第21話 「罪を着せる」
階段を上がってくる足音は、聞きおぼえのある重さだった。
『結。……いや、結衣のほうがいいか。画数が』
階段の下から上がってきた野々村の頭の中は、まだ生まれていない子どもの名前でいっぱいだった。
木曜の朝、七時五十分。二階の書庫へ下りる階段の途中で宍戸は野々村とすれ違った。片手にコンビニの袋、片手にスマホ。画面には、名前の画数を占うサイトが開いている。
「おう、社長室長。早いな。湊浜に九時。今日も直行直帰だよ」
野々村はスマホをこちらへ向けた。
「なあ、結衣ってどう思う。結ぶに、衣。嫁は結がいいって言うんだけど、俺は衣がついてるほうが女の子っぽくていいと思って」
「女の子なのか」
「先週わかった。女の子」
口もとがだらしなくゆるんだ。日に焼けた頬に、くしゃっとしわが寄る。女の子。俺に、娘。
「いい名前だと思う」
「だろ? じゃ、結衣で押してみるわ」
野々村は宍戸の肩を拳で軽く叩いて、階段を上がっていった。コンビニの袋の中で、缶コーヒーとおにぎりが擦れる音がした。
宍戸は踊り場で一度だけ足を止めた。
罪をかぶせる相手は、野々村でなくてもよかった。三年前の総務課長はもう定年で辞めている。稟議書に判子を押した営業部長でもいい。そちらのほうが話としては通りやすい。
それでも、宍戸は、三日前の夜、専務室で、野々村の名前を自分の口で言った。
理屈はいくつも並べられた。起案者の欄に野々村の判子がある。湊浜への出張も、業者との会食も、野々村が一番多い。紙の上で一番重いのは野々村だ。
だが本当の理屈は、紙の上にはなかった。
お前、最近おかしいぞ。見てるからな。
会社の中で宍戸を見ている人間は二人いた。会長と、野々村。会長は今の宍戸にはまだ大きすぎる。だが野々村なら、今週のうちに盤から降ろせる。
そして、もう一つあった。
野々村がいなくなれば、新人研修の夏に、隣で黙って段ボールを開けていた宍戸を覚えている人間は、この会社に一人もいなくなる。人に頭を下げることしか能のなかった、あのころの宍戸を。
それを思うと、胸が軽くなった。古い上着を一枚、脱ぎ捨てるような軽さだった。脱いだ上着がどこに落ちて、誰に踏まれようと、もう宍戸のものではない。
階段の上から、野々村の鼻歌が小さく聞こえていた。宍戸は手すりから手を離して残りの段を下りた。
書庫は二階の倉庫の奥にある窓のない部屋だ。鉄の棚が六列並び、会社の三十年分の紙が詰まっている。稟議書、契約書、経費の精算書、取締役会の議事録。紙と古い段ボールと乾いた埃のにおいが染みつき、天井の蛍光灯は半分しか点かない。
書庫の鍵は総務課が預かっている。社長室長になっても、宍戸は鍵を返していなかった。小田切は気にもしなかった。
会長の命じた内部監査は、来週の月曜から始まる。会計士が求める書類を揃えて渡すのは総務の仕事で、会長は、その取りまとめを社長室長に任せた。
蕎麦屋で宍戸を量った老人が、宍戸に、峯岸の首を絞める紐を渡した。その紐を、宍戸は別の首にかける。
三年前の稟議書の綴りを棚から引き出す。背表紙の埃を払うと、灰色の粉が蛍光灯の光の中に舞った。湊浜環境サービスとの取引開始の稟議書は、すぐに見つかった。起案者、営業部湊浜方面担当、野々村康平。紹介者の欄にも野々村の判子。その上に、営業部長と専務の判子。
裏に、黄色い付箋が一枚、貼られたままになっていた。ボールペンの走り書き。
野々村くん、湊浜の件、君の開拓ということで頼む。峯岸。
三年前、峯岸はこれを野々村に渡して判子を押させたのだ。若い営業に手柄を一つくれてやるような口ぶりで。野々村は喜んで押したのだろう。専務に名前を覚えてもらえた、と。
付箋の端に指をかけかけて止めた。指で剥がせば脂が残る。紙の繊維が毛羽立つ。会計士がそこまで見るとは思えないが、見ないとも限らない。
動け。
付箋の糊の面が紙から一ミリずつ、音もなく浮いていく。黄色い四角が稟議書から完全に離れ、宙に浮く。宍戸はそれを手のひらで受けた。指先が冷えた。糊を一ミリずつ剥がすのに、針の穴に糸を通すような細かい力が要った。
付箋を上着の内ポケットにしまう。
手は震えていなかった。
新人研修の夏、野々村が棚卸しの数字を間違えたとき、宍戸は課長の前で、自分が数え間違えました、と言った。あのとき、背中に回した手がずっと震えていた。嘘をつくのが怖かった。野々村をかばうためでさえ。
今は震えていない。同じ手で、同じ男を、反対の側へ突き落とそうとしている。指先は冷えているだけだった。
あの夏の震えは優しさではなかったのだ、と宍戸は思った。ただ、怖かっただけだ。課長が怖くて、嘘がばれるのが怖くて震えていた。怖さがなくなった今、この手は少しも震えない。それが本当の宍戸の手だった。
稟議書の綴りを棚に戻す。背表紙の埃についた指の跡を、ハンカチでていねいに拭った。書庫の外でフォークリフトのバック音が、ぴー、ぴー、と鳴り、遠ざかっていく。
次は経費の精算書だった。野々村の三年分の出張と会食の記録。湊浜への出張は四十一回、そのうち湊浜環境サービスの担当者との会食が十七回。どれも峯岸の指示だった。湊浜の人たちとは仲良くしておけ。野々村は焼き鳥屋でそう話していた。十七枚を一枚ずつ抜き出し、別のクリアファイルに入れる。
最後に、総務課の贈答品の受付台帳を開いた。取引先から社員に届いたお歳暮や商品券を記録する台帳で、十二年間、宍戸自身が一行ずつ書きこんできたものだ。
湊浜環境サービスから、野々村康平宛て。一昨年の暮れ、商品券五万円。去年の暮れ、商品券五万円。野々村は規則どおり、二回とも総務課に届け出ていた。届け出れば、五万円までは受け取ってよい決まりだ。
規則どおりの記録だった。だがほかの紙と並べれば、別の形に見える。
業者を開拓した担当者。業者と十七回会食した担当者。業者から商品券を受け取った担当者。その業者の請求は、実際の何十倍にもなっていた。
どの紙も、嘘はついていない。会食は本当にあった。商品券も本当に届いた。判子も本物だ。宍戸は一枚も書き換えていない。一行も書き足していない。
嘘をついているのは並べ方だった。
三つの束を見下ろしながら、宍戸は、胸の奥に熱があるのに気づいた。静かで手ざわりのある熱だった。伝票をめくり、日付をそろえ、どの紙をどの順に重ねれば読む人がどう受けとるかを考える。十二年間、蛭田の手柄になり、課の誰かの手柄になり、一度も宍戸の名前がつかなかった地味な技術。それが今、初めて、宍戸のためだけに働いている。一人の男の人生を、紙三束でひっくり返すために。
楽しかった。
ガムテープで段ボールの口を閉じる。びりびりという音が、狭い書庫の中で耳ざわりなほど大きく響いた。その音さえ、心地よかった。
夕方、専務室に寄った。峯岸が書類から顔を上げる。
「書類は」
「月曜の朝、会計士に渡します」
「……あの付箋は」
「ありません」
宍戸は内ポケットに手を入れなかった。
「最初から、なかったことになります」
峯岸は宍戸を見て目をそらした。あの付箋のことまで知ってる。三年前に俺が貼って自分でも忘れてたものを。この男には、隠しごとができない。
「会計士の聞き取りでは、野々村が強く勧めた業者だった、とおっしゃってください。湊浜で顔が利く業者だと、野々村が言っていた、と」
「……わかった」
野々村。あの若いのには、悪いことをした。
その一行が峯岸の頭の中に浮かんですぐに沈んだ。沈んだあとには、何も残らなかった。
宍戸は峯岸が自分よりずっと早く良心を沈めたことに、少し感心した。三十年会社の金を抜いてきた男でも、悪いことをした、と一行くらいは思うのだ。宍戸はその一行さえ思わなかった。
夜十時、中野の部屋。流しの前でガスコンロの火を点けると、青い炎がぼうっと音を立てた。
内ポケットから付箋を出す。野々村くん、湊浜の件、君の開拓ということで頼む。峯岸。
角を炎に近づけた。黄色い紙が端から黒く縮み、オレンジ色の小さな火が紙の上を這っていく。峯岸の字が一文字ずつ灰に変わり、「峯岸」の二文字が最後まで残ってくるりと丸まって消えた。灰を流しに落とし、水で流す。
スマホが震えた。野々村からのメッセージだった。
〈嫁、結衣でオッケーだって! 名付け親、お前ってことにしとくわ笑〉
宍戸はその文字を三回読んだ。
名付け親。
来週の月曜には、会計士が、宍戸の選んだ紙を一枚ずつめくりはじめる。二週間もすれば、野々村は会社を追われる。生まれてくる娘の名付け親が、父親の仕事を奪った男になる。
喉の奥から、笑いがこみ上げてきた。
抑えようとして抑えきれなかった。流しの縁に両手をついて、宍戸は声を殺して笑った。肩が揺れ、ガスの青い炎が、その揺れに合わせて小さく震えていた。
ひどい話だと、どこかで思った。ひどい話を、自分が書いている。そして、それを書いている自分が、こんなにも楽しんでいる。
十二年間、宍戸は、優しい男のふりをしていた。頼まれれば断らず、取り分の串も取らず、友人の結婚式で声を詰まらせる男のふりを。ふりだと気づかないまま、十二年が過ぎた。
ふりをする必要が、なくなった。それだけで、人間はこんなにも身軽になる。
宍戸は親指で、よかったな、と打った。名付け親とか、照れるな、と付け足した。送信のボタンを押す。
ガスのつまみを回した。かちり、という音がして、青い炎が消え、部屋の中が少しだけ暗くなった。暗くなった部屋で、宍戸の口の端は、まだ下がらなかった。
第21話 了
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