第51話 影武者は靴底で分かる
ガルディア帝国の中枢に近い、城塞都市の広場。
そこは今、熱狂と畏怖に包まれていた。
「見よ! 皇帝陛下が我々の街に降臨されたぞ!」
「おお……なんという威厳だ。東の国境に現れたという噂は本当だったのか」
「昨日までは南の砦を視察されていたはず。たった一日でこの距離を移動されるなど、まさに神の御業!」
広場の中央にしつらえられた豪奢な天幕の下。
黄金の装飾が施された軍服を纏い、威圧的な冷気を纏って座る男――帝国皇帝レオニス・ガルディアの姿に、民衆は平伏し、あるいは歓喜の声を上げていた。
帝国では、皇帝が同時に複数の場所に現れるという現象が『不死と全能の神話』として語り継がれ、民衆と軍隊を恐怖と崇拝で縛り付けている。
だが、群衆の後方、薄暗い路地裏からその光景を半分閉じた目で見つめる男がいた。
グレン・ガロウズ。王国西端から単身で帝国の喉元まで潜入した、元処刑人だ。
(……くだらない)
グレンの視線は、天幕の下で傲慢にふんぞり返る『皇帝』の顔ではなく、その足元――大理石の床を踏みしめている『靴底』に注がれていた。
皇帝の顔や声、骨格に至るまでは、帝国の高度な幻術と肉体変化の魔法で完全に再現されている。並の人間や魔法使いでは、絶対に見破ることはできない。
だが、グレンは魔法を見るのではなく、魔法使いの『生活』を見る。
(……歩幅が本物より三センチ狭い。そのせいで、靴底の『外側』が偏って減っている。さらに、軍服の左肩の皺の入り方。右利きの本物なら、あそこに深い皺は入らない)
雑貨屋として日々客の歩き方や靴の減り方、服の擦り切れ具合を観察し、床板の軋みで体重を量るグレンの目にとって、その偽装はあまりにも杜撰だった。
さらに、グレンの鼻は、その男から漂う微かな香油の匂いを嗅ぎ取っていた。
(……本物は松脂ベースの強い香油を使う。だが、あいつから微かに漂うのは、安物のフローラル系の匂いだ。幻術で顔は変えられても、染み付いた生活の匂いまでは消せていない)
グレンは路地裏の壁から静かに背中を離した。
「……偽物に、膝を突く必要はない」
*
天幕の下では、影武者の皇帝が傲慢な声で演令を下していた。
「我が帝国は、愚かなアルヴェン王国を必ずや浄化する。そのためには、より一層の物資と兵力が必要だ! この街の全世帯から、明朝までに規定の三倍の血税を徴収せよ!」
「さ、三倍!? 陛下、それでは冬を越せずに餓死者が出ます!」
街の代表者である老人が悲鳴を上げるが、影武者は冷酷に鼻で笑った。
「帝国の礎となるのだ、本望であろう。逆らう者は反逆罪として、この場で首を刎ねるぞ」
護衛の兵士たちが槍を構え、広場は一瞬にして絶望と恐怖に支配された。
権力を傘に着た、弱い者いじめ。
その光景は、辺境の街でグレンが最も嫌悪するものと同じだった。
「……おい」
突如として、天幕の真横からひどく平坦な声が響いた。
いつの間にか、無精髭に古びた革コートを着た男が、厳重な警備をすり抜けて天幕の柱のすぐ脇に立っていたのだ。
「なっ、貴様! どこから入り込んだ!」
護衛の兵士たちが慌てて槍を向けるが、グレンはそれを完全に無視し、玉座に座る影武者を真っ直ぐに見据えた。
「……お前、右足の小指にマメができているな」
「は……?」
唐突な指摘に、影武者が虚を突かれたように固まる。
「歩幅に合わない軍靴を無理に履いているせいで、体重が外側に逃げている。だから靴底の外側だけが減り、小指に負担がかかる。……歩き方が、不自然だ」
「き、貴様! 皇帝陛下に向かって不敬な……!」
「お前は皇帝じゃない。ただの偽物だ」
グレンの言葉が、広場に響き渡った。
民衆が息を呑む中、影武者の顔が激しい怒りと焦燥に歪んだ。
「殺せ! その不敬な輩を今すぐ八つ裂きにしろ!」
影武者が立ち上がり、指を突きつける。
だが、その動作によって左肩の軍服が引っ張られ、不自然な皺がさらに深く刻まれた。
グレンは迫り来る兵士の槍を半歩で躱すと、エプロンの下から『染料の入った小瓶』を取り出し、影武者の顔面に向かって無造作に投げつけた。
パチンッ!
小瓶が影武者の額で割れ、真っ赤な染料が顔全体にぶち撒けられる。
「ぎゃあっ! 目が、目がぁっ!」
影武者が顔を押さえて蹲る。
その瞬間、染料の化学成分が、影武者の顔を覆っていた『幻術の魔力膜』と反発し、不快な音を立てて魔力を霧散させた。
「あ……」
「な、なんだあれは……!」
染料が洗い流したその下から現れたのは、威厳ある皇帝の顔ではなく、ひどく平凡で、恐怖に歪んだ中年の男の素顔だった。
「……嘘だろ」
「皇帝陛下じゃ、ない……?」
民衆の間に、信じられないものを見たというざわめきが広がる。
同時に各地に存在し、すべてを見通す神のような存在。その神話が、たった一つの染料の瓶によって、完全に音を立てて崩れ去ったのだ。
「う、動くな! 俺は皇帝陛下の名代だぞ!」
正体を暴かれた男は、腰の剣を抜いて狂乱したように周囲を威嚇した。
だが、その声に最早、神の威厳は微塵も残っていない。
グレンは音もなく男の背後に回り込み、持っていた『革紐』を男の剣を持つ手首に巻き付け、強烈に引き絞った。
「がはっ!」
男が剣を取り落とし、そのまま石畳に引き倒される。
「……人の顔を被って威張るなら、せめて靴のサイズくらい合わせておけ」
グレンは倒れた男の背中を革靴で踏みつけ、冷たい声で告げた。
魔法のヴェールを剥ぎ取られ、生活の癖から偽物と暴かれた小悪党は、もはやただの無様な罪人でしかなかった。
「……偽物だ! あいつは俺たちから税をだまし取ろうとしたんだ!」
「捕まえろ! インチキ野郎め!」
神の威光が消え去った瞬間、民衆の恐怖は怒りへと変わり、彼らは一斉に天幕へと押し寄せてきた。
護衛の兵士たちも、偽物を守る大義名分を失い、武器を下ろして後ずさるしかない。
この地域の過酷な徴税は、偽物の失脚によって完全に白紙に戻った。
魔法を発動するまでもなく、日常の観察眼によって暴かれた神話の嘘が、民衆を暴力から解放したのだ。
*
数分後。
混乱する広場から離れた路地裏で、グレンは気絶した影武者の首ぐらをつかみ、壁に押し当てて目を覚まさせた。
「……本物は、どこだ」
グレンの低い声に、影武者は恐怖で歯の根を鳴らしながら答えた。
「ひ、ひぃぃ……っ! 俺はただの替え玉だ! 本物の居場所なんて、知らされているわけがない!」
「なら、影列の通信の同期はどうやっている。どうやって複数の偽物を同時に動かしている」
「し、知らない! 俺たちはただ、王冠の魔石から命令を受信して動いているだけだ!」
影武者は涙と染料で顔をぐしゃぐしゃにしながら、絶望的な笑みを浮かべた。
「……無駄だ、黒縄。あんたが俺たち偽物を何人潰そうが、あの御方には絶対に届かない……」
男の瞳の奥には、グレンへの恐怖以上に、皇帝レオニスに対する根源的な畏怖が刻み込まれていた。
「本物の皇帝陛下は……もう、人間ではないんだからな」
その言葉に、グレンは半分閉じた目をわずかに細めた。
皇帝は人間ではない。
ノアが読み取った暗号の断片。「皇帝は、本物が一人ではない」。
グレンは影武者を路地に放り捨て、暗い帝都の空を見上げた。
神話を被っただけの偽物は暴いた。だが、その神話の奥底で蠢く本物の怪物は、まだその全貌を見せていない。
処刑の時間は、刻一刻と近づいていた。




