第49話 染料は嘘を嫌う
ガルディア帝国の国境を越え、さらに奥へ進んだ場所にある商業都市。
かつては活気に満ちていたであろう石畳の大通りは、今や重苦しい空気に支配されていた。
「皇帝陛下の勅命である! 街の倉庫にある小麦と塩は、すべて第一軍が徴発する!」
広場の中央で、ふんぞり返った帝国の徴発官が羊皮紙を高く掲げて怒鳴っていた。
背後には重武装の兵士たちが控え、怯える商人や市民たちから強引に荷車を奪い取っている。
「お待ちください! それは私たち家族が冬を越すための……!」
「うるさい! これは皇帝陛下の聖戦を支えるための供出だ。逆らう者は反逆罪で処刑するぞ!」
すがりつく老婆を、徴発官は容赦なく軍靴で蹴り飛ばした。
周囲の民衆は怒りと悲しみに顔を歪めるが、圧倒的な暴力と「皇帝の命令」という絶対的な権威の前には、ただ俯くことしかできなかった。
その光景を、群衆の後ろから半分閉じた目で見つめている男がいた。
古びた革のコートに身を包んだ、無精髭の雑貨屋――グレン・ガロウズだ。
(……皇帝の勅命、か)
グレンの視線は、徴発官が掲げている『命令書』の文字に注がれていた。
遠目からでも、彼にはその文字を書くために使われたインク――『染料』の質がはっきりと見えていた。
(……赤みがかった黒。煤に混ぜられた油の比率が多い)
グレンは街を歩きながら、建物の壁や掲示板に貼られている他の布告文や命令書をいくつも観察していた。
同じ「皇帝名義」で出されているはずの書類。しかし、使われている染料の色合いや滲み方が、明らかに三つの系統に分かれていたのだ。
一つは、先ほどの赤みがかった黒。
もう一つは、青みがかった黒。
そして、水に溶けやすく安価な、純粋な黒。
雑貨屋として日々染料を扱っているグレンにとって、それは明白な事実を告げていた。
皇帝が直接下した命令書ならば、宮廷で使われる最高級の統一された染料が使われるはずだ。それが三種類も存在する理由は一つしかない。
(……帝国内部の将軍どもが、互いに皇帝の名を騙って偽造命令書を乱発している)
皇帝レオニスは恐怖で部下を支配しているが、その恐怖ゆえに、功績を焦った将軍たちが他部隊を出し抜こうと偽造に手を染めているのだ。
軍隊としての統率が取れているように見えて、その内実は疑心暗鬼と足の引っ張り合いに満ちている。
「……脆いな」
グレンは短く呟き、静かに路地裏へと姿を消した。
*
その夜。
徴発官たちが接収した物資を保管している、街の外れの軍営。
グレンは音もなく防壁を乗り越え、徴発官が寝泊まりしている天幕へと侵入した。
机の上には、明日別の街区で使うための「皇帝の命令書」が束になって置かれている。
グレンはエプロンのポケットから、小さな小瓶をいくつか取り出した。
中には、彼が市場で調達した染料と、特定の成分を溶かすための『溶剤』が入っている。
「……染料は嘘を嫌う」
グレンは極細の筆を使い、一番上に置かれた命令書の文字に、透明な溶剤を薄く塗り重ねていった。
さらに、別の将軍の陣営からくすねてきた「青みがかった黒」の染料で書かれた偽造命令書を、束の間に数枚紛れ込ませる。
帝国の将軍同士は互いの偽造を疑い合っている。もし、自分の陣地に「別の将軍が偽造した命令書」を持った小役人が現れたらどうなるか。
グレンは一切の物理的な破壊を行わず、ただ染料と紙の配置を少しだけいじり、夜の闇へと溶けていった。
*
翌日の昼下がり。
徴発官は部下を引き連れ、今度は街の南区画へと乗り込んでいた。
「皇帝陛下の勅命である! この区画の保存肉はすべて我々第三軍が……」
彼が誇らしげに命令書を広げた、その時だった。
通りを挟んだ向こう側から、豪華な甲冑に身を包んだ一団が現れた。この地域を管轄する別の将軍の部隊、第一軍の憲兵たちだ。
「おい、そこの徴発官。貴様、今なんと言った?」
冷ややかな声で憲兵隊長が歩み寄る。
「第一軍の管轄であるこの街で、なぜ第三軍が皇帝陛下の勅命など持っている。その命令書、見せてもらおうか」
「ふんっ。本物だ、よく見ろ!」
徴発官は自信満々に羊皮紙を突き出した。
だが、その命令書を見た瞬間、憲兵隊長の顔色が変わった。
「……貴様、我々を愚弄しているのか?」
「な、何を言っている! これは皇帝陛下が直々に……!」
徴発官が手元の羊皮紙を見て、言葉を失った。
グレンが昨夜塗った溶剤は、日光と空気に触れることで化学反応を起こす仕掛けだった。
赤みがかった黒の染料が、溶剤と反応して無惨に滲み、皇帝の署名部分がドロドロに溶け落ちていたのだ。
さらに、裏に重なっていた別の羊皮紙からは、第三軍ではなく第一軍が使っているはずの「青みがかった黒」の染料が透けて見えている。
「皇帝陛下の署名を滲むような粗悪な染料で書き、あろうことか我々第一軍の命令書まで偽造して持ち歩いているとはな。……完全な反逆罪だ」
「ち、違う! これは本物で……!」
「黙れ! 捕らえろ!」
憲兵隊長の号令で、徴発官とその部下たちはあっという間に武装解除され、石畳に叩きつけられた。
「離せ! 俺はただ命令に従っただけで……!」
無様に命乞いをする徴発官を、周囲の民衆が冷ややかな目で見下ろしている。
奪われていた荷車はそのまま放置され、民衆は自分たちの食糧を静かに取り戻していった。
魔法も剣も使わない。
ただ染料の性質を知り尽くした雑貨屋の知識が、理不尽に民衆を泣かせる悪党を「大罪人」に仕立て上げ、自滅させたのだ。
*
商業都市の安宿。
薄暗い部屋のベッドの上で、グレンは徴発官の天幕から抜き取ってきた書類の束を一つ一つ確認していた。
帝国内部の連絡網、将軍たちの派閥、物資の移動経路。
それらを把握するための作業だったが、グレンの手が、ある一通の封書の前でピタリと止まった。
「……」
その封書は、帝国の軍部から発せられたものではなかった。
宛先は伏せられているが、封を閉じている『蝋』の質が明らかに違う。
帝国で一般的に使われる松脂を多く含んだ硬い封蝋ではない。
蜜蝋と独自の染料が混ざった、しっとりとした深紅の封蝋。
「……王国のものか」
グレンの半分閉じた目が、鋭く細められた。
さらにその封蝋には、王都の中枢にいる高位貴族しか使えない特定の紋章が薄く押されていた。
イリスが王都で追っている内通者の影。
それが、帝国側の末端の書類にまで紛れ込んでいる。
「……繋がったな」
グレンは封書を懐にしまい、窓の外に広がる帝国の空を見つめた。
王都の腐敗と、帝国の狂気。
その二つを結ぶ巨大な線が、ついにグレンの目の前にその姿を現そうとしていた。




