第55話 玉座に上がる前に
ガルディア帝都の地下深くに広がる、廃棄された巨大な水路跡。
その暗がりの中で、グレン・ガロウズは一枚の羊皮紙の裏に、炭で複雑な図形と文字を書き殴っていた。
帝都に潜入し、処刑部隊との交戦を経て、グレンはついに皇帝レオニス・ガルディアが誇る「不死の魔法」の構造を解き明かしつつあった。
書き出された図形は、帝城の最奥にある『玉座の間』の平面図だ。
(……玉座の間そのものが、巨大な魔法陣になっている)
グレンは炭の先で、部屋の四隅と中央の玉座を線で結んだ。
皇帝が玉座に座ることで、その陣は起動する。さらに、皇帝の頭上に戴く『王冠』が、膨大な魔力を制御するための『鍵』として機能している。
そしてもう一つ。帝国全土に散らばる『影武者(影列)』たちの存在。彼らは単なる身代わりではなく、皇帝が受けるはずの致命傷を肩代わりする『命の器』として、魔法陣と王冠を通じてリンクしているのだ。
陣、鍵、そして器。
そのどれか一つでも欠ければ、不死の魔法は崩壊する。
だが、具体的にどこをどうやって潰すのか。
王都の暗部さえも到達できなかったその神殺しの術式を前にして、グレンの顔には焦りも気負いもなかった。
「……届いたか」
グレンが顔を上げると、暗闇の中から一匹の黒い犬が足音を殺して近づいてきた。
帝都の貧民街を縄張りとする野良犬だが、その首輪には、ラステルから商人の手を経て密かに運ばれてきた小さな革袋が括り付けられていた。
グレンは犬に干し肉の欠片を与え、革袋を解き開いた。
中から出てきたのは、三つのささやかな品だった。
一つ目は、セラの薬師としての知識が詰まった『特殊な薬草袋』。
二つ目は、ノアが帝国の暗号を解読して結び目を作った『太い糸』。
そして三つ目は、イリスが王都の文書係ミレーユから取り寄せた、帝室特注の『封蝋の成分表』。
いずれも、この巨大な帝都を崩壊させるような派手な兵器ではない。
辺境の小さな雑貨屋に集う者たちが、それぞれの生活の中で培った、ささやかで確かな知恵の結晶だった。
「……十分だ」
グレンは薄明かりの下で、それらの道具を取り出した。
薬草の匂いを嗅ぎ、糸の結び目を指でなぞり、封蝋の成分表に目を通す。
そして、彼は誰にも見せることなく、ただ一人で黙々と『小さな準備』を始めた。
手元で何が組み合わされ、どのような仕掛けが作られているのか。その全貌は、まだ闇の中に隠されていた。
*
数時間後。
帝都の職人街にある、ひっそりとした工房。
そこは、歴代の皇帝の装飾品を手がけてきた王冠職人の仕事場だった。
「いい加減にしろ、この老いぼれが!」
工房の中で、豪華な軍服を着た帝国の役人が、白髪の職人を床に蹴り倒していた。
「皇帝陛下は、明日の朝までに新しい王冠の予備を三つ用意しろと仰っているのだ! できないだと? ならば貴様の孫娘を最前線の慰安所に送るぞ!」
「そ、そんな無茶な……! あの王冠の魔石の細工は、私一人では一ヶ月はかかる代物で……!」
「口答えをするな!」
役人は激昂し、懐から抜き放った短い魔導杖を、職人の商売道具である精密な彫金机へと向けた。
「この工房ごと燃やしてやる。炎よ――」
役人が短い詠唱を紡ぎ、杖の先端に熱が集まりかけた、その瞬間。
「……他人の仕事場を荒らすな」
背後の窓から音もなく忍び込んでいたグレンが、無造作に腕を伸ばした。
彼の手には、先ほどの準備で持ち出していた『硬い封蝋の塊』が握られている。
グレンはその封蝋の塊を、熱を持ち始めた役人の魔導杖の先端に、上から蓋をするように力強く押し付けた。
ジュウッ!
「なっ!?」
杖の熱で一瞬にして溶けた封蝋が、魔力を放射するはずだった杖の先端の隙間に流れ込み、瞬時に硬化して完全に目詰まりを起こした。
行き場を失った熱量の暴走。
杖の内部で魔力が弾け、小さな爆発が役人の右手の中で起こった。
「ぎゃあああっ!?」
役人が悲鳴を上げて杖を取り落とす。
グレンはすかさず一歩踏み込み、役人の顎を掌底で跳ね上げ、その意識を刈り取った。
ドサッ。
白目を剥いて倒れた役人を見下ろし、グレンは静かに息を吐いた。
床に倒れ込んでいた職人は、震える瞳でその光景を見上げていた。
「あ、あんたは……」
「……怪我はないな」
グレンは職人に手を差し伸べ、立ち上がらせた。
職人はグレンの無精髭と、その首元に見える古い傷跡を見て、ハッと息を呑んだ。
「その出立ち……噂に聞く、黒縄の執行人か。皇帝陛下に牙を剥いているという……」
「……」
「……皇帝は狂っている。自分の不死を完成させるために、何人もの優秀な弟子たちが魔力抽出の儀式で使い潰された。……あんた、皇帝を殺しに行くんだな?」
職人の目には、恐怖よりも深い憎しみと、祈りのような光が宿っていた。
「私の工房を、好きに使ってくれ」
職人は深く頭を下げ、作業場を譲った。
グレンは無言のまま頷き、様々な工具や宝石、そして『王冠の予備部品』が並べられた彫金机の前へと歩み寄った。
机の上には、皇帝の権力の象徴である王冠の土台と、それを彩る無数の装飾品が散らばっている。
グレンは半分閉じた目でそれらを観察し、エプロンのポケットから手を伸ばした。
そして、机の上にあった『何か』を、そっと手に取った。
彼が何を選び、どのような細工を施したのか。
職人でさえその手元を見ることはできなかった。
「……処刑台の部品は、揃った」
グレンは工房を後にし、夜明け前の冷たい風が吹く帝都の通りへと歩み出した。
その視線の先には、空を突くようにそびえ立つ帝城が、黒々としたシルエットを描いていた。
*
帝城の最奥部。
幾重にも施された結界と防壁に守られた『玉座の間』。
床には、血のように赤い染料で描かれた巨大で複雑な魔法陣が、脈打つように淡い光を放っている。
その中心、黄金の玉座に深く腰掛けているのは、皇帝レオニス・ガルディアだ。
彼の頭上には、魔力で輝く豪奢な『王冠』が乗せられている。
その威容は、もはや人間というより、歴史という概念そのものが受肉したかのような絶対的な存在感を放っていた。
「……来たか」
玉座の間の巨大な扉の向こう側。
何百人という近衛兵の断末魔と、近づいてくるただ一人の静かな足音を、レオニスは確かに聞き取っていた。
皇帝の口元が、傲慢で残虐な笑みの形に歪む。
「来い、黒縄」
玉座の魔法陣が、持ち主の闘気に呼応してさらに強く発光する。
「余が直々に、貴様を処刑してやる」
世界で最も恐ろしい処刑台が、今、最後の一人を迎え入れようとしていた。




