第53話 皇族たちは疑い合う
ガルディア帝国の巨大な情報網は、完全に麻痺していた。
魔術通信塔の異常による命令の混線は、前線の軍隊だけでなく、帝都で権力闘争を繰り広げる皇族や将軍たちの間にも深刻な疑心暗鬼を生み出していた。
「通信が届かないだと!? では、東部方面軍の将軍と交わした密約はどうなる!」
「申し上げます! 第一皇子殿下の陣営から、我々の軍資金を横領したという告発文がバラ撒かれています!」
帝都のあちこちの屋敷で、怒号と悲鳴が飛び交っていた。
その混乱の火種を撒き散らしたのは、一人の雑貨屋だった。
グレンは帝都に潜入して以来、各陣営から抜き取った『密約文書』や『裏帳簿』の断片を、夜の闇に紛れて別の陣営の玄関先や執務室に放り込んでいた。
もちろん、ただ本物を流出させるだけではない。グレンはそこに、かつて王都で王命処刑を隠蔽するために使われていた『偽造の技術』を応用し、本物と偽物を絶妙なバランスで混ぜ合わせていた。
「……疑え。疑って、内側から崩れろ」
帝都を見下ろす時計塔の陰で、グレンは半分閉じた目のまま、あちこちで火の手が上がり始めた貴族街を静かに見下ろした。
皇帝レオニスが恐怖で支配してきた強固な帝国は、互いを信じられないという『不信』という名の毒によって、自らの内臓を食い破るように粛清と同士討ちを始めていた。
だが、権力者たちの争いは、必ず末端の民衆に皺寄せをもたらす。
「おい、兵士たちが強制捜査に来るぞ! 逃げろ!」
「ダメだ、大通りは封鎖されている!」
疑心暗鬼に陥った軍隊が、互いのスパイを炙り出そうと無関係な市街地にまでなだれ込み始めていた。
逃げ惑う民衆が路地裏に追い詰められ、泣き叫ぶ声が響く。
グレンはそれを見捨てるつもりはなかった。
彼は時計塔を降りると、事前に目を付けていた帝都の裏路地にある『空の荷馬車』と、商人から安く買い叩いておいた『大量の芋と干し肉』の元へ向かった。
「……こっちだ」
グレンは路地裏で震えていた数人の家族連れを、手招きして荷馬車の陰へと誘導した。
「あ、あんたは……?」
「……ただの雑貨商だ。この荷車の下に隠れろ。そのまま東の門まで引いてやる」
グレンは荷台の床板を外し、そこに二重底の空間を作っていた。
怯える民衆をその中に押し込め、上から食料の袋を積んでカモフラージュする。
「……声を出すなよ」
グレンは無精髭の顔を隠すように外套のフードを深く被り、荷馬車を引いてゆっくりと歩き出した。
暴徒と化した兵士たちが何度か彼を誰何したが、荷札に書かれた『第三軍・糧食』の文字と、グレンが堂々と差し出した『将軍の(偽造)許可証』を見て、舌打ちしながら道を開けた。
兵士同士が互いを疑っている状況下では、別の部隊の補給物資に下手に手を出すことはできない。グレンは軍隊の心理的な死角を突き、巻き込まれそうになった民衆を街の外へと逃がしていった。
*
一方、その頃。
王国西端の辺境都市ラステルでも、静かな戦いが始まっていた。
「リナちゃん! 隣の街から、帝国の内乱を逃れてきた難民の家族が着いたよ!」
マルタ婆さんが、ボロボロの服を着た数人の親子を連れて《からすの止まり木》へと駆け込んできた。
帝国内部の混乱は、国境を越えて隣接する王国の辺境にも波及し始めていた。
「はい! 奥の倉庫を空けてあります。そちらへ案内してください!」
リナは売上帳から顔を上げ、テキパキと指示を出した。
「セラさん、傷の手当てをお願いします! ノア、毛布と水を持ってきて!」
「おう、任せとけ!」
《からすの止まり木》は、もはやただの寂れた雑貨屋ではなかった。
店主のグレンが残した「店を休業にするな」という言葉を守り、リナたちはこの店を、助けを求める人々を受け入れる『避難所』として機能させていた。
「……ありがとう。本当に、助かった」
温かい薬草茶を飲んだ難民の母親が、涙ぐみながらリナの手を握った。
リナは優しく微笑み返し、彼女の背中を撫でた。
「うちの店主さんが言ってたんです。この店は、誰かを泣かせる場所じゃないって」
王都最恐の元処刑人が守り抜いた、小さな雑貨屋の温かい日常。
そのささやかな善意は、店主の不在の間に、街全体を包み込むほどの大きな力へと育っていた。
*
帝都の高級住宅街。
皇帝の甥であり、次期後継者の座を狙っていた悪徳皇族、ヴァレリウス公爵は、自身の広大な屋敷の執務室で震え上がっていた。
「な、なぜだ……なぜ私の金庫から、反逆の証拠が出てくる!」
彼の目の前には、帝国憲兵隊の冷酷な将校が立ち塞がっていた。
「ご自身で制定された『匿名密告制度』の成果ですよ、閣下。あなたの側近から、あなたが皇帝陛下を暗殺するための資金を隠し持っていると、確かな証拠付きで密告がありました」
「ち、違う! それは私が用意したものではない! 誰かの罠だ!」
ヴァレリウスは悲鳴を上げたが、憲兵たちは冷たい目で彼を取り押さえた。
「あなたの金庫の鍵は、あなたしか持っていないはずだ。言い逃れは無用。連行しろ」
ヴァレリウスが自身の政敵を蹴落とすために作った、証拠さえあれば匿名で相手を破滅させられる密告制度。
その理不尽なシステムを利用し、グレンは彼自身の金庫に『偽の反逆文書』を仕込んでいたのだ。
「放せ! 私は皇族だぞ! こんな理不尽が許されると……!」
「あなたがこれまで、無実の者たちにやってきた理不尽と同じですよ」
憲兵に引きずられていくヴァレリウスの姿を、屋根の上から見下ろしていたグレンは、小さく鼻を鳴らした。
自分で作った処刑台の縄が、自分の首に巻き付く。
悪党が自らの罪の重さで自滅していくその光景に、グレンは一切の同情を抱かなかった。
「……これで、帝都の防衛を担う主要な将軍と皇族は、半分が消えた」
グレンは手元の偽造文書の残りを夜風に散らし、帝都の中心、一際高くそびえ立つ帝城へと視線を向けた。
周囲の堀を埋め、外壁を崩した。
残るは、玉座に座る怪物ただ一人。
だが。
グレンが帝城へ向けて歩き出そうとした、その時だった。
「……見事な手際だ、と言っておこうか」
背後の暗がりから、低く、重圧を伴った声が響いた。
グレンが振り返ることなく立ち止まると、路地の奥から、帝国の軍服の上に豪奢なマントを羽織った初老の男が姿を現した。
その後ろには、一切の気配を消した十数名の黒装束の男たち――帝国の真の暗部たる『処刑部隊』が控えている。
「帝国の内臓を食い破り、軍を麻痺させたネズミ。……まさか、王都の旧式の偽造技術と、ただの雑貨の知識でここまでやるとはな」
男は帝国宰相、マクシミリアン。
皇帝レオニスの右腕であり、狂気に満ちた帝国の中で唯一、極めて冷徹な計算能力を保っている男だった。
「お前の動きは、他の愚物たちには見えなかったかもしれない。だが、私には見えていたぞ。すべての混乱の中心にいる、一本の黒い縄がな」
マクシミリアンが手を軽く挙げると、黒装束の処刑部隊が音もなく散開し、グレンの退路を完全に塞いだ。
「……処刑人」
宰相の言葉に、グレンはゆっくりと振り返り、半分閉じた目で彼らを真っ直ぐに見据えた。
「お前の死因は、皇帝陛下の神話に触れたことだ。ここで塵となれ」
皇帝の懐へと至る最後の扉の前で。
ついに、帝国最強の刃が、グレンの命を刈り取るために振り下ろされようとしていた。




