第54話 帝国処刑部隊
帝都の中心にそびえ立つ帝城。
その地下へと続く、冷たく湿った石造りの回廊を、グレン・ガロウズは一人、静かに歩みを進めていた。
だが、彼が玉座へと続く階段に足をかけようとしたその時。
回廊の前後から、音もなく十数個の影が滲み出るように姿を現した。
漆黒の装束に身を包んだ男たち。彼らの足音は完全に消え、呼吸のタイミングすら一つに同期している。
帝国宰相マクシミリアンが放った、帝国の真の暗部たる『処刑部隊』。
グレンは半分閉じた目で、彼らをぐるりと見渡した。
彼らの目には、怒りも、憎しみも、恐怖すらも存在しない。あるのはただ、命じられた標的を『処理』するという機械的な意志だけだ。
(……かつての、俺と同じ目だ)
王都の暗部で《黒縄の執行人》と呼ばれていた頃、グレンもまた、あのような空っぽの目をしていた。
守るものが何もない。失うものが何もない。だからこそ、死を恐れずに標的を殺すことができる『完璧な処刑人』の目。
「標的を確認。これより、罪人を処理する」
部隊長らしき男が、一切の抑揚のない声で告げた。
その瞬間、十数名の黒装束が一斉にグレンへと襲いかかった。
魔法の詠唱などない。彼らは純粋な殺戮の技術だけで、グレンの死角を完全に塞ぐように刃を突き出してくる。
グレンは半歩身をよじって最初の刃を躱したが、今回の彼の手元には、いつものような店の商品がほとんど残っていなかった。
長い潜入と工作の末に残された持ち物は、裁縫用の『針と糸』、セラの作った『薬草袋』、そして非常食の『乾パン』と、気付け用に買った安物の『酒瓶』だけ。
「遅い」
部隊長が、グレンの動きの先を読み切ったように踏み込んできた。
彼の両手に握られた双剣が、恐るべき速度で交差する。
グレンは後方に跳躍したが、完全に躱しきることはできなかった。
ザシュッ!
「……っ」
鈍い音と共に、グレンの革コートが引き裂かれ、左腕から脇腹にかけて真っ赤な血が噴き出した。
刃の浅くない一撃。グレンが明確な深手を負うのは、この戦いにおいて初めてのことだった。
「……動きに迷いがある。お前の刃は、ひどく鈍っている」
部隊長は血塗られた双剣を構え直し、無感情な瞳でグレンを見据えた。
「昔の『黒縄』は、もっと冷酷だったと記録にある。……お前はもはや、ただの年老いた男に過ぎない」
部隊長が再び、必殺の踏み込みを見せた。
だが、傷を負ったグレンの目には、焦りも絶望もなかった。
「……昔の俺なら、そうだったかもな」
グレンは右手で懐の『酒瓶』を掴み出すと、自分に向かってくる部隊長の双剣目掛けて、それを全力で叩きつけた。
ガシャンッ!
酒瓶が粉々に砕け散り、度数の高い強いアルコールが空中に飛沫となって散乱する。
部隊長は一瞬だけ目を細めたが、その歩みを止めない。
だが、グレンの左手には、すでに粉々に砕かれた『乾パンの粉末』が握られていた。
グレンはそれを、酒の飛沫が舞う空間に向けて力一杯撒き散らした。
「なっ……!?」
極度に乾燥した硬いパンの微粒子が、アルコールの揮発成分と混ざり合い、部隊長の目と鼻の粘膜に強烈にへばりついた。
「が、はっ! ゲホッ、ゴホッ……!」
感情を殺した処刑人であっても、生理的な反射までは殺せない。
激しい痛みと呼吸阻害により、部隊長はたまらず足を止め、激しく咳き込んだ。
その一瞬の隙。
グレンは一切の躊躇なく部隊長の懐へと潜り込み、右手の中で『針と糸』を閃かせた。
シュッ!
極太の裁縫糸を通した鋼の針が、部隊長が着ている黒装束の袖口の硬い布地を貫き、そのまま彼の腰の帯の金具へと縫い付けられた。
「あ……?」
部隊長が双剣を振り上げようとした瞬間、腕が腰に固定されたまま動かない。
さらにグレンは手首を返し、もう片方の腕の布地も同じように縫い合わせ、強烈に引き絞って固定した。
「ぐっ……拘束、された……!?」
部隊長が体勢を崩して膝を突く。
グレンはそのまま一歩下がり、自らの左腕と脇腹の傷口に、セラの『薬草袋』を強く押し当てた。
激痛が走る。だが、その薬草の強い匂いと苦味は、彼をただの殺人鬼ではなく、帰るべき場所を持つ『雑貨屋の店主』として、確かにこの世界に繋ぎ止めていた。
「……何故だ」
拘束され、動けなくなった部隊長が、床に這いつくばりながらグレンを見上げた。
その空っぽだった目に、初めて明確な動揺が浮かんでいた。
「俺たちは、死を恐れない。感情もない。……なのになぜ、お前のように迷いのある男に負けた?」
グレンは薬草袋で傷を押さえたまま、半分閉じた目で部隊長を見下ろした。
「……迷いじゃない。重さだ」
グレンの脳裏に、リナの怒る顔、ノアの生意気な笑み、セラの静かな眼差し、マルタ婆さんの小言がよぎる。
「俺は、お前たちのように空っぽじゃない。……帰る場所があるから、絶対に死ねないだけだ」
その言葉を聞き、部隊長は大きく目を見開いた。
そして、ゆっくりと息を吐き出し、負けを認めるように目を伏せた。
「……そうか。お前はもはや、ただの処刑人ではないのだな」
部隊長は、かすれた声で呟いた。
「お前は……『守るものを持った処刑人』だ」
周囲を取り囲んでいた処刑部隊の部下たちが、隊長の敗北を見て一斉に武器を構え直した。
「待て。手出しは無用だ」
だが、グレンは彼らに向けて、一枚の羊皮紙を懐から取り出して見せた。
それは先ほどの交戦の最中、グレンが部隊長の懐からスリ取っていた『処刑命令書』だった。
「……お前たちは、帝国の法と命令にのみ従う機構だ。感情を持たず、ただ命令書という紙切れの記述通りに動く」
グレンはその命令書を両手で持ち、彼らの目の前で真っ二つに引き裂いた。
ビリッ。
「……命令書は破棄された。お前たちにはもう、俺を処刑する正当な権限がない」
破かれた紙片が、冷たい石の床にハラハラと舞い落ちる。
「罪人処理」という名目を失った処刑部隊の男たちは、互いに顔を見合わせ、やがてゆっくりと武器を下ろした。
彼らを突き動かしていたシステムそのものを、グレンは論理的に解体したのだ。殺すまでもなく、彼らはもう動けない。
「……見事だ、黒縄」
膝を突いたままの部隊長が、グレンを見上げて言った。
彼は死を免れたことへの感謝ではなく、ただ自らの使命が終わったことへの確認として、一つだけ言葉を残した。
「……我々を束ねる皇帝陛下は、その先の『玉座の間』におられる」
部隊長は、感情のない瞳で奥の巨大な扉を見つめた。
「だが、玉座の間で、皇帝は死なない。……『王冠』と『影列』が揃う限り、あの方は不滅だ」
皇帝レオニス・ガルディアの持つ、不死の魔法。
その恐るべき条件の断片だけを言い残し、部隊長は静かに目を閉じた。
「……そうか」
グレンは血に染まったコートを翻し、部隊長を一瞥することもなく、玉座へと続く重い扉へ向かって歩き出した。
守るべき日常を取り戻すための、最後にして最大の処刑が、今始まろうとしていた。




