第58話 からすの止まり木
ガルディア帝国の中枢で起きた未曾有の混乱は、またたく間に広大な領土全土へと波及した。
各地で将軍や皇族が互いを疑い、軍事力を内側へと向けた結果、帝国は完全に内乱状態へと陥り、アルヴェン王国への侵攻能力を完全に喪失した。
ほどなくして、王国中央は高らかに『勝利』を宣言した。
国境の脅威が去り、王都の広場では連日連夜、平和を祝う宴が開かれている。
だが、その華々しい勝利の記録のどこを探しても、一人で帝国の機構を完全に破壊した男の名前は残されていない。
『黒縄の執行人』。
その都市伝説は、かつてと同じように再び歴史の闇へと静かに消えていった。
*
王国西端の辺境都市、ラステル。
南通りの一角にあるさびれた雑貨屋では、平和な朝の陽光の下で、二人の子どもが脚立に乗って悪戦苦闘していた。
「ノア、そこちょっと右! 看板が曲がってる!」
「分かってるよ! でもこの釘、古くて真っ直ぐ入らねえんだって!」
店番の少女リナが下から的確な指示を飛ばし、元スリの少年ノアが金槌を片手に文句を言いながら看板の修理をしている。
二人の賑やかなやり取りは、この南通りのすっかり見慣れた日常の風景だった。
「ほら、二人とも。少し休憩にしましょう」
そこへ、向かいの薬屋から未亡人のセラが歩み寄ってきた。
彼女の手には、湯気を立てる温かい薬草茶の入った水差しと、いくつかの木組みのコップが握られている。
「あ、セラさん! ありがとうございます」
リナが笑顔で駆け寄る。相変わらず少し苦味のある薬草茶だが、今ではすっかり店のみんなの好みの味になっていた。
「あら、お茶の時間ですか。私もいただいてよろしいかしら」
不意に店の奥から、豪奢な王都の制服に身を包んだ監察官イリスが姿を現した。
「イリスさん、まだ王都に帰らなくていいんですか? 内通者の調査は終わったんでしょう?」
「……灰冠局の解体にともなう、関連資料の『証拠保全』という重要な任務が残っていますから。当分はこの街に滞在しますよ」
リナのツッコミに対し、イリスは涼しい顔で、すっかり使い古した言い訳を口にした。
「なんだいなんだい、朝から店の前で集まって」
さらにそこへ、香ばしい匂いを漂わせながら、近所のパン屋のマルタ婆さんがやってきた。
彼女の腕の中には、大きな籠に山盛りの焼きたてパンが抱えられている。
「ちょうどいい、朝ごはんのパンを持ってきたよ。……まったく、あの無愛想な店主はいつまで店を空けてるんだい。パン代がツケのままで困るんだよ!」
マルタ婆さんが腰に手を当ててわざとらしく怒ってみせる。
その時だった。
「……婆さん。朝から騒がしいぞ」
通りの向こうから、少し眠そうな、ひどく聞き慣れた低い声が響いた。
リナ、ノア、セラ、イリス、そしてマルタ婆さんが一斉に振り返る。
そこには、無精髭を生やし、少し猫背で、いつもの古びたエプロンを身につけた五十手前の男が立っていた。
グレン・ガロウズ。
帝国という巨大な怪物を一人で解体した男は、まるで近所の市場に大根を買いに行っていたかのような、気負いのない足取りで皆の前に戻ってきた。
「店主さん!」
リナが真っ先に駆け寄り、そのエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。
少しだけ潤んだ目を隠すように、彼女は頬を膨らませて上目遣いでグレンを睨みつける。
「店主さん、また勝手にどこか行きましたね」
「……仕入れだ」
グレンは半分閉じた目のまま、短く、いつも通りの言い訳を口にした。
「帝国まで?」
ノアが脚立から飛び降りてきて、ニヤニヤと笑いながら突っ込む。
「……少し遠かった」
グレンは短く答え、ノアの頭を無造作に撫でた。
セラが静かな微笑みを浮かべて薬草茶を差し出し、イリスが安心したように肩の力を抜き、マルタ婆さんが「さっさとパン代を払いな!」と笑い飛ばす。
そこには、血の匂いも、陰謀も、巨大な国家の影もない。
ただ、グレンが何よりも守りたかった『温かい日常』が、完全に元の姿のまま彼を迎え入れていた。
「おじちゃん、お店開いてる?」
グレンが店のカウンターに入った直後、貧民街の幼い子どもが小銭を握りしめてやってきた。
「……ああ」
子どもが銅貨を一枚カウンターに置き、ガラス瓶の中から飴を一つ選ぶ。
グレンは無言のまま瓶に手を入れると、色鮮やかな飴玉をもう一つ掴み出し、子どもの小さな掌に『おまけ』として乗せた。
「わあ、ありがとう、おじちゃん!」
子どもは嬉しそうに笑い、飴を握りしめて走っていった。
「店主さん、また勝手に値引きしましたね」
リナが腕を組み、わざとらしくため息をついて見せる。
グレンは答えない。ただ、少しだけ口元を緩め、エプロンのポケットに手を突っ込んだだけだった。
店の外から見上げれば、ノアとリナが打ち直した看板が静かに揺れている。
そこにはただ『雑貨屋《からすの止まり木》』とだけ書かれている。
悪党お断りなどの大層な文句も、落書きもない。外から見れば、ただのさびれた、どこにでもある辺境の雑貨屋だ。
ただし、一つだけ変わったことがある。
入口の木枠に取り付けられた、小さな『鈴』だ。
かつて、この店の鈴は、入ってくる客の体重や歩幅、踏み込みの癖を床板の軋みで正確に読み取るため、音が出ないように細工されていた。
だが、新しく取り付けられたその鈴は、扉が開くたびに『チリン』と、澄んだ高い音を響かせる。
もう、音もなく踏み込んでくる悪意に備え、神経を研ぎ澄ませて待つ必要はないからだ。
「……さて」
グレンはほうきを手に取り、無精髭を少しだけ掻いた。
「店を開けるぞ。ノア、表の掃除だ」
「へーい」
「リナ、売上帳の計算は終わっているな」
「当然です! 今日もきっちり稼いでもらいますからね!」
チリン、と。
平和な南通りに、新しい鈴の音が優しく響き渡る。
辺境都市ラステル。
そのさびれた雑貨屋には、子どもに飴をおまけし、未亡人に薬草を売り、孤児に掃除を教える、一人の眠そうなおっさんがいる。
そこは、もう誰も泣くことのない、黒縄の執行人が最後に見つけた『からすの止まり木』だった。




