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世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


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第34話 「手首に触れた瞬間、男は泣きだした」


 『あ』


 鮫島の頭の中で、言葉はそれしか出てこなかった。


 路地の室外機が低く唸っていた。宍戸の右手は鮫島の左手首を握ったまま、鮫島の左手は宍戸のネクタイをつかんだまま、固まっていた。


 黒い一粒が宍戸の手のひらから、鮫島の手首の内側へ、するりと落ちていった。水の入ったコップに、墨を一滴落としたように。一粒は鮫島の中に沈みながら、ゆっくりと広がっていく。


 『あ。あ。あ』


 鮫島の目が大きく見ひらかれた。黒い瞳が宍戸の顔の上で止まらずに震えている。


 『怖い』


 鮫島がさっきまで抱えていた怖さとは、別のものだった。木場に殴られる怖さ。しくじる怖さ。母親の入院費が払えない怖さ。そういう、わけのある怖さではない。


 わけがなかった。目の前の男がただ、怖い。顔でも声でもない。何をされたわけでもない。それなのに、この男が世界で一番怖い。真っ暗な部屋の中で、何かが息をしている音を聞いたときのような、背骨の芯から凍っていく怖さだった。


 やだ。やだ。やだやだやだ。


 鮫島の左手がネクタイから離れ、指を開いたまま宙で震えた。宍戸は手首を離した。


 鮫島の膝が崩れた。アスファルトに尻もちをつくように座りこみ、そのまま後ろへ這い下がる。背中がゴミ置き場の金網に当たってがしゃんと鳴った。来んな。来んな。来んな。


 宍戸は一歩も動いていなかった。路地の真ん中に立ったまま、見下ろしていた。


 鮫島の喉から、ひゅう、ひゅう、と息を吸いこむ音が漏れ、それが途中から別の音に変わった。


 泣いていた。金色の髪の下で、細い目から涙がぼろぼろとこぼれ、鼻水が上唇まで垂れていた。二十四歳の男がジャージの膝を抱えて、子どものように声をあげて泣いている。怖い。怖い。母ちゃん。怖い。




 宍戸は上着のポケットに手を入れた。指がうまく動かない。指先から肩まで、凍った鉄の棒になったように感覚が遠い。紙に包んだ角砂糖を、三度目でようやくつかんだ。


 鼻の下が温かかった。手の甲で拭うと赤い。包みを三つ剥がして、角砂糖をまとめて口に入れ、噛み砕く。甘さが口から喉へ、喉から胸へ降りていき、凍っていた肩の芯が少しずつ溶けはじめる。


 今のは何だったのか。


 右手を見下ろした。鮫島の手首を握っていた手のひらは、白く乾いているだけだった。


 秋の定食屋で安達の不安を押した。あのとき、宍戸は、てんびんの皿に指を置いた。皿が空っぽの人には、何もできなかった。ゼロからは作れなかった。


 今は作った。


 鮫島の中に、さっきまでなかった怖さを、宍戸が自分の手で一つ作って落とした。それはまだ溶けずに残っている。泣き声は少しも小さくならない。安達のように、一分で元に戻ったりしない。


 あの一粒はどこから来たのか。


 手のひらから流れ出ていったとき、それは確かに、宍戸自身の中から出てきた。冷たくて、重くて黒いもの。宍戸には見覚えがあった。月曜の朝、課長の足音が廊下の向こうから近づいてくるときの、胃の底の冷たさ。会議室で名前を呼ばれる直前の、喉の奥の固さ。十二年間、毎朝吊り革につかまりながら、体のどこかに溜めこんできたもの。


 宍戸自身の怖さだった。宍戸がずっと飲みこんできた、十二年分の怖さ。


 それを、今、初めて外へ出した。他人の中に、置いてきた。


 胸の奥がすうっと広くなった。重い荷物を一つ下ろしたあとのような軽さだった。軽くなったぶん、何かが体の奥から満ちてきた。金網の前で泣いている男を見下ろしていると、その何かが、どんどん大きくなっていく。


 十二年間、宍戸の中に溜まっていた怖さが、今、宍戸の外で泣いている。


 これほど気持ちのいいことが、この世にあったのか。


 宍戸は口を手の甲で覆った。指の隙間から、笑い声が漏れそうだった。漏れたら、止まらなくなる気がした。




 宍戸は鮫島の前にしゃがみこんだ。


 鮫島がひっと息をのんで金網に背中を押しつけた。十二年間、宍戸はこうやって人に怯えられたことが一度もなかった。課の誰も宍戸の前で背筋を伸ばさなかったし、宍戸が席を立っても誰も顔を上げなかった。今、二十四歳の男が、宍戸がしゃがみこんだだけで、金網に背中を押しつけている。金網がきしんで鳴った。


 電車の吊り革にぶら下がっていた男が、車両の天井に頭がつくほど大きくなったような気がした。


「鮫島さん」


 総務課の島で、課員に仕事を頼むときと同じ、穏やかな声だった。


「お名前は、テツ、でいいですか」


 鮫島は答えなかった。泣きながら、何度も首を縦に振った。なんで俺の名前。


「テツさん。お母さんはどちらの病院ですか」


 泣き声が一瞬止まった。なんで。なんで母ちゃんのこと。


「湊浜中央病院」


 鮫島の頭の中に浮かんだ名前を、そのまま口に出した。鮫島の顔から、血の気が完全に引いた。唇が紫色になる。この人、全部知ってる。この人に逆らったら。


 宍戸は財布を出し、一万円札を五枚抜いて、鮫島のジャージの胸ポケットに四つに折って押しこんだ。


「お母さんの入院費です」


 鮫島は胸ポケットを見下ろし、それから、宍戸を見上げた。涙で濡れた細い目が、何度もまばたきをする。


 三万円で動く男には、五万円を。怖さで縛った首に、金の首輪を重ねる。両方で引けば、鎖は二度とほどけない。


「今日は、このまま湊浜へ帰ってください。木場さんには、社長は留守だった、と言ってください。来週また来る、と。それから」


 アスファルトの上の折りたたみナイフを拾った。黒い柄は冷たかった。


「明日の夜、もう一度ここに来てください。一人で。組のことを、いろいろ教えてほしいんです」


 ナイフを鮫島の手のひらに乗せる。柄に触れた瞬間、鮫島の指がびくりと跳ね、ナイフがまた落ちそうになった。宍戸は鮫島の指を上から包むようにして握らせた。鮫島の手首が宍戸の手の下でがたがたと震えていた。


 触られた。また触られた。怖い。怖い。でも。……でも、五万。


 宍戸は手を離して立ちあがり、膝の埃を払った。


「では、明日の夜に」


 裏口の扉に手をかけたとき、背中で鮫島が何かを言った。声に出して。かすれていて、ほとんど聞きとれなかった。


「……はい」


 宍戸は振り向かなかった。振り向けば、自分の顔がこの男に見えてしまう。今、自分がどんな口をしているのか、宍戸にはわかっていた。




 社長室に戻ると、榎本が扉の前に立っていた。宍戸のワイシャツの襟もとを見る。ネクタイが大きく曲がっていた。鼻の下に、血。……また。


「大丈夫です。少し、話が長くなっただけです」


 榎本は何も訊かなかった。黙って白い小皿を机に置いた。角砂糖が五つ。それから、ブドウ糖の銀色の包みが三つ。


 宍戸はブドウ糖の包みを破って口に入れた。さらさらとした甘さが舌の上で溶ける。


 窓の外を見た。ビルの谷間の細い空が、薄い灰色に曇っている。


 理由のない怖さ。ゼロから作って、相手の中に落とす、一粒の黒い何か。


 宍戸は右の手のひらを机の上で開いた。まだ指先が少し冷えている。この手の中に、十二年分の怖さが詰まっている。それを一粒ずつ、好きな相手に配ることができる。蛭田にも、峯岸にも、会長にも、配りたかった。もう遅い。だがまだ配っていない相手は、この世に山ほどいる。


 宍戸はその手をゆっくりと握った。握った拳の中で爪が手のひらに食いこむ。痛みは少し遅れてやってきた。その痛みさえ、甘かった。十二年ぶりに、宍戸は、自分の体が自分のものだと感じていた。




第34話 了

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