第8話 スリの少年は見ていた
夜の帳が下りたラステルの街。
月明かりの下、石畳にこぼれ落ちた硬貨の鈍い輝きを、ノアは屋根の上からじっと見つめていた。
(……間違いない。狼の紋章が刻まれた、ガルディア帝国の銀貨だ)
衛兵たちは慌てて銀貨を革袋に詰め直し、荷馬車を走らせた。
ノアは息を潜め、足音一つ立てずに屋根伝いにその後を追う。
孤児として、そして赤鼠商会にこき使われるスリとして生きてきたノアにとって、夜の街を誰にも気づかれずに移動することなど造作もないことだった。
だが、以前の彼と今の彼とでは、決定的に違うことが一つだけあった。
(店主さんに教えないと。でも、口で言うだけじゃ駄目だ。証拠が要る)
荷馬車が向かった先は、衛兵詰所ではなく、街の外れにある使われていない古い石造りの倉庫だった。
ノアは見張りの死角を突き、外壁の出っ張りに指をかけてよじ登ると、高い位置にある換気窓から倉庫の内部へと忍び込んだ。
埃っぽい梁の上に腹ばいになり、下を見下ろす。
数人の衛兵が荷馬車から革袋を下ろし、責任者らしき男がランタンの明かりを頼りに、分厚い『帳簿』を開いて何やら書き込みをしていた。
(あの帳簿だ……あれに、裏金の出所が書いてあるはずだ)
ノアの指先が、無意識にピクリと動いた。
今すぐ梁から飛び降りて、あの帳簿をひったくって逃げ出したいという、スリとしての本能だ。
暗闇に紛れれば、逃げ切る自信はあった。
しかし、その時。
ノアの脳裏に、あの古びたエプロンを着た無精髭の男の、低く静かな声が蘇った。
『……盗むな。見るだけにしろ』
ノアはギュッと拳を握りしめ、盗み出そうとした手を引っ込めた。
そうだ。あのおじさんは、自分を泥棒扱いせず、真っ当に店で働かせてくれている。
その言いつけを破るわけにはいかない。
ノアは梁の上から必死に目を凝らし、ランタンの光に照らされた帳簿の文字を読み取ろうとした。
字はあまり読めないが、街角の張り紙で何度も見た、衛兵隊長『ドラン』のサインだけは分かる。
その横に、不気味な計画の名称が記されているのが見えた。
(南通り……なんだ、あれは)
さらに身を乗り出して文字の形を記憶しようとした、その瞬間。
カラリ。
ノアの足先が、梁の上に積もっていた古い木片に触れ、それが床に向かって落下してしまった。
「誰だッ!!」
乾いた音が倉庫に響いた直後、帳簿をつけていた衛兵が鋭く叫び、ランタンを頭上へ掲げた。
光が梁の上にいるノアの姿を照らし出す。
「ネズミが入り込んでやがる! 捕まえろ!」
「チィッ……!」
ノアは舌打ちし、換気窓から外へ飛び出すと、屋根に向かって全速力で駆け出した。
*
夜が明け始めたラステルの市場。
「待てこのクソガキィ!」
背後から迫る二人の衛兵の怒声に、ノアは肺が張り裂けそうになりながらも走り続けた。
朝霧が立ち込める市場の通りには、早朝の仕入れや店の準備をする商人たちの姿がちらほらと見え始めている。
助けを求めても、相手が衛兵では誰も手出しなどできない。
(くそっ……捕まったら、またあの店に迷惑が……!)
足がもつれそうになったノアが、裏通りの角を曲がった時のことだ。
そこに、一人の男が立っていた。
朝の買い出し用の籠を持った、半分閉じたような目のおっさん。
グレンだ。
「店主さ――」
ノアが叫ぼうとした口を、グレンの視線が制した。
『止まるな』。そう言っているかのように、グレンはノアを一瞥しただけで、何事もないように通りを歩き続ける。
ノアは戸惑いながらも、グレンの横を全力で通り抜けた。
直後、怒り狂った衛兵二人が角を曲がって突っ込んでくる。
「どこに行きやがった!」
グレンは直接手を出さない。
彼がやったのは、ただ自分のすぐ横、建物の間に張られていた『洗濯紐』の結び目を、指先で弾くように解いただけだ。
そこには、染物屋が早朝から干していた、巨大な一枚の『麻布』が掛けられていた。
紐の張力が失われ、巨大な布がバサリと落ちる。
それは、全速力で走ってきた衛兵二人の頭からすっぽりと被さり、彼らの視界を完全に奪い去った。
「うおっ!? な、なんだこれ!」
「前が見えねえ!」
パニックに陥り、布を振り払おうと足を止めずにもがく衛兵たち。
その足元へ。
グレンは道の端に積まれていた『空の木箱』を、革靴の爪先で軽く、しかし正確な角度で滑り込ませた。
「あびゃっ!」
視界を塞がれたまま走っていた衛兵たちは、見事に木箱に足を引っかけた。
二人の体は勢いよく宙を舞い、石畳の上を盛大に転がって、八百屋の廃棄野菜の山へと頭から突っ込んだ。
ガッシャァァン!!
派手な音と共に、衛兵たちは泥と野菜屑まみれになって無様な姿を晒す。
「お、おい見ろよ。衛兵様が布を被ってスッ転んでるぞ」
「朝っぱらから見世物小屋のピエロみたいな真似しやがって。何やってんだか」
仕込みの手を止めた商人たちから、抑えきれない失笑が漏れる。
ドランの権威を笠に着て威張り散らしていた衛兵の恐怖が、ほんの少しだけ崩れ、滑稽な笑いへと変わった瞬間だった。
その騒ぎの中心から、グレンは誰にも気づかれることなく、静かに立ち去っていた。
*
南通り、雑貨屋《からすの止まり木》。
「ノア君!? どうしたの、その泥だらけの服……!」
裏口の扉を勢いよく開けて転がり込んできたノアを見て、厨房で火を起こしていたリナが驚いて駆け寄る。
ノアは息を乱し、床にへたり込んだままガタガタと震えていた。
「俺……っ、衛兵に見つかった。裏金運んでるの、追っかけて……」
「衛兵に!?」
リナの顔が青ざめる。
自分がドジを踏んだせいで、衛兵たちがこの店を本格的に怪しみ、また嫌がらせに来るかもしれない。
孤児院に戻ることもできず、ようやく見つけた温かい居場所を、自分のせいで失ってしまう。
その恐怖と罪悪感で、ノアの目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
カラン、と表の扉が開く音がして、グレンが静かに入ってきた。
手には買い出しの野菜が入った籠を持っている。
「店主さん……ごめんなさい、俺……」
ノアがすがるように顔を上げる。
怒られる。見捨てられる。ノアが身を縮めた時。
「……盗んだか」
降ってきたのは、驚くほど静かで、平坦な声だった。
「え……? う、ううん。何も盗んでない。ただ、見ようとして……」
「そうか」
グレンはそれだけ言うと、ノアの頭に無造作に大きな手を置いた。
「……盗むな。見るだけにしろ」
「店主さん……」
「そして」
半分閉じていたグレンの目が、鋭い刃のような光を帯びる。
「見たものは、忘れるな」
ノアはハッと息を呑み、力強く頷いた。
恐怖で強張っていた心が、そのたった一言でスッと落ち着いていくのを感じた。
「忘れない。忘れるもんか」
ノアは立ち上がり、カウンターの上にあった古紙の裏を引っ張り出して、木炭を握りしめた。
「あいつら、帝国銀貨の裏金を倉庫に運んでた。それから、衛兵が持ってた帳簿……俺、字は少ししか読めないけど、ドランの名前は分かった」
ノアが不器用な文字で、必死に記憶に焼き付けた文字の形を書き出していく。
「ドランのサインの下に、こんな風に書いてあったんだ」
書き上がった歪な文字を見て、リナが息を呑んだ。
そこには、明確な悪意を持って書かれた計画の名称が記されていた。
『南通り閉鎖計画』
ドランが作り上げた衛兵隊という法を盾にした檻が、いよいよこの店と通りを孤立させ、息の根を止めようと動き出している。
グレンは無言のまま、紙に書かれたその文字を静かに見つめていた。




