第6話 この街では、衛兵に逆らえない
辺境都市ラステルを裏から支配していた赤鼠商会が壊滅し、街の人々は一瞬だけ安堵の息を吐いた。
みかじめ料を取り立てに来るチンピラは消え、路地裏で怯えていた孤児たちは解放された。
長年街を覆っていた暗雲が晴れたかのように、人々の顔には短い喜びの色が浮かんでいた。
だが、その喜びは長くは続かなかった。
悪党が消えた空白を埋めるように、すぐさま別の影が街を覆い尽くしたからだ。
「おい、聞いたかい。衛兵隊が赤鼠商会の拠点を封鎖して、残っていた帳簿や証拠品を全部持っていっちまったらしいぞ」
「ああ。『証拠保全』とか何とか言ってたらしいが……。それに、解放された孤児たちを『保護』するって名目で、片っ端から収容所に押し込もうとしてるらしいじゃないか」
市場の片隅で、商人たちが声を潜めて囁き合っていた。
彼らの顔に浮かんでいるのは、赤鼠商会を恐れていた時と同じ、いや、それ以上の深い怯えだった。
「どうして衛兵がそんなことを……。悪党が捕まって、子どもたちは自由になったんじゃないのかい?」
「しっ、声が大きい! ……口封じだよ。商会と癒着してた衛兵どもが、自分たちの悪事がバレないように証拠を隠滅して回ってるんだ」
通りに面したパン屋の前で、マルタ婆さんが焼きたてのパンを並べながら、重いため息をついた。
彼女の店にも、今朝早くに衛兵がやってきて、みかじめ料の代わりに法外な『治安維持費』を要求していったのだ。
「なら、どうして誰も抗議しないんだ? 衛兵隊長に直訴すれば……」
「馬鹿言っちゃいけないよ。相手はこの街の法そのものだ」
マルタ婆さんは、ほうきで路地の土埃を掃きながら、苦々しげに吐き捨てた。
「逆らうと営業許可を止められるんだ。商売道具を差し押さえられちまったら、私たちは明日から生きていけやしない。この街じゃあ、誰も衛兵には逆らえないのさ」
権力という名の見えない鎖が、人々の首を静かに、そして確実に締め上げていた。
*
その日の午後。
南通りにある雑貨屋《からすの止まり木》の店内は、重苦しい緊張感に包まれていた。
「……店主さん」
カウンターの奥で、リナが不安げな声でグレンの背中を見た。
店の裏手にある生活スペースには、ノアをはじめとする数人の孤児たちが息を潜めて隠れている。衛兵たちの『保護』から逃れるためだ。
カラン、と入り口の鈴が乱暴に鳴らされた。
土足で踏み込んできたのは、数名の完全武装した衛兵たちと、その先頭に立つ一人の男だった。
仕立ての良い制服を隙なく着こなし、腰には装飾の施された剣を下げている。
ラステルの治安維持を一手に担う衛兵隊長、ドラン・メイザーだ。
「おや、客がいないようだな。辺境の雑貨屋というのは、随分と気楽な商売らしい」
ドランは店内をねっとりとした視線で見回しながら、冷笑を浮かべた。
「……何の用だ」
カウンターで古釘の仕分けをしていたグレンが、半分閉じたような目をドランに向ける。
ドランは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、見せつけるように広げた。
「治安維持のための調査だ。最近、この南通りで盗品が売買されているという通報があってな。赤鼠商会の残党が持ち込んだ品が、この店に流れていないか確認させてもらう」
それは明らかな言いがかりだった。
だが、ドランの手にある書類には、代官の代理を示す正式な印が押されている。合法的な嫌がらせだ。
「おい、調べろ。怪しいものがないか、隅々までな」
ドランが顎でしゃくると、部下の衛兵たちが下品な笑いを浮かべながら店内に散らばった。
「あっ、ちょっと! 乱暴に扱わないで!」
リナが悲鳴を上げる。
衛兵たちは陳列された木箱をわざと蹴り飛ばし、瓶詰めの保存食を床に転がして笑っている。
彼らは暴力ではなく、合法的な捜索という名目で店を破壊し、グレンたちを精神的に屈服させようとしていた。
グレンは無言のまま、荒らされる店内を見つめていた。
怒鳴ることも、拳を握ることもしない。
ただ、彼の冷たい視線は、衛兵たちの『足元』に静かに注がれていた。
衛兵たちの真新しい革靴の底。
そこには、べっとりと黒い泥がこびりつき、白い灰と、黄色い香辛料の粉末が混ざって付着していた。
(……泥と、灰。それにウコンの粉か)
それは、グレンが赤鼠商会の倉庫を襲撃した際、床にばら撒いたものと全く同じ成分だった。
彼らが商会の倉庫に出入りし、何らかの証拠隠滅、あるいは裏金の回収を行っていた確たる証拠だ。
「隊長、こんなものがありましたぜ」
一人の衛兵が、カウンターの奥に回り込み、リナがつけていた『売上帳』を乱暴に取り上げた。
「返して! それはお店の帳簿です!」
「うるせえな。これも立派な証拠品だ。違法な取引の記録がないか、詰所でじっくり調べさせてもらう」
衛兵がリナを突き飛ばし、売上帳を脇に抱えようとした、その時だった。
「……足元が留守だぞ」
グレンの静かな声が響いた。
その瞬間、カウンターの下に張り巡らされていた細い『裁縫糸』が、グレンの指先のわずかな動きによってピンと張られた。
糸は、衛兵が身を乗り出したことで無防備になっていた腰の剣帯――その留め具の隙間に、正確に滑り込んでいた。
カチャリ。
極めて小さな金属音が鳴る。
糸の張力を利用して、剣帯の金具が弾き外された音だ。
「あ?」
衛兵が間抜けな声を上げた直後。
重い長剣が、鞘ごと衛兵の腰から滑り落ち、石の床にガシャン! と派手な音を立てて叩きつけられた。
「うおっ!?」
突然の出来事に驚いた衛兵が、見苦しく飛び退いて尻餅をつく。
脇に抱えていた売上帳が宙を舞い、グレンがそれを静かにキャッチしてカウンターへ戻した。
「な、何をしやがった貴様!」
床に倒れた衛兵が顔を真っ赤にして叫ぶが、グレンはただの雑貨屋の親父として、無表情に見下ろすだけだった。
「……剣帯の手入れもできないのか。危ないから拾って帰れ」
「て、てめえ……っ!」
傷一つ負っていないが、仲間の前で剣を落とし、尻餅をつかされた衛兵は、これ以上ないほどの屈辱に顔を歪めた。
暴力を使わず、完全に相手の面子だけを潰したのだ。
「……やめろ。見苦しい」
ドランが冷たい声で部下を制止した。
彼はグレンの底知れぬ静けさに、直感的な警戒心を抱いていた。この男は、ただの雑貨屋ではない。
「今日のところは引き上げだ」
ドランは部下たちをまとめ、店の出入り口へと向かう。
そして、扉に手をかけたところで立ち止まり、肩越しにグレンとリナを睨みつけた。
「……いいだろう。貴様らがその気なら、徹底的に法の手順を踏んでやる」
ドランは冷酷な笑みを浮かべ、街全体に響き渡るようなよく通る声で告げた。
「明日から、この南通りは衛兵隊の『特別監視区域』とする。不審な動きがあれば、直ちに営業許可を取り消す。……せいぜい、大人しくしていることだ」
扉が重い音を立てて閉まる。
ドランの宣言は、すぐに風に乗って街中へと広がり、ラステルの街は深い絶望と沈黙に包まれた。




