第22話 「『おまえなんだろ』と友人は言った」
午後二時、三階の会議室の扉が閉まった。懲戒の委員会が始まっていた。
『違う。違う。俺じゃない。なんで誰も聞いてくれない』
会議室の扉が閉まっていても、その声は、廊下にいる宍戸の耳まで届いていた。
監査が始まって十二日目の午後。五階の小会議室で懲戒委員会が開かれていた。人事部長、経理部長、総務部長の小田切、営業部長、それに外部の会計士が一人。長机の片側に五人が並び、反対側に野々村が一人で座っている。宍戸は廊下の椅子に座っていた。社長室長として、委員会の結論を社長に報告する役目だ。扉までは二メートル半。
監査の結論は三日前に出ていた。湊浜環境サービスへの支払いは、実際の処理の量に比べて著しく過大だった。取引を開拓し稟議を起こしたのは営業部の野々村康平。野々村は業者の担当者と繰り返し会食し、業者から商品券を受け取っていた。過大な請求を見逃す見返りの関係があったと考えざるを得ない。専務の峯岸は担当者の報告を信じて承認しており、監督の責任にとどまる。警察には届けない。会社の信用にかかわるから、と人事部長が言い、会長もうなずいた。
会長がうなずいたことを、宍戸は意外に思わなかった。会長は峯岸を切りたかった。だが監査の書類の中に、峯岸を切れるだけの紙はなかった。紙がなければ、あの老人は人を切れない。
紙を選んだのは宍戸だった。
会議室の中から、野々村の声が漏れてくる。今度は口から出た声だった。
「だから、商品券は届け出てます! 規則どおりに! 会食だって専務に言われて」
「専務は、そのような指示はしていないとおっしゃっています」
「そんなわけない! 専務に聞いてください、もう一度!」
誰も聞いてない。誰も俺の顔を見てない。稟議書、あれは専務が持ってきたんだ。付箋がついてた。君の開拓ということで頼むって。あの付箋、どこいった。
宍戸は膝の上で手を組んでいた。指は冷えていない。今日は何も使っていない。使う必要がなかった。並べた紙が勝手に野々村を追いつめている。
嫁に、なんて言えばいい。七か月だぞ。来月から産休なのに。……結衣。
会議室の中で椅子が床をこする音がした。
「宍戸に聞いてください。社長室長の宍戸です。あいつは総務にいたから、湊浜の請求書のことも知ってる。あいつなら、俺が何も知らなかったってわかってるはずです」
会議室がしんとなった。
宍戸。宍戸なら。あいつは俺の味方だ。
宍戸は組んだ手の中で親指をゆっくりと撫でた。
味方だ、と野々村は思っている。この期に及んでも。会社じゅうで、ただ一人、宍戸のことを最後まで信じている男が、今、宍戸の名前を、命綱のように呼んでいる。
その命綱の端を握っているのは宍戸だった。
扉が開き、小田切が廊下に顔を出した。
「宍戸くん。少し、いいかな」
会議室に入った。
長机の向こうに、野々村が立っていた。ワイシャツの襟がよれ、目の下に黒いくまが二つできている。十二日のあいだに頬の肉が少し落ちていた。いつも日に焼けて赤かった首が、今日は紙のように白い。
すがるような目だった。頼む。宍戸。言ってくれ。
「宍戸くん」
人事部長が言った。
「野々村くんは、湊浜環境サービスの請求の中身については知らなかった、と言っている。総務で請求書を見ていた立場として、何か知っていることはあるかね」
宍戸は野々村の目を真っすぐに見た。息を一つ吸って吐ききるまでのあいだ。
新人研修の夏。棚卸し。段ボール。隣で黙って数えてくれた。結婚式。スピーチ。泣いた。焼き鳥屋。なんかあったら言えよ。頼む。
宍戸は目をそらさなかった。
そらすこともできた。野々村は知っている。宍戸は嘘をつくとき目をそらさない。だから今ここで目を伏せれば、野々村は迷う。宍戸が本当のことを言っているのかもしれない、と。迷ったまま会社を去り、いつかまた焼き鳥屋で、宍戸の肩を叩くかもしれない。
それでは終わらない。野々村はこの先もずっと、宍戸を見つづける。
だから、嘘をつくときの目で真っすぐに見た。気づかせるために。十二年間、宍戸のことを誰よりもよく見てきた男に、最後にもう一度だけ、ちゃんと見せるために。
そして、見せたかった。この男にだけは今の宍戸を。
「野々村さんが、業者から何かを受け取っているところを、私は一度も見たことがありません」
野々村の目に、光が戻りかけた。
「ただ、総務では、請求書の中身の確認はしていませんでした。湊浜の件は営業の担当者が業者と話をつけている、と聞いていましたから」
光が止まった。
「野々村さんが、請求の中身を知っていたかどうかは、私にはわかりません」
会議室の中で誰かが小さく息を吐いた。会計士のボールペンが、手元の紙をかすかにこする。
野々村の口が半分だけ開いていた。何かを言おうとして声にならない。……宍戸。
宍戸は少しだけ眉を下げた。十二年かけて固めた、困ったような笑い方。型抜きのクッキーのような、あの笑い方で。
「お役に立てず、すみません」
頭を下げた。
下げているあいだ、野々村の頭の中の声がずっと聞こえていた。
『え』
『……え?』
最初は言葉にさえなっていなかった。階段を一段踏み外したときの、足の下から床が消える一瞬の空白。野々村の頭の中は、その空白のまま止まっていた。
『わからない? わからないって、なんだよ』
『おまえ、総務で全部見てたじゃねえか。専務の判子がいつも先に押してあったのも。請求書の数字も』
『なんでそれを言わないんだ。専務の判子のことを言えば、専務が先に通してたって、みんなわかるのに』
それから、声がゆっくりと形を取りはじめた。
『目、そらさなかった』
『……こいつ、嘘をつくとき、目をそらさねえんだ。新人のとき。棚卸し。課長の前で、自分が数え間違えましたって。あのときと、同じ目だ』
野々村の頭の中で、何かがぐしゃりと潰れる音がした。宍戸には、そう聞こえた。
『嘘だろ。嘘だろ、宍戸』
『稟議書。付箋。あの付箋、どこいった。総務の書庫。書庫の鍵、持ってるの、誰だ。監査の書類、揃えたの、誰だ』
ばらばらだった紙が、野々村の頭の中で一枚ずつ並んでいく。宍戸が書庫で並べたのと同じ順番で。今度は裏返しに。
『おまえか。おまえが、やったのか』
声が震えはじめた。怒りなのか、泣く寸前なのか、区別がつかない。熱い湯と冷たい水を同じコップに一度に注いだように、二つの温度がぶつかりあって渦を巻いていた。
『ふざけるな。ふざけるなよ』
『焼き鳥屋で、なんかあったら言えって、俺、言ったよな。おまえ、わかったって言ったよな』
『結婚式。スピーチ。あれも、嘘だったのか。全部、嘘だったのか。十二年、全部』
怒りの下から、もっと冷たいものが浮かびあがってくる。
『嫁に、なんて言えばいい。春には、生まれるんだぞ。結衣が』
『名付け親、おまえにしたんだぞ』
『俺、明日から、どうやって』
声が途中で途切れた。その先が言葉にならない。野々村の頭の中に、真っ暗な穴が一つ、ぽっかりと開いていた。
宍戸は頭を下げたまま、その穴の縁に立っていた。
底をのぞきこむ。どこまでも暗く、どこまでも深い。十二年分の信頼が、その穴の中へ、音もなく崩れ落ちていく。崩しているのは宍戸だった。崩れていく音を、宍戸だけが聞いていた。
背中がぞくりと震えた。会長の線が揺れた瞬間と同じ震えだった。いや、それよりも深い。会長は宍戸にとってただの壁だった。野々村は宍戸の十二年そのものだった。その十二年を、今、宍戸は自分の手で穴の底へ落としている。
宍戸は顔を上げた。
野々村の目が宍戸を見ていた。その目の中で、揺れていた全部のものが、一つに固まっていく。水が冷えて氷になっていくように。
『おまえなんだろ』
野々村はもう何も言わなかった。ゆっくり椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いて、長机の木目を見下ろした。蛭田が課長を外された朝、そうしていたのと同じ格好だった。
「ありがとう、宍戸くん。下がっていいよ」
小田切が言った。宍戸はもう一度頭を下げ、会議室を出る。扉を閉めると、野々村の頭の中の声が扉の向こうで小さくなった。
『おまえなんだろ。おまえなんだろ。ふざけるな。おまえなんだろ』
廊下を三メートル歩くと、それも聞こえなくなった。
聞こえなくなったはずの声が耳の奥に残っていた。力で聞いた声は三メートル離れればぷつりと切れる。今鳴っているのはそういう声ではない。ただの記憶だった。
宍戸は廊下の窓の前で立ち止まり、その記憶を、もう一度、最初から再生した。え。……え? から、おまえなんだろ、まで。一つも聞き漏らさないように、ていねいに。
口の中に、紙に包んだ角砂糖を一つ入れた。甘さが記憶の声と一緒に、ゆっくり溶けていった。
野々村は懲戒解雇になった。
退職金は出ない。十二年分の退職金は、営業部の机の引き出しの中身と同じくらい、あっけなく消えた。会社は野々村を訴えない代わりに、野々村も会社を訴えない。そういう書面に、野々村は最後には判子を押した。妻が臨月に入る前に、この話を終わらせたかったのだろう。
野々村が会社を去ったのはその週の金曜だった。
夕方五時。宍戸は社長室の窓から、ビルの前の歩道を見下ろしていた。
野々村が段ボール箱を一つ抱えて自動ドアから出てきた。上から、ペン立ての先と、丸めたネクタイが一本のぞいている。野々村は歩道の真ん中で立ち止まり、段ボールを抱えたまま、ゆっくりとビルを見上げた。
六階まで二十メートル以上ある。頭の中の声は届かない。それでも、野々村がどの窓を見ているのか、宍戸にはわかった。
野々村の目は社長室の窓で止まっていた。
宍戸は窓から離れなかった。ガラス越しに、野々村を見下ろしていた。
最後まで見ていよう、と決めていた。見届けたかった。この十二年が段ボール一箱になって、宍戸の視界から出ていくところを。宍戸が脱ぎ捨てた古い上着が、歩道の上を遠ざかっていくところを。
窓ガラスが額のすぐ前で外の冷たさを伝えてくる。
野々村は長いあいだ見上げていた。それから段ボール箱を抱えなおして駅のほうへ歩いていった。ガード下の焼き鳥屋の前を通りすぎ、角を曲がって見えなくなった。
見えなくなった瞬間、宍戸の腹が、きゅう、と鳴った。
昼を食べていなかった。それに気づいて、宍戸は窓ガラスの前で小さく吹き出した。十二年の友人が消えていった直後に、腹が鳴る。それが今の宍戸という男だった。
スマホの中には、まだあのメッセージが残っている。名付け親、お前ってことにしとくわ。消そうかと考えてやめた。残しておこう。いつか、ふと読み返したくなる夜があるかもしれない。
背中で社長室の扉が開いた。
「社長室長。お茶を」
榎本が湯気の立つマグカップを持っていた。見てた。窓から、ずっと。あの人が見えなくなるまで。この人は何も感じてないのかな。……違う。この人、少し、笑ってた。
宍戸はマグカップを受け取った。ほうじ茶の香ばしい湯気が、鼻の奥を温める。
「榎本さん」
榎本が自分の机の前で足を止めた。
「角砂糖を、一つもらえますか」
榎本は黙って引き出しを開けた。いつの間にか、そこには角砂糖の箱と、ブドウ糖の粒が並んで入っていた。
差し出された白い立方体を、宍戸は受けとらなかった。
「……いえ。やっぱり、結構です」
榎本の指の先で、角砂糖が一つ、行き場をなくしていた。
宍戸は額に指を当てた。窓ガラスの冷たさが、まだそこに残っていた。
第22話 了
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