第20話 「専務に『助かる道』を見せてやった」
夜の七時、六階の廊下の明かりは、専務室の前だけがついていた。
『内部監査。源一郎さんが、内部監査をかけると言った』
専務室の扉の前に立つと、峯岸の頭の中は、その一行で埋めつくされていた。
水曜の夜九時。六階はほとんどの照明が落とされ、廊下の非常灯の緑色が絨毯の上にぼんやり広がっている。会長室も社長室も秘書室も暗い。専務室の扉の下の隙間からだけ、黄色い光が細く漏れていた。
昼に、榎本から聞いていた。会長と専務が会長室で二時間話していた。扉が開いたとき、専務の顔は真っ白だった。会長は秘書室の榎本に、来週から経理部と外部の会計士で特別な監査を始める、と告げた。対象は総務課を通る外注費の三年分。
会長が先に動いた。
榎本からそれを聞いたとき、宍戸の胸に来たのは焦りではなかった。思わず、口もとがゆるんだ。あの老人は峯岸を切りにかかった。切られかけた男は、誰かにすがる。今夜、峯岸の前に差し出される手は、宍戸の手しかない。
扉を二度叩いた。
返事はない。頭の中の声だけが、扉の向こうから聞こえてくる。誰だ、こんな時間に。……総務の、いや、社長室の、あの男か。湊浜の請求書に判子を押した男。
「宍戸です。失礼します」
返事を待たずに扉を開けた。
専務室は会長室より広く、社長室より狭い。机の上に書類の山とウイスキーのボトルと、氷の溶けたグラスが一つ。峯岸は壁の本棚の前に立っていた。上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、いつも撫でつけている灰色の髪が額に一筋落ちている。アルコールと、古い箪笥のような整髪料のにおいがこもっていた。
「何の用だ」
「監査のことでお話があって参りました」
峯岸の手が本棚の縁をつかんだ。知ってる。この男はもう知ってる。誰から聞いた、榎本か。……いや、そんなことはどうでもいい。
「帰れ。君と話すことはない」
「九百万のうち、二百万が、どこへ行っているか」
宍戸は扉を後ろ手に閉めた。かちり、と錠の下りる小さな音。
「監査が始まれば、会計士はまず、湊浜環境サービスの請求書と、実際のごみの量を突き合わせます。差額が大きすぎることはすぐにわかります。次に、差額の金の行き先を追います。三年分、二億を超えます」
本棚の縁をつかんだ峯岸の指の関節が、白くなっていた。どこまで知ってる。二百のことまで。口座のことまで。
「専務の個人の口座に、毎月二百万。三年で七千万を少し超えます。残りの七百万は湊浜の方々のところへ。三年前、営業所の車が三台燃えた夜から」
峯岸の顔から、残っていた血の気がすうっと引いた。グラスの中の溶けかけた氷が、からん、と崩れる。
車のことを。あれは誰にも言ってない。源一郎さんにも、警察にも。放火じゃなくて配線の事故だと。……この男は何なんだ。
峯岸は机の向こうへ回り、椅子に崩れるように座った。宍戸は机の前に立ったまま、見下ろした。
三十年、この会社の誰もが社長より先に名前を出してきた男が、宍戸の前で椅子に沈んでいる。エレベーターの中で宍戸をどうでもいいと切り捨てた男が、今、その宍戸の一言ごとに、顔色を失っていく。
峯岸の頭の中は恐怖でいっぱいだった。監査。会長。湊浜の連中。そして、目の前の、何もかも知っている男。四つの恐怖が狭い部屋の中で押し合っていた。
宍戸はその恐怖を大きくしなかった。指も置かなかった。
押せば、もっと崩れる。崩してみたい気持ちが、指の先でうずいていた。だがもう怯えきっている人間をそれ以上怯えさせても、何も取れない。追いつめられた鼠は猫を噛む。要るのは怖さではなく、出口だった。
「専務。私は専務を助けに来ました」
……何?
「監査の結論は、まだ決まっていません。三年分の書類の中には、いろいろな人の判子があります。総務課長の判子。営業の担当者の判子。専務の判子はその中の一つにすぎません」
宍戸は机の上のボトルを取り、空いたグラスの氷の上に少しだけ注いだ。琥珀色が溶けた氷の水と混ざってゆらりと揺れる。グラスを峯岸の前へ押しやった。
「湊浜環境サービスとの取引を始めたとき、稟議書に担当者として判子を押した営業がいたはずです」
峯岸がグラスを持つ。指が震えて、縁が歯に当たり、かちりと鳴った。
いた。三年前。湊浜方面の担当の若いのが。取引先を開拓したことにしてやると言って、紹介者の欄に判子を押させた。名前は確か。
宍戸は峯岸がその名前を思い出すより先に、口を開いた。
「野々村、という営業でしたね」
言った瞬間、自分の中で、何かがかちりと嵌まる音がした。
焼き鳥屋の夜、自販機の灯りの下で地図に置いた点。湊浜と、専務と、野々村。その三つが今、一本の線になった。宍戸の舌の上で、その名前は、思っていたよりずっと軽かった。
峯岸の手から、グラスが滑りそうになった。宍戸は見えない指でグラスの底をそっと支えた。峯岸は気づかない。自分の指がかろうじてつかみ直したと思っている。指先が冷える。グラス一つぶんの、小さな冷えだった。
「……君は。君は何が欲しい」
峯岸の声がかすれていた。
宍戸はその問いを待っていた。初めて峯岸の目を真っすぐに見る。壁の時計の秒針が、三つ進むあいだ。
金か。地位か。……この男はどっちでもない気がする。源一郎さんと同じ目だ。いや、違う。源一郎さんの目には、まだ温かいものがある。この男の目は楽しんでいる。俺が崩れるのを見て。
「役員会の、専務の四票です」
宍戸は言った。
「近いうちに、役員会で大事なことを決めることになります。そのとき、専務と、専務についている三人の取締役の票を、社長の側に入れていただきたい」
社長の側。……秀明の側。いや、違う。この男の側だ。源一郎さんを、降ろす気か。
峯岸はグラスの中身を一息にあおった。喉が大きく動き、グラスの底の氷が鳴る。
「監査は、どうなる」
「担当者の不正、ということで終わります。開拓の段階から、営業の担当者が湊浜環境サービスと組んでいた。専務は担当者の報告を信じて判子を押しただけ。監督の責任は問われますが、そこまでです」
「湊浜の連中への支払いは」
「二百万が減るだけで七百万は続けます。今はまだ」
今はまだ。……この男はいつか湊浜にも手を出す気だ。
峯岸は空になったグラスを机に置き、長いあいだ黙っていた。壁の時計の秒針が、こつこつと部屋に響く。
宍戸は待った。指は置かない。峯岸の頭の中で、てんびんが自分の重さだけで傾いていくのを、聞いていた。片方の皿には、会長への三十年分の恩。もう片方には、自分の首と、七千万と、湊浜の連中の笑い声。
皿が傾いた。
……源一郎さん。すまん。
「わかった。四票は君にやる」
峯岸は乱れた髪を手のひらで撫でつけた。手の震えはもう止まっていた。
「ありがとうございます。監査の書類は私のほうで整えます。専務は会計士に訊かれたとき、担当者の報告を信じた、とだけおっしゃってください」
錠を外して廊下に出た。非常灯の緑の光の中を、エレベーターホールまで歩く。
指先は少ししか冷えていなかった。今夜、宍戸はほとんど力を使っていない。グラスを一つ支えただけだ。それでも、峯岸は落ちた。
怖がらせる必要はなかった。出口を一つ見せて、その出口の先に別の男が立っていることを、黙っていればよかった。
そして、その出口の先に立たせる男の名前を、宍戸は自分の口で言った。
野々村。
エレベーターを待ちながら、もう一度、その名前を口の中で転がしてみた。重さを確かめるように。皮の串を黙って宍戸の皿に置いた手。エコーの写真を差し出した太い指。見てるからな、という声。
どれを思い出しても、名前は軽いままだった。軽いどころか、口の中で転がすたびに、角砂糖のように少しずつ甘く溶けていく気がした。会社でただ一人、昔の宍戸を覚えている男。ただ一人、今の宍戸の嘘を見抜ける男。その男を、宍戸は、自分の手で出口の先に立たせる。
上着のポケットから、紙に包んだ角砂糖を一つ取り出して口に入れた。白い立方体が舌の上で角から崩れはじめる。
エレベーターが来た。閉まりかけた扉の隙間から、廊下の奥の専務室の扉が見えた。黄色い光がまだ細く漏れていて、その中を、人影が一つ、机のほうへゆっくり動いた。
第20話 了
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