第19話 「使いすぎた。指が冷え、鼻血が出た」
午後二時、九州の取引先の部長が、伊庭興産の会議室にやってきた。
『この値段で通るなら、通しちまえ。どうせ二代目だ』
取引先の部長の頭の中は、会議室に入ってきた瞬間から、伊庭興産をなめていた。
金曜の午後二時、六階の第一会議室。大手の物流会社との契約の見直しの打ち合わせだった。営業所の統合にあわせて、全国の配送を一社にまとめる。年に四億円の契約になる。向こうは部長と課長と担当、こちらは社長の秀明と営業担当の常務と宍戸。テーブルに分厚い見積書が三部と、湯気の立つお茶が六つ並んでいた。
この一週間、宍戸はほとんど眠っていなかった。会長との蕎麦のあと、社長室の仕事は倍に増えた。秀明は宍戸がいないと電話一本かけられなくなり、朝八時から夜十時まで、宍戸は秀明の横で、秀明の迷いと相手の思惑を両方聞きつづけた。飴は一日一袋では足りなくなり、昼に板チョコを一枚、夕方に缶のココアを二本。それでも夜、部屋でシャワーを浴びると、熱い湯が肌の上で冷めていく気がした。
眠れないのは疲れのせいだけではなかった。毎晩ベッドに入るたびに、その日聞いた頭の中が、次々に浮かんできた。取引先の社長が奥さんに隠している借金。銀行の担当者が狙っている出世。経理部の誰が誰の悪口を言っているか。一日ごとに、宍戸の手の中の札が増えていく。数えはじめると、眠るのが惜しかった。
物流会社の部長は、五十代の太った男だった。腹がベルトの上にせり出し、話すたびに顎の下の肉が揺れる。声は大きく、笑い声はもっと大きい。
「いやあ、伊庭さんとこも思いきりましたなあ。全国一本化、いいことですよ。うちも、精一杯の数字を出させてもらいました」
精一杯なわけねえだろ。二割は乗せてある。常務は何も知らねえし、社長はボンボンだ。
宍戸は秀明の横で見積書をめくった。部長の頭の中の声と、表の数字を並べて読む。どの行に、どれだけ乗せてあるか。部長の頭の中は親切にも、一行ずつ思い浮かべてくれていた。三ページ目の関東の幹線便、ここが一番乗せてある、突かれたら一割は引いてもいい。九州はもともと赤字だから下げられねえ、そこを突かれたら困ったふりをすればいい。
答えの書いてある試験だった。
宍戸は手もとのメモ用紙に一行書いて、秀明の前に滑らせた。三ページ目、関東幹線、一割五分。
「関東の幹線便ですが、この単価、もう少しなんとかなりませんか。一割五分ほど」
部長の笑い声が途中で止まった。……なんでそこを。
ざわついた不安に、宍戸は指を置いた。ばれてる? いや、まさか。でも、なんでピンポイントでそこを。
「一割五分は、ちょっと……一割なら」
「一割二分で」
秀明が宍戸の二枚目のメモをそのまま読む。部長の額に汗が浮いた。宍戸は部長の不安から指を離さなかった。
面白かった。
太った男がボンボンだと思っていた社長に、一行ずつ値切られていく。そのたびに汗が増え、顎の下の肉が揺れる。宍戸は秀明の横に座ったまま、その汗の粒を数えていた。
打ち合わせは一時間半続いた。その間、宍戸は五人の頭の中を聞きつづけた。部長の不安を押し、秀明の迷いを押し、常務の余計なことを言いたい気持ちを、反対に押さえつけた。
途中で、手首まで冷えが来ているのに気づいた。
もういい、と頭の隅で声がした。もう一割二分は取った。あとは流しても、もう勝っている。
宍戸はその声を聞かなかった。九州も取れる。困ったふりをするつもりの男から、困ったふりではなく、本当に困らせてもう一行取れる。目の前にまだ取れるものが転がっているのに、手を引っこめる理由がなかった。
メモ用紙は九枚になった。
四時前、部長が折れた。四億円の契約は三億四千万円になった。年に六千万円。会議室の空気がふっとゆるみ、秀明が宍戸を見て口の端を持ち上げた。やった。また、やった。
宍戸は口の端を持ち上げ返そうとした。
唇がうまく動かなかった。
取引先を一階まで見送り、エレベーターで六階へ戻る途中だった。
壁に背中を預けると、ステンレスが背骨に沿って冷たかった。いや、冷たいのは自分の背中のほうだった。爪が紫色になり、指先から手首まで皮膚が白く乾いている。手のひらを握ろうとしても、指が半分しか曲がらない。
鼻の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。
今度は一筋では止まらなかった。顎の先まで流れ、ワイシャツの胸に赤い点がいくつも落ちる。
六階で扉が開いた。ハンカチで鼻を押さえ、廊下の端のトイレへ歩く。足が自分の足ではないように重い。床がゆっくりと傾いていく。
個室に入って扉を閉め、便座の蓋の上に座りこんだとたん、耳の奥でざあっという音がした。
砂嵐だった。その中で、社内じゅうの頭の中の声が、ぐちゃぐちゃに混ざって流れこんでくる。今日の晩、何にしよう。部長また。三時のおやつ。帰りたい。あの請求書。止められない。蛇口が壊れて水が噴き出しつづけるように、声が止まらない。耳を塞いでも、頭の内側から聞こえてくる。
宍戸は耳を塞いだまま、膝に額をつけた。
怖かった。
九月のあの朝、電車で初めて声を聞いたときより、ずっと怖かった。あのときは何が起きているのかわからなかった。今はわかっている。この力が宍戸の手から逃げ出そうとしている。指でつまんでいたはずのものが、指をすり抜けて、宍戸を呑みこもうとしている。
失いたくない、と思った。
十二年分の泥を、ようやく刃物の形にしたところなのだ。こんなところでこの刃を落としてたまるか。
どのくらいそうしていたのか、わからない。個室の扉を、誰かが叩いていた。
「宍戸さん」
榎本の声だった。口から出る声と頭の中の声が同時に聞こえる。返事がない。三十分も戻ってこない。トイレの前に血が一滴落ちてた。……この人も、壊れるんだ。
「宍戸さん。開けてください」
震える指で鍵を外す。扉が開き、男子トイレの入口で一瞬だけ足を止めた榎本が、迷わず中へ入ってきた。宍戸と、血のついたワイシャツを見て、ハンドバッグから銀色の包装の小さな四角い粒を取り出す。
「ブドウ糖です。……母が低血糖で、いつも持たされていたんです」
受け取った指が動かず、包装が破れない。榎本が宍戸の手からそれを取り、破って粒を手のひらに乗せた。
口に入れる。粉っぽい甘さが舌の上でさらさらと溶けた。
榎本はもう二粒破って渡した。三粒目が溶けるころ、耳の奥の砂嵐が少しずつ遠のいていった。声が一つずつ元の距離へ戻り、三メートルの外の声はまた聞こえなくなる。
戻ってきた。
宍戸は手のひらを握った。指がちゃんと最後まで曲がった。
榎本の頭の中の声だけが、すぐそばに残っていた。手が冷たい。氷みたい。……この人、どこか悪いんだ。いつも飴を持ってたのも、チョコばかり食べてたのも、そのせい? 誰にも言わずに、ずっと。
榎本の紹介で、その日の夕方、神田の古い内科医院に寄った。白髪の医者は宍戸の指先に小さな器械を挟み、体温計を脇に挟ませ、血を少しだけ抜いた。体温は三十五度一分だった。
「低体温と低血糖ですな。最近、食事は」
「甘いものは食べています」
「甘いものばかり食べて低血糖。おかしな話だ。甲状腺と、念のため膵臓も調べましょう。来週もう一度来なさい。それまで無理はしないこと」
来週、もう一度来ることはない。どんな検査をしても、名前のつく病気は見つからない。
帰り道のドラッグストアでブドウ糖の粒を三箱買い、レジ横に並んでいた角砂糖の箱も一つ籠に入れた。
中野の部屋で、ベッドに横になって天井を見た。
今日、何人の頭の中を、どれくらいの時間聞いたのか。何回、指を置いたのか。どこで体が止まったのか。会長の前に立ったときより、今日のほうが冷えた。会長は一人で、重い。今日は五人で、一つ一つは軽かった。だが一時間半、休みなく続けた。大勢を長く聞きつづけると、栓が抜ける。
そして、栓を抜いたのは宍戸自身だった。もういいという声を、聞かずに。
欲が出た、と宍戸は思った。取れるものを、全部取りたくなった。
その欲を、恥ずかしいとは思わなかった。ただ、欲に体が追いついていないことが、腹立たしかった。九州の一行を取るために、自分の体を一日潰した。これでは会長とも、湊浜の連中とも、やりあえない。
もっと使えるようになりたい。もっと長く、もっと多く。
宍戸は、天井を見上げたまま、右手を持ちあげた。
指が、まだ震えていた。
震える指を、宍戸は一本ずつ折った。折りながら、数えた。会長。専務。湊浜の電話の男。
三本めを折ったところで、指が止まった。止まった指の先は、白く、冷たかった。
この指で、あと何人を折れる。
第19話 了
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