第50話 王都からの細い糸
辺境都市ラステル、《からすの止まり木》の薄暗い店内。
営業を終えたカウンターの奥では、王都監察官イリスとスリの少年ノアが、数枚の羊皮紙を挟んで向かい合っていた。
羊皮紙には、王都の連絡役ミレーユから送られてきた暗号通信の写しが並べられている。
「……ミレーユの調査で、王都中枢から帝国へ向けて、定期的に極秘の通信鳥が飛ばされていることが分かりました。しかし、この暗号の法則がどうしても解けません」
イリスが眉間を揉みながら息を吐く。
王国が使う一般的な暗号ではない。それは帝国軍が用いる特殊な文字列だった。
「貸してみろよ、姉ちゃん」
ノアが羊皮紙を引き寄せ、指先でその文字列をなぞっていく。
かつて犯罪商会で使われていた頃、ノアは生きるために大人が落としたメモや密書の断片を「見る」訓練を積んでいた。さらに、先日帝国工作員からスリ取った地図の裏にあった暗号の法則が、彼の頭の中には焼き付いている。
「……ここ。この記号の並び、前に見たのと同じだ。『黒』と『縄』……つまり店主さんのことだ。で、こっちの連なりが『北の谷』で……『待ち伏せ』」
「なんですって?」
イリスの顔色が変わる。
「王都の内通者が、グレンさんの移動ルートを帝国側に横流ししたのね。……帝国国境を越えた先にある『北の谷』で、帝国の処刑部隊が彼を待ち受けている」
グレンは帝国へ向かったばかりだ。このまま進めば、間違いなくその谷を通ることになる。
「知らせなきゃ! でも、どうやって……」
店番のリナが不安そうに声を上げた。
王国の公式な早馬を使えば、内通者に握り潰される。かといって、伝書鳥ではグレンの正確な位置を特定できない。
「……私に、心当たりがあります」
店の奥から、薬師のセラが小さな包みをいくつか抱えて出てきた。
「明日、国境を越えて帝国の商業都市へ向かう行商人がいます。彼は私の亡き夫の恩人で、この街の住人なら無条件で助けてくれる信頼できる男です」
セラは持ってきた包みをカウンターに置いた。
「これには、帝国特有の毒や麻痺に対する抗毒薬と、気付け薬が練り込まれています。……商品に紛れ込ませて、グレンさんに届けてもらいましょう」
「待って、セラさん。ただ薬を送っても、店主さんは『北の谷』の罠に気づかないよ」
リナが言うと、ノアがニヤリと笑ってエプロンのポケットから『丈夫な麻紐』を取り出した。
「だから、俺がこの紐で商人の荷物を梱包する。……店主さんにしか読めない『手紙』にしてな」
ノアは麻紐に、不規則な間隔で小さな結び目をいくつも作っていった。
それは、かつてグレンがノアに「スリの指先の感覚」を鍛えさせるために教えた、古い裏社会の符丁。結び目の数と間隔を指でなぞるだけで、暗闇でも文字が読めるという特殊な技術だった。
「……頼んだぞ、店主さん」
ノアは祈りを込めて、最後の結び目を固く引き絞った。
王都、帝国、そして辺境の街。
巨大な力と力が交差する盤面で、残された者たちは決してただの傍観者ではなく、遠く離れた戦場へ確かな『糸』を繋ごうとしていた。
*
数日後。
ガルディア帝国領内、国境近くの宿場町。
冷たい雨が降る中、古びた革のコートを着たグレンは、市場の軒下で雨宿りをしていた。
彼の半分閉じた目は、行き交う人々や荷馬車を静かに観察している。
やがて、一台の泥まみれの荷馬車が、王国方面から宿場町の広場へと入ってきた。
御者台に座っているのは、見覚えのある行商人だ。
グレンは顔を下けたまま、自然な足取りで荷馬車の方へと近づいていった。
「おや、そこの旦那。雨宿りかい? 王国の珍しい品があるんだが、見ていかないか?」
行商人が気さくに声をかけてくる。
グレンは無言のまま荷馬車の脇に立ち、商品を覆っている防水布を固定するための『麻紐』に、そっと指先を這わせた。
(……)
グレンの指が、麻紐に作られた微かな結び目の凹凸を正確に読み取っていく。
『キ』『タ』『ノ』『タ』『ニ』『ワ』『ナ』『ア』『リ』
「……ノアの奴」
グレンの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
単なる足手まといではなく、彼らはこの過酷な状況の中で情報を引き出し、国境を越えて的確な警告を届けてきたのだ。
グレンは紐の結び目から指を離すと、行商人が差し出した木箱の中から、ごく自然な動作で『小さな薬包』を一つ買い取った。セラの調合した抗毒薬だ。
「……良い品だ。もらっていく」
グレンは銅貨を数枚渡し、雨の中へと歩き出した。
彼が向かうのは、当初予定していた『北の谷』のルートではない。
*
その日の深夜。
『北の谷』と呼ばれる切り立った岩肌の底で、帝国諜報部《銀狼機関》の暗殺部隊が、冷たい雨に打たれながらひたすら標的を待ち受けていた。
谷の両側には、極細の鋼線が幾重にも張り巡らされ、触れれば岩石が降り注ぐ罠が仕掛けられている。
さらに、高所には毒矢を番えた狙撃手が配置され、完全な死地が構築されていた。
「……遅いな。王都からの内通情報によれば、今日の夕刻にはここを通過するはずだが」
部隊長が苛立ち気に舌打ちをした。
この谷は、国境から帝都へ向かうための最短ルートであり、地形的に迂回することは不可能に近い。必ずここを通るはずだった。
「隊長! 後方の監視哨から連絡が途絶えました!」
伝令の兵が血相を変えて駆け込んでくる。
「なんだと!? こんな雨の中でどういうことだ!」
部隊長が怒鳴り声を上げた、その時だった。
谷の底に仕掛けられていた罠の起爆装置である『鋼線』が、パラリ、と足元に落ちてきた。
切断されたのではない。留め具の金属ピンが、ごく自然に『抜き取られて』いたのだ。
「なっ……罠が、解除されている!?」
慌てて周囲を確認するが、標的の姿はどこにもない。
ただ、ぬかるんだ泥の上には、谷の底を悠々と通り抜け、部隊の『背後』の尾根へと登っていった男の足跡が、雨に打たれて微かに残っているだけだった。
「ば、馬鹿な……! いつの間に我々の背後に!?」
「追え! 急いで尾根へ向かえ!」
部隊が慌てて谷を這い上がろうとするが、急斜面の泥に足を取られ、泥まみれになって滑り落ちる。
彼らはグレンと戦うことすらできず、ただ無人の谷底で泥まみれになりながら、標的がすでに遥か先へと進んでしまった事実を突きつけられたのだ。
王国西端の小さな雑貨屋から伸びた一本の『細い糸』が、帝国精鋭の完璧な待ち伏せを、ただの泥遊びへと変えていた。
*
帝国領をさらに奥へと進む、薄暗い獣道。
雨の上がった夜空の下、グレンは立ち止まり、懐から切り取ってきた『麻紐』の端を取り出した。
市場で読み取った伝言には、まだ続きがあったのだ。
グレンの指先が、結び目の凹凸をなぞっていく。
それはノア自身も完全に理解できていないまま、帝国暗号から直訳して結びつけたであろう、不気味な文章の断片だった。
(……)
グレンの半分閉じた目が、暗闇の中で鋭く細められた。
そこには、帝国皇帝レオニス・ガルディアの異常性を表す、たった一文が記されていた。
『コウテイハ ホンモノガ ヒトリデハナイ』
皇帝は、本物が一人ではない。
それは単なる影武者の存在を示す言葉なのか、それとも、皇帝が自らにかけたという不死の魔法の核心なのか。
「……なるほどな」
グレンは麻紐をエプロンのポケットに深くしまい込み、巨大な帝都の方角へと視線を向けた。
どれほど巨大な怪物であろうと、種があれば必ず殺せる。
王国最恐の元処刑人は、一切の気負いもなく、ただ静かに死地へと歩みを進めた。




