いで参りました、宍戸と申します」
「ああ。秀明の、新しい」
白い煙が庭の冷たい空気の中でゆっくりほどけていく。秀明の腰巾着か。兄貴の差し金か。
「相談役には、いつも社長がお世話になっていると伺っています」
「世話なんか何もしてないよ。相談役なんて名前だけだ。兄貴は俺に何も相談しない」
宍戸は康二郎の目を見た。三秒。
創業のとき、半分は俺の金だった。親父の遺産を兄貴に全部渡した。兄貴は株を十パーセントだけ俺に残して、あとは全部自分のものにした。あの十パーセントだけが、俺がこの会社を作った証拠だ。兄貴はあれも欲しがってる。去年、買い取りたいって言ってきた。断った。
目をそらす。指先が少しだけ冷えた。
七十歳の老人の、五十年分の恨みだった。湿った土の下で腐らずに残っていた根。宍戸はその根の形を、手に取るように見た。どこを濡らせば、ふくらむか。
「先日、会長が、来年の株主総会の前に、株の整理をしたいとおっしゃっていました」
康二郎の煙草が指のあいだで止まった。
「整理?」
「詳しいことは、私には。ただ、ご親族の方の株を、会社で買い取る形にしたいと」
嘘ではなかった。会長の頭の中に、その考えはあった。蕎麦屋の座敷で蔵の奥のほんの端に見えた。宍戸はそれを、ここで初めて言葉にした。
また買い取り。今度は会社を使って。断れないように。兄貴は俺から最後の十パーセントまで取る気だ。
古い怒りがゆっくりと起き上がってくる。何十年も土の下で眠っていた根が、雨を吸ってふくらみはじめるように。宍戸はその怒りに、指を一本だけ置いた。ほんの少し、押す。
……兄貴の思いどおりには、させない。
康二郎は煙草を灰皿に押しつけた。ぎゅっと、何度も、必要以上に強く。
「宍戸くん、だったか」
宍戸は軽く頭を下げた。
「秀明に言っておいてくれ。叔父さんはいつでも話を聞く、と」
康二郎は座敷へ戻っていった。丸い肩が来たときより少し上がっていた。
宍戸は灰皿の中で潰れた吸い殻を見下ろした。指で潰したのは康二郎だ。だがそこまで追いこんだのは、宍戸の三十秒の世間話だった。七十年生きた男の五十年分の恨みが、三十秒で宍戸の票になった。
次は典子だった。
化粧室の前の廊下で、典子は鏡の前に立って髪の乱れを直していた。黒い着物の裾を少し持ち上げている。白檀の香りが薄く漂っていた。宍戸は鏡越しに会釈した。
「社長の付き添いで参りました。宍戸と申します」
「ああ、秀明の。あの子、最近しっかりしてきたって聞いたわ。あなたのおかげ?」
「社長ご自身のお力です」
鏡の中で目が合った。
大輝を来年、伊庭興産に入れてほしい。父さんに三回頼んで三回とも断られた。父さんは孫を可愛がらない。秀明のことも、誰のことも。会社はいずれ大輝に。秀明には子どもがいない。だったら、大輝しかいない。……父さんが死んだら、会社は秀明と私と大輝のもの。そうでしょう? 伊庭の会社なんだから。
宍戸は鏡から目を外した。
「大輝さんは、来春ご卒業ですね」
「ええ。……どうして」
「社長が、甥御さんのことを気にかけていらっしゃいました」
嘘だった。秀明は甥のことなど一度も口にしたことがない。
鏡の中で、典子の目がわずかに大きくなる。秀明が? 大輝を?
「ただ、会長は、外からお迎えする方のことでお忙しいようで」
それだけ言って頭を下げ、典子の横を通りすぎた。
「待って」
声が背中にかかった。
「外から、って何」
振り向くと、典子は鏡の前で着物の袖を握りしめていた。
「私の口からは申し上げられません。社長に、お訊きになってください」
外から。父さんが外から誰かを。……大輝じゃなく、他人を? 伊庭の会社を、他人に?
その燃えはじめた場所に、宍戸は指を置かなかった。置かなくても、火は勝手に広がっていく。典子の中には、乾いた藁が三十年分積もっていた。
廊下を座敷へ戻りながら、宍戸は、袖の中で指を一本ずつ折った。康二郎。典子。十と八。
嘘を一つ。本当のことを一つ。それだけで、会長の弟と娘が、会長の敵になった。四十四年かけて会社を作った男は、自分の家族の頭の中に、どれだけ乾いた藁を積ませてきたのか、一度も覗いたことがなかったのだろう。宍戸はそれを一日で覗いた。
座敷に戻り、下座の端の席に座った。冷めた吸い物に口をつける。出汁の味はほとんどしなかった。
しばらくして典子が戻ってきた。自分の席には戻らず、秀明の隣に膝をついて、耳元で何かを小声で言う。秀明の箸が止まった。秀明は姉のほうを向いて、小さくうなずいた。
上座で会長が盃を口に運んでいた。
盃の縁ごしに、会長の目がゆっくりと座敷を動いた。秀明と典子。康二郎。それから、下座の端の、宍戸。
六メートル。声は届かない。だが会長の目が宍戸の上で止まった時間は、ほかの誰の上よりも長かった。
宍戸は膳の小皿から黒豆を一粒、箸でつまんだ。
見られている。四十四年、誰にも負けなかった目に。その目の前で、宍戸は今日、この老人の弟と娘を、一人ずつ引き剥がした。老人はそれに気づきかけている。気づきかけていて、まだ何が起きたのかはわかっていない。
宍戸は、黒豆を口に入れなかった。箸の先でつまんだまま、小皿に戻した。
会長の目は、まだこちらを見ていた。
宍戸は目を伏せた。伏せた目の奥で、あの老人の盃が空になるまでの時間を、数えていた。
第24話 了
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