第56話 皇帝の玉座
分厚い鋼と魔術でコーティングされた巨大な扉が、重々しい音を立てて開いた。
その先に広がるのは、ガルディア帝国の心臓部たる『玉座の間』。
部屋全体が、床に刻まれた赤黒い魔法陣によって薄暗く発光している。
その最奥。周囲を圧するような黄金の玉座に、皇帝レオニス・ガルディアが腰掛けていた。
「……よくぞ辿り着いた、王国の古き犬よ」
レオニスの声は、魔力によって増幅され、部屋の四方八方から反響するようにグレンを包み込んだ。
頭上に輝く王冠、豪華なマント、そして圧倒的な魔力の波動。彼は一人の人間ではなく、帝国という歴史と暴力そのものを具現化したような威容を誇っていた。
「私の帝都を内側から掻き回し、軍を混乱させた手腕は見事だ。だが、貴様は所詮、王国の暗部で汚れ仕事を押し付けられていた『古い道具』に過ぎん。……違うか?」
レオニスの見下すような言葉に、グレンは半分閉じた目のまま、血と泥に汚れた革コートの襟を正した。
「……否定はしない」
グレンは極めて平坦な声で答えた。
「俺は英雄じゃない。王都の法が捨てたゴミを処理するだけの道具だった。……だがな」
グレンの視線が、レオニスの頭上の王冠と、足元の魔法陣へと向けられる。
「俺の店に来る客を泣かせた悪党は、その道具で『後始末』されるんだよ」
その言葉を合図に、レオニスの口元が残虐に歪んだ。
「ならば、その古びた刃が私に届くか試してみるがいい! 『炎よ』!」
短い詠唱と共に、玉座の間全体を覆う魔法陣が激しく発光した。
通常の魔術師とは比較にならない、膨大で純度の高い魔力が、大蛇のような炎のうねりとなってグレンへと襲いかかる。
玉座の間そのものが、皇帝の魔力を増幅し、無限に供給する巨大な魔導具として機能しているのだ。
「……チッ」
グレンは咄嗟に横へと跳躍したが、凄まじい熱風が彼の頬を焼き、革コートの一部を焦がした。
息をつく暇もない。炎の蛇は生き物のように方向を変え、再びグレンを追尾してくる。
「どうした、黒縄! いつも通り私の喉を潰しに来ないのか! それとも、帝国の神威の前に足がすくんだか!」
レオニスが玉座から高笑いを上げる。
グレンは炎を避けながら、床を転がり、柱の陰へと身を隠した。
彼の呼吸は荒く、左腕の傷跡から再び血が滲み出ている。
皇帝の魔法は、これまで相手にしてきたどの魔術師よりも桁違いに強い。
しかも、玉座の間に張り巡らされた結界のせいで、グレンがこれまでに仕込んできたはずの「準備」が、全く機能していないように見えた。
「……無駄だ。この玉座の間は、私の命と直結した神域。貴様のような下賤な道具の小細工など、一切通用しない!」
レオニスが指を鳴らすと、炎の蛇が柱をへし折り、グレンを再び広間の中心へと引きずり出した。
「そろそろ終わらせてやろう。……出よ、影列!」
レオニスの命令が響き渡った瞬間。
玉座の背後にある暗がりから、音もなく複数の人影が現れた。
六人の男たち。
彼らはすべて、顔も、体格も、そして纏っている魔力の波長すらも、玉座に座る皇帝レオニスと完全に一致していた。
皇帝の命を肩代わりし、不死の神話を支える『影武者』たちだ。
「貴様は街で、私の影を一つ見破ったそうだな。ならば、この六人の中から本物を見つけてみせろ。……できるものならな!」
七人のレオニスが一斉に杖を構え、膨大な魔力を練り上げ始める。
どこから攻撃が来るのか、誰を狙えば魔法陣の連鎖が止まるのか、並の人間であれば絶望するしかない光景だ。
だが。
グレンは半分閉じた目のまま、七人の皇帝たちの『足元』を静かに見回した。
「……右から三番目。お前、左足の親指の付け根にタコがあるな」
「……なっ!?」
グレンの唐突な指摘に、右から三番目にいた『皇帝』の魔力集中が、ほんの一瞬だけブレた。
「お前は歩く時、無意識に左足の内側に体重をかける癖がある。そのせいで、靴底の『内側』が削れている。……どんなに強力な幻術で皇帝の顔を真似ても、染み付いた歩き癖までは消せない」
グレンはエプロンのポケットから、無造作に『分銅』を繋いだ糸を取り出し、手首のスナップを効かせて放った。
シュッ!
分銅は一直線に飛び、動揺して魔力集中が途切れていた「右から三番目」の影武者の右膝を正確に砕いた。
「ぎゃあっ!?」
膝から崩れ落ちた影武者の顔から、魔力の膜が剥がれ落ち、平凡な男の素顔が露わになる。
同時に、玉座の間を満たしていた圧倒的な魔力圧が、不協和音を立てて一段階低下した。
神の如き完璧な同期を見せていた影武者の陣形。その神話のベールが、またしてもただの『靴底の減り方』という生活の癖によって破られたのだ。
「……貴様ぁっ! 私の影列を愚弄するか!」
玉座に座る本物のレオニスが、怒りに顔を歪めて立ち上がった。
だが、その瞳にはまだ、絶対的な自信が宿っている。
「良いだろう! ならば、貴様に絶望を与えてやる! 我が真なる力、帝国の歴史がもたらす『永遠』を見るがいい!」
レオニスが両手を高く掲げる。
その瞬間、彼の頭上に輝く『王冠』の魔石が、部屋の魔法陣と共鳴し、目を開けていられないほどの強烈な真紅の光を放ち始めた。
「……」
グレンは分銅の糸を引き戻し、無言のままその光を見据えた。
皇帝の不死魔法。その真の恐ろしさが、ついに玉座の間で顕現しようとしていた。




